一日目 ギロッポンの夜
マンションに着き、オートロックの玄関でインターホンを鳴らす。しばらくするとスピーカー越しに通話が繋がる音がした。
『どちら様ですか?』
低い、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「すーた」
『知りません』
即答され、通話が切れた。俺は軽く舌打ちをし、もう一度三ケタの部屋番号を入力した。そしてエンターボタンを押す。間を置かず、またその部屋の住人が通話口に現れた。
『何なんですか?』
さっきよりも怒った口調。
「きみ、開けたまえよ」
俺は少しムッとした声で言ってやった。
『……』
返事が無い。知らない間に通話は切れていたようだ。俺はまたインターホンを押した。
『はい』
もう三度目だ。俺はさっきとは打って変わったように声を弾ませた。
「きみだけのアイドル、すーちゃんだよ!早く開けてくれないと、きみのハートをズッキューン!」
カチャン――
鍵が開いた。今回は、正解だったらしい。
俺は心なしか、重い体を引きずりながらエレベーターに乗り込んでいく。今後、居候に鍵を開けてもらうとき、さっきと同じようなことをしなければならないのかと思うと、少々憂鬱な気分に落ちた。
「やあ、帰ったよ」
「……」
部屋の奥の方からは、何やらローラーを転がしているかのような機械音が、ひっきりなしに部屋中を騒がせていた。――相変わらず汚い部屋。居間に入ると、居候がベッドの上に大きく横たわり、携帯を触っている。彼の足はすっぽりと、マヌケな形状をした機械の上に乗せられている。さっきから鳴り響いている機械音の正体は、その小型マッサージ機だったらしい。
――まさか今までずっとそうしていたのだろうか?
つい、そう思ってしまうくらい、彼の体勢は俺が出発する前となんら変わっていなかった。俺はとりあえず自分のマットレスの上に、仰向けになってみた。何の警戒心も無く、真っ裸で大の字になってみるのは、すこぶる愉快な気分だった。
アゴを引き締めて自らの下半身を覗き込んでみる。全て寝そべった俺の体の中心には、一部分だけフニャリと、かろうじて起立していた部位があった。暇だったので、ためしにそれを手でクニクニとこねくり回してみた。やはり、愉快だった。
すると、まるでタイミングを合わせたかのように居候がガバッと跳ね起きる。
「飲みに行くぞ!」
いま言うか、と思った。
「もうちょっとゆっくりしよう」
俺はといえば、すでに取り出していた携帯を片手に、堂々と布団に沈み込んでいるところだ。
「うるさいねん!はよ起きろや。てか何で裸やねん!」
バタバタ準備をし始めた居候に反し、俺はいつまでもぐずぐずと寝ころんでいた。
部屋のテレビは電源が付きっぱなしだ。何が放送されているかは一発で分かった――『コナン』が放送されているところだった。何気なく『コナン』を見ていると、その中ではもうすでに誰か一人が殺されているらしい。コナンと警部たちがその事について話し合っているところだった。
その時――『うらなり君』というセリフが聞こえた。俺は反射的にパッと飛び起きて誰に言うでもなく声を発していた。
「あ、夏目漱石の『坊ちゃん』じゃないか」
居候は俺の言った事については何も反応せずに、ただガサガサと出かける用意をしていた。
「居候くん、夏目漱石を知っているだろう? これ、見てみろ、『坊ちゃん』だよ」
またしても彼に無視された。ひょっとすると、俺の言っている意味が分からないのだろうか。
「これはひょっとすると……『坊ちゃん』を題材にした話なのかな? だってこれが赤シャツだろ? これは……野田に違いない!」
「お前さっきから何を言ってんねん」
居候がやっと反応を示した。
「これコナンやんけ!」
「分かってるよ!コナンだけど、これは坊ちゃんを題材にした話なんだと思う。見たこと無いけど、絶対そうだ」
内容を見ていくと、だんだんと物語の全容が見えてきた。どうやら舞台は、『坊ちゃん』を演じる劇場が舞台で、そこで起こる殺人事件の話のようだ。だれが坊ちゃんで、だれが山嵐で、だれが狸か、不思議と見た途端に一発で分かった。すると居候も物語の内容を見ているうちに、ようやく俺が騒いでいる理由が分かったらしい。
「お前って、ホンマどうでもいい事知ってるよな」
そんな事を呆れ気味に言ってきた居候をふと見ると、彼はもう出発寸前の出で立ちをしていた。俺はまだ『コナン』を見ていたかった。
「はよ起きな置いてくで。良いんか? 良いねんな? じゃあバイバイおやすみ」
しかし彼はそれを許してくれない。居候は畳み掛ける様にそう言うと、そのまま部屋を出ようとした。
「あ!こら!待て!行くよ、すぐに行くから!置いてかないでくれ!」
やむなく、俺も布団から飛び出した。予備で持ってきていた服に着替え、俺も慌てて部屋を飛び出していった。
――――
時刻は18時半。9月19日、夏の終わり、ちょうどよい、涼しい季節だ。
すっかりと更けた夜の風が、シルクの様にからだ中の肌を撫で上げる。その心地よさが、どことなく俺を物悲しい気持ちにさせた。
秋は、快適だ。空気は優しく、心地よい。それは、季節の狭間に一瞬だけ訪れる、夢の様な儚い時間だ。
しかし、俺はこんな幸せな時間を、何よりも恐れた。
どんな幸せが訪れようと、必ずその後には不幸が待っている。秋の後には、俺の大嫌いな冬が待っている……ただ耐える事のみを強いられる、厳しい極寒の季節が。
この世に永遠なんてものは無い。いつか必ず終わりがやってくる。俺はいつだってそうだ――『終わり』を恐れる。不幸を恐れ、幸せを恐れ、そしていつか、この命が終わる事も……
だから俺は、秋が、嫌いだ。
「すーちゃん」
居候が柄にもなく、優しい声で俺に呼びかけた。
「アレ、写真撮っといたほうがええよ」
彼の指差した先にあったのは、何の変哲も無いただの高架だった。
「有り難いものなのかね?」
疑り深く尋ねた俺だったが、一応スマホだけはポケットから取り出しておいた。
「あの高架にROPPONGI・ROPPONGIって書いてあるやろ?アレ、有名なやつやねん」
「なに? 六本木だと……⁉ 何をバカな事を……そんな訳があるか!」
俺は彼を怒鳴りつけた。
「何を怒ってんのか分からんけど、ちょっと歩いたら六本木やねん。とにかくアレは有名なやつやし写真撮っといたらどう?」
俺はぜんぜん納得が出来なかった。俺にとって、六本木というのはテレビとかでしか見ることのない幻想の街だ。俺みたいな人間などは近づくことも出来ない遠い街、という認識だ。だからなんとなく俺にとっては、その幻想の街が自分がいま寝泊まりしているところのすぐ近くにあるという現実が、にわかには信じ難いことのように思えた――というよりかは、納得が出来なかったのだ。
しかしそう言いながらも、俺は言われた通りにスマートホンのカメラを起動する。正直あの景色には何の価値も感じ得ない。そもそもあんなものが有名だなんて初めて知ったのだ。
だが価値があると言われれば、撮っておかないと損だという心理も働いてくる。ちょうど台湾に居た時、台北車站の近くにある承恩門跡地の写真を撮った時の事を思い出した。いつも俺が何気なく素通りしているような変哲も無い所だったのだが、俺が毎度毎度この場所を通りかかるたびに、誰かしらがこの門を携帯カメラで撮影している。俺は、もしかしたらここは有名な場所なんだろうかと、ふとそう考えた。そして、俺も一緒になって写真を撮ってみた。もちろん、何の感動も無かった。俺は特別、その跡地に何の“有難み”も感じなかった。あとで聞くと、その承恩門とやらは1880年代に存在した台北城の、北門に当たる部分だったらしい。そもそも台北城が何なのかすら分からなかったため、やはり俺には何の“有難み”も感じられなかった。
「ねえ、居候くん!」
俺はスマホを携え、荒野を駆る戦場カメラマンのように適切なスポットへと接近していく。
「飲みに行くって言ってたけど、いったいどこへ飲みに行くつもりだい⁉」
俺は悪い予感を感じていた。しかし、そのまさか、俺の悪い予感はすぐに的中した。
「そりゃあ六本木に決まってるやろ」
「きみはバカだ!」
俺は罵りながら、カメラのシャッターを切った。
――――
高架沿いに、俺達は歩いていった。左側では車がビュンビュンとすれ違っていった。
「きみはバカだ!そもそもが、バカだ!だいいち、大バカだ!」
俺は口を極めて彼を罵っていた。居候はそんな俺を見向きもせず、ただ煩わしそうに前だけを向いて歩いていた。
「心配しすぎや。そら六本木は高級なイメージあるやろうけどな、俺に任せとけば大丈夫やって」
「大丈夫な訳があるか!ギロッポンだぞ、ギロッポン!ギロッポンで酒なんか飲んでみろ!ドンペリのドンペリ割が出てくるに違いない!支払いも全てドンペリで支払う事になるはずだ!なにせ流通通貨がドンペリなのだからな!」
「それもう物々交換やん。文化レベルが逆戻りしてんぞ」
彼は一向に真面目に取り合おうとしない。
やいやいと言い合いながら、気が付けば俺達はすでに繁華街へと入りこんでいた。
「おい、どこかに酒屋は無いのか? そこでドンペリを買おう。どうせドンペリを飲まされるのだ。酒屋でドンペリを出来るだけ安く買いたたいてから、ドンペリの支払いをドンペリで支払おうじゃないか」
しかし俺が名案を出したにもかかわらず、居候は俺を無視して迷いない歩みでズンズン前へと進んでいく。
「ちなみにここ、ラファエルが行きつけのバーやで」
彼はある一点を指さして俺に紹介してきた。そういえば朝ラファエルの話をしていたか。
しかし俺はチラとその場所を一目見ただけで、その光景を微塵も記憶にはとどめなかった。
今の俺は、そのようなことなど気にも掛けられないような状態だった。ただただ自分の財布の中身が心配なのである。
すると居候はふいに、悠然とした態度で俺に目を向けた。
「まあ、まずは普通の居酒屋で一杯飲もうや」
にっと笑った居候。――俺はホッと胸を撫で下ろした。普通の居酒屋であればそう値段も掛からないだろう。したがって会計の時にお金が足りない、なんてことも無いはずだ。安心しきった俺は、財布の中身すらも確認せず、ホイホイと居候のあとへとついて行った。
そしてとあるビルにたどり着いた俺達は階段を上がり、店へと入っていく。入り口のドア窓には、渋い文体で『薫風』と書かれてあった。




