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麻布十番の居候  作者: そーた
13/52

一日目 実はしばらくの間イチローが引退した事を知らなかった。 


 店内は薄暗かった。しかしそれが却ってオシャレな雰囲気を醸し出していた。ドアをくぐると細い通路。突き当り左に折れる通路から、店員と思しき女の子がひょっこりと顔を出した。


「ひさしぶり、みーちゃん」


 居候は慣れた様子で挨拶を交わす。その様子から察するに、彼はもう幾度となくこの店に通った事があるのだろう。


「ああ!いらっしゃいませ!お席の方、用意してますよ!」


 頭にバンダナを巻いた金髪の店員は、愛嬌のある笑顔で俺達を右側へ折れる通路へと案内した。


「ちょ、その前にトイレ行ってくるわ」


 そんな一言だけ残して、居候は姿を消した。俺は通された空間をざっと見渡す。


「ずいぶん広いな……」


 右に曲がった通路の先は、だだっ広い一室だった。およそ十人掛けぐらいの大きな長テーブルが真ん中に、周囲の壁の棚、窓枠、机には所狭しと酒瓶が並べ立てられている。

 窓側とは反対側の、ちょうど長テーブルの中ごろの席に俺は腰かけた。

 まず最初に目に入ったのは、テーブルの真ん中に備え付けられている小さなビンだった。蓋が掛かった楕円のガラス瓶に、なにやら小さな丸薬が大量に詰め込まれている。長テーブルの右側、左側にもそれぞれひとつずつ、合計三つがまるで卓上を飾り付ける花瓶のように規則的に並べてあった。


「失礼しまーす」


 先ほどの店員の女の子が、明るい声で俺の前に、水の入ったグラスを“二つ”、差し出した。

 二つ出されたことが奇妙だった。一つは、これは確実に水の入ったグラスだろう。しかし、もう一つはなんだ? もう一つのグラスに入った液体は、薄く、黄色掛かっていた。


「珍しい色だ。これは水かね?」


 思わず、そう尋ねていた。


「いえ、これはウコンですよ」


 彼女が答えた。


「ウンコだって?」


「いえ、ウコンです」


 俺はまたまじまじとその奇妙な液体を見つめる。なんだか、白髪の博士が実験の結果に生み出した奇天烈な薬のようだった。


「ちなみに、これはなんだね?」


 次に、俺はさきほど目に留まった丸薬が詰め込まれた瓶を指さした。

 彼女は答えた。


「ウコンです」


「ウンコだって?」


「いえ、ウコンです」


「きみ、ふざけないでくれたまえ」


 思わず俺はそう口走っていた。じっとりと射抜くような俺の視線を受け、彼女の笑顔が少し強張った。


「じゃあなんだい? 東京の人はウコンをウコンで飲みこむのかい? 寿司の上に寿司を乗せて食うようなもんだぜ?」


 彼女を困らせていると、ちょうどそこに居候が戻ってきた。彼は俺達のやりとりを把握すると、やっつけに手早く説明した。


「だから!これがウコンでこれがウコンや!分かったらさっさと飲め!」


 全然わからなかった。店員の彼女が辛抱強く俺に説明を繰り返した。


「まあ、どちらを飲んでもらってもいいですよ。いちおう二種類用意しているだけなので……」


 まったく意味が分からなかったが、とりあえず一つだけ分かった事は、たぶんこれは一種の“見せかけ”なのだろう。リッチな雰囲気をアピールする為にわざとこんな不合理をしているわけだ。俺はこういった類の非合理さがべつに嫌いではなかった。


「よく見ておきなさい、きみ。俺はね、このウコンをね、このウコンで呑み込んでやるんだよ」


 そして俺はビンの中からウコンの丸薬を鷲掴みに取り出す。


「しかもこの量だ。これがもし睡眠薬だったら俺はたちまちお陀仏になってしまうところさ」


「ええからはよ飲め。睡眠薬飲め」


 向かい側に座っている居候の言葉を無視して、俺はウコンの丸薬をウコン水でもって呑み込んだ。


「あと、すーた」


 彼は椅子に深くもたれ掛かりながら、携帯電話に目を落としていた。


「その席にもう一人来るで」


 さっと彼が指さした先には、俺が座っている席の左隣。いつのまにかその席にも、水とウコンのグラスが一つずつ用意されていた。店員である彼女は他に仕事があるのだろうか、奥へと引っ込んでしまってそれっきり出てこなかった。

 

「メニューはないかい?」


 そこで改めて、俺はテーブル上にはウコンのビン以外、何もないことに気が付いた。


「コース頼んでる」


 居候が当たり前のようにそう返した。俺はそれを聞いていささか不安な気持ちになった。俺は今日すでにハンバーガーを二回も食べている。さっきも食べたばかりだ。コース料理など頼んで、はたして食べきれるのだろうか?


「すーた、見て」


 するとその時、彼は何か面白いことでも思い出したかのように、急にテーブル上に身体を乗り出した。そしてニヤニヤと俺の反応を確かめるように、奥の壁際を指さした。その壁にはなにやら一枚の額面が、大袈裟に飾られていた。


「この店な、二日前にイチローが来たらしい」


「イチローだって?」


 俺は壁に掲げられている額面に目を凝らす。ガラスの向こう側には、先ほどの店員が着ていたのとまったく同じTシャツが、大仰に飾りつけられていた。Tシャツの背中部分にはやはり店員のものと同様に、大きく『薫風』という文字が印字されていた。

 しかしその印字された文字の右下のほうに何やら、白いマーカーペンか修正ペンで書かれたような手書きの文字が、チョコンと割り込むようにして控えめに存在した。ぐにゃぐにゃした文字だった。字が汚いからか、遠いからか、何が書いてあるのかよく見えなかった。

 俺は感心しつつ席を立ち、より近くで見ようとそのTシャツに近づいた。そんなとき、俺の背後から声が掛けられた。


「それ、イチローのサインなんですよ!」


 振り返ると先ほどの店員の女の子が誇らしそうな表情でこちらを見ている。俺はまた額縁のなかのTシャツに目を向けてみる。これはイチローのサイン――その情報を持ってして、俺は改めてそのサインを見てみた。たぶん、鈴木イチローと書いてあるのだろう。しかしそうやって当たりをつけて読んでみても、やはり蛇が蠢いたようなこの字はなんら文字として機能しておらず、いったいなんと書いてあるのかについてはついに判別し得なかった。


「先に飲み物聞いておきましょうか?」


 注文表を手に待機していた店員に対し、俺たちはビールを頼んだ。店員は注文を聞き届けると、そのまま奥へと身を隠した。

 店員が去ったあと、俺は店内をグルリと見渡していた。想像を膨らまし、この場を二日前へと遡らせてみる。俺はなんとか、二日前この場にイチローが居たという事実を実感しようとした。

 この場で、いま俺が吸っている空気と同じ空気を、イチローも吸っていた。どんな服装で、どんな顔をして、どんな事を考えながら酒を飲んでいたのだろうかと、俺は勝手な想像を膨らませていた。このようなオシャレな場所に来て、贅沢をして、彼はさぞ調子に乗っている事だろう――と、率直にそう思った。しかし、それが許される人物だとも思った。

 

「おまたせしました!」


 元気な声で現れた店員が、ビールと付き出しを持って現れる。俺と居候はさっそく乾杯した。

 

「お疲れっす」


「お疲れ様」


 俺達はジョッキを軽く突き合わせると、俺はとりあえず思い切り一口、ジョッキを煽ってみた。

 針を刺す刺激の塊がノドをグッと通過し、それが胃の中へと流れ込んでいく。すると途端に、ハアッと熱く火照ったため息が口からポッと吐き出された。

 ビールの一口目は、やはり苦い。これは果たして、認めて良い感情なのかどうかわからないが、実は俺は、ビールのあの白い泡というのが、どうにも邪魔で仕方がないのだ。

 どれだけ大きな一口を煽っても、最初の一口目と言うのはどうにもなかなかビール本体に有りつけない。口の中の半分は、あのスカスカの軽い泡で満たされてしまう。

 しかし、だからと言って泡なしのビールと言うのもどうだろうか? それはそれでなんだか、まるで大事なものを欠かしているようで味気ない。だから一口目はどうも、無意識的な“我慢の感情”が働いてしまうのだ。

 次に、“付き出し”に手を付けた。白の細長い板の様な皿に、五つのくぼみが設けられている。五つともそれぞれ別の種類のつまみで、それらはすべて魚介類だった。一口食べてみた。

 

「やけにうまいな」


「やろ?」


 俺の舌が単細胞だということもあると思うが、それでも、たしかに上手かった。


「それだけじゃないで」


 居候は付き出しを一種類ずつ、一口のもとにポイポイと平らげながら、さらに言葉を続けた。


「この店、あの女の子が付きっきりで喋ってくれるからな」


「そんなバカな。キャバクラじゃあるまいし、そんな訳があるか」


 思わず呆れてしまった。俺のジョッキのビールはすでに半分以下になっていた。


「あの子可愛いやろ?」


 そう尋ねてきた居候。俺は今しがたまでここに居たあの店員の顔を思い出してみる。明るい金髪の髪、小さいつぶらな目はやや気の強そうな印象があった。過去、ああいった類の女の子が、俺のような人間と“対等”に話をするなどというケースはほとんど無かった。しかしあの子はやけに愛想が良い。ライトの光を真正面から見るのと、別な角度から見るのとでは、やはり“見え方”が違うのだと思う。


「悪くないね」


 そう答えながら、俺は箸をいったん皿の上に休める。そしてテーブル上に置かれた食べ物たちを眺めながら、手を合わせた。


「いただきます」


 呟いて、また、さまざまな事に思いを巡らせる。神経を集中させた。


「おまたせしました!こちら、前菜のポテトサラダです」


 折悪く、店員が料理を運んできた。彼女は俺の前に黄色い、何かグチャグチャしたものを置いた。


「……?」


 俺の視界の外に居る彼女。彼女の様子は見えないが、たぶん俺のただならぬ雰囲気に、怪訝な感情を抱いていることだろう。すると、俺の視界の奥に映る居候が、そんな彼女の様子に気が付いたようだ。


「放っといてあげて。いまコイツ、お祈りしてる最中やねん」


「え、お祈りですか?」


 “お祈り”という言い方が気に食わない。俺は別に、そんな高尚な事をしている訳では無い。ただ自分自身の理不尽さ、罪深さを改めて認識しようとしているだけだ。しかし今は“想像”を巡らせることだけに専念した。決して彼らの言葉に耳を傾けてはならない。


「何か宗教とか……」


「しらん。たぶん『すーた教』かなんかやろ。教祖、すーた。信者、一人、コイツだけ」


 明らかに馬鹿にしている居候の声が聞こえる。しかし俺はそんな彼の事など気にも掛けず、ただ“それ”を続けた。

 しかし、居候は尚も、大きな声で嘲笑いながら彼女に言った。


「しかもコイツな、もう食べ物に手付けた後にお祈りしてんねんで。意味わからんやろ⁉」


「違う!ただ忘れていただけじゃないか!」


 俺は我慢ならず、つい言い返してしまった。しかし俺の反論はどうも不味かったらしい。


「忘れんなよ!」


 彼をよりいっそう大笑いさせてしまった。


「こいつ大学の時も、たまに飯全部食べ終わった後にお祈りしたりしたこともあったからな!」


 俺の顔が熱くなったのは、ただ酒のせいだけじゃないだろう。俺は恥ずかしくて店員の顔をまともに見る事が出来なくなった。そんな時、居候はさらに追い打ちをかけてきた。


「お前さあ。さっき友達と飯食いに行ったんやろ? その時もお祈りしたん?」


 彼の一言に、俺はハッと身を震わせた。


「……忘れてた」


 またもや居候が爆笑した。隣に控える店員も笑いを押し殺しているように思われた。


「もういいじゃないか!俺に構わないでくれ!なんだ!まったく、俺をバカにして!不愉快な気分になってしまう!」


「いや、動物死ぬところ想像して勝手に不愉快な気分になってる奴に言われた無いわ」


 彼の言った事は至極正論だった。しかし幸いなことに、それっきり彼は俺をからかうのを切り上げてくれた。――そしてまた、食事を再開した。

 俺はさきほど目の前に用意された、『ポテトサラダ』をじっくりと見つめてみた。黄色い、ぐちゃぐちゃのそれは、どうみても『ポテトサラダ』には見えず、どちらかというとスクランブルエッグに見えた。ほとんどが、みじん切りにされたゆで卵で構成されていた。上部はブラックペッパーで彩られている。底には4分の1サイズに切られたゆで卵がチラリと顔を見せていた。俺は箸を持ち、その料理に手を付けようとした――

 しかし、小さな、はたから見ても全くどうでもいいと思える様な小さな事柄が、俺の心にたしかな違和感を残して引っかかっていた。俺は箸をおいた。

 そして、手を合わせた。


「お前、さっきお祈りしたばっかやろ!」


 居候はもはや笑いを通り越して呆れかえっている様子だった。


「ち、違うんだ。これは、“これ”に対してのお祈りでは無い!」


 呆れかえっていたのは、俺も一緒だった。俺の放った訳の分からない言葉は、当然居候にとっても訳が分からなかったらしい。彼はそれ以上何も聞かず、また食事を再開した。


「……」


 そしてしばしの沈黙があったあと、ふと彼は何かに気が付いたような反応をしてみせた。

 彼は、自分の目の前の、いま“お祈り”をしているこの俺に目を向けた。


「すーた、お前まさか……いま“お祈り”してんのって……」


 どうやら、彼はやっと、先ほどの言葉の意味が分かったようだった。俺は、もはや全身が真っ赤に燃え上がる様な感覚を覚えながら、震える声で告げた。


「こ、これは……さっき……友人と食事をする際に、し忘れた……分だよ」


 机を叩いて上半身を捩りまくる居候。もはや笑い声が声にも表れなかったようだ。俺はもう、自分でも自分が何をしているのかが分からなかった。




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