97:【月華の夜に】
「何を取りに来たの?」
満月の下、ザフィラが俺の腕へ絡みついたまま問いかけてくる。
逃げようと思えば逃げられるし、適当に話題を逸らすことだってできたけど、ここまで来て誤魔化す意味もない。そもそも五日前の時点で、素材採取も兼ねていること自体は最初から隠していなかった。
「……『月華晶』」
「げっかしょう?」
「そう。正式には『月華晶』って名前の魔石だ」
「魔石……」
ザフィラが少しだけ目を細め、それから案の定というような顔で俺を見る。
「やっぱり、素材を取りに来てたんじゃない」
「だから、それ“も”だって」
「本当に?」
「本当だよ。素材だけが目的なら、一日かけてこんなのんびり歩いて来てねぇって」
ゲーム時代の俺なら、最短ルートを全速力で駆け抜け、採取条件が揃う時刻にぴったり間に合うよう調整し、『月華晶』を取った瞬間に帰っていた。
温泉になんて入らないし、途中で弁当を広げることもなければ、道端の花を見るために足を止めたり、すれ違った商人と話したりもしない。
ましてや、誰かと手を繋ぎながら一日かけてここへ来るなんて、昔の俺なら考えもしなかった。
「今日はデートが先。『月華晶』はついで」
「…………」
「マジで」
「じゃあ、信じてあげる」
「そこは普通に信じてくれよ……」
「だって、ご主人様だもの」
「どういう意味だよ」
「素材を目の前にした途端、私のこと忘れて走っていきそう」
「…………否定しづらいのが嫌だな」
「でしょう?」
ザフィラが楽しそうに笑い、そのまま俺の肩へ頭を戻す。
けれど、その直後だった。
湖面に映っていた満月の位置が、ほんの少しだけ変わった。
「……ザフィラ」
「なに?」
「そろそろ来るぞ」
「何が?」
「見てろ」
俺は湖の向こうへ視線を向けた。
ここへは何度も来ていたから、条件そのものは身体が覚えているくらい知っている。
ただ満月の夜ならいいわけじゃない。
月がほぼ天頂へ達し、山々にも木々にも遮られることなく、この秘境全体へ月光が降り注ぐほんの短い時間。
その瞬間にだけ、この場所に咲く巨大な花は完全に開く。
ゲームなら時刻表示を見ていれば秒単位で分かったけど、今はそんなものはない。
それでも、空を見上げれば十分だった。
白い満月が、ゆっくりと俺たちの真上へ近づいていく。
あと少し。
もう少し。
そして。
「……来た」
俺が呟いたのと、ほとんど同時だった。
湖畔を取り囲んでいた巨大な花々が、一斉に動き始める。
「……え?」
ザフィラが小さく息を呑んだ。
それまで半分ほどしか開いていなかった青白い花弁が、降り注ぐ月光を浴びながら、ゆっくりと外側へ広がっていく。
一輪だけじゃない。
湖の周囲にも、森との境にも、その奥の斜面にも、少し離れた岩場にも。
視界に入るすべての花が、まるで百年以上ものあいだ同じ合図を待ち続けていたかのように、同時に花弁を開いていった。
そして、最後の一枚が開いた瞬間。
秘境そのものが、光に包まれた。
「…………」
俺は、言葉を失った。
満月を受けた花弁が淡い青白色の光を返し、その中心から無数の小さな光の粒が舞い上がっていく。
夜風に乗った光は湖面へ流れ、ひとつ、またひとつと水へ触れるたび、そこに小さな波紋と輝きを残した。
空には、本物の満月がある。
湖面にも、同じ月が浮かんでいる。
その二つの月を繋ぐように、数え切れないほどの光が夜空を漂っていた。
「……こんな……」
隣から、ザフィラの掠れた声が聞こえた。
「こんなに、綺麗なの……?」
「…………」
俺は、すぐには答えられなかった。
知っていた――。
この場所も、この時間も、満月が天頂へ昇れば花が開くことも、その先に何が起こるのかも。
全部、知っている。
攻略情報として。
データとして。
何度も来た。
何度も、この瞬間に立ち会った。
……いや、違う。
「…………」
俺は、今まで一度も見ていなかった。
ゲーム画面の向こうで花が開いたとき、俺が見ていたのは景色じゃない。
採取可能になるまでの残り時間だった。
発光が始まれば、あと何秒。
花弁がここまで開けば、もうすぐ採取ポイントが出現する。
どの花が最短で近いのか。
どの位置に立てば一秒でも早く回収できるのか。
俺が見ていたのは、そんなものばかりだった。
花なんて、見ていなかった。
湖も。
月も。
ここにあったものを、何一つ。
「……ご主人様」
ザフィラの声で我に返る。
花の中心へ、月光が集まり始めていた。
雌しべの先に生まれた小さな光が、周囲の魔力を取り込みながら少しずつ大きくなり、やがて透明な雫のような結晶へ形を変えていく。
その内側に、青白い光が灯った。
「……あれ?」
ザフィラが指を差す。
「ああ」
「もしかして……」
「『月華晶』だ」
満月の光を浴びて生まれる魔石。
結晶そのものはほとんど透明なのに、中心にだけ青白い光が宿っていて、見る角度によっては、本当に小さな満月が閉じ込められているように見える。
一つ、また一つと、湖を囲む巨大な花の中心へ『月華晶』が生まれていく。
その数が増えるたび、秘境を満たす青白い光も少しずつ強くなっていった。
「……すごい」
ザフィラの声が、わずかに震えていた。
「そうだな……」
「私、こんなの……初めて見た」
「俺も」
「……え?」
ザフィラが顔を上げる。
「来たこと、あるんでしょう?」
「ある」
「何度も?」
「何度も」
「それなら、どうして初めてなの?」
「…………」
少しだけ考えた。
でも、答えなんて最初から決まっていた。
「ゲームじゃ、採取したらすぐ帰ってたからな」
「…………」
「花が咲くことも知ってたし、光ることも知ってた。『月華晶』がどうやってできるのかも、何時に採れるのかも、どの花から取るのが一番早いのかまで覚えてる」
俺は湖へ視線を戻した。
月光を受けた湖が揺れ、その周囲を無数の光が漂っている。
「でも、景色として見たことはなかった」
「……もったいないわね」
ザフィラが、静かに言った。
昨日までの俺なら、たぶん笑っていた。
素材が取れればいいだろ、と。
景色を覚えて何になる、と。
そう答えて、さっさと目的のものだけ持って帰っていたと思う。
でも今は。
「……うん」
素直に頷けた。
「ほんと、もったいなかったな」
何度もここへ来た。
何度も同じ満月の下に立った。
何度も同じ花が開き、同じ光景が広がっていたはずだった。
それなのに、俺は一度も立ち止まらなかった。
そんな俺が今は、ザフィラと手を繋いで、何をするでもなくただ景色を見ている。
「でも」
ザフィラが小さく呟いた。
「ん?」
「今、見られたでしょう?」
「……まあな」
「だったら、それでいいじゃない」
顔を向ける。
ザフィラも俺を見ていた。
月明かりを映した金色の瞳が、ほんの少しだけ潤んでいる。
「……ザフィラ?」
「……なに?」
「いや……」
目元を見る。
「……泣いてるのか?」
「…………」
ザフィラが瞬きをした。
その瞬間、堪えていたものが零れるように、一滴の涙が頬を伝った。
「え……」
俺は思わず身体を向ける。
「どうした? なんか――」
「違うの」
「違う?」
「……悲しいんじゃない」
そう言ったザフィラは、泣いていた。
でも、その顔はちゃんと笑っていた。
困ったように。
嬉しそうに。
「じゃあ、なんで」
「……分からない」
「分からないの?」
「分からないわよ……」
自分で頬を拭う。
けれど、拭ったそばから、また一粒が零れた。
「たぶん……嬉しいの」
「…………」
「こんなに綺麗な場所へ来られたことも、ご主人様が私を誘ってくれたことも、今日は急がなくていいって言ってくれたことも」
言葉を重ねるたび、声が少しずつ震えていく。
「一緒に歩いて、お弁当を食べて、何でもないことで笑って、ずっと手を繋いで……温泉にも入って」
涙を浮かべたまま、ザフィラが少し笑った。
「さっきは、キスもしたでしょう?」
「……したな」
「三回も」
「数えてたの?」
「数えるわよ」
「そっか」
「それでね……」
繋いでいる手に、ぎゅっと力が入る。
「あなたは、ここへ何度も来たことがあるのに……ちゃんと見るのは初めてだって言うから」
「うん」
「その初めてを……」
ザフィラが一度だけ息を詰まらせる。
「私と見てるんだなって思ったら……」
「…………」
「……嬉しくなっちゃった」
最後まで言うと、ザフィラは少し困ったように笑った。
「……変?」
「いや」
俺はすぐに首を振った。
「全然」
「でも、泣くほどじゃないでしょう?」
「そんなの俺に聞くなよ」
「え?」
「お前が泣きたいくらい嬉しいなら、それでいいんじゃねぇの?」
「あなたの前で?」
「二人しかいないし」
「…………」
「それに」
頬を伝っていた涙へ指を伸ばし、親指でそっと拭う。
「嬉しくて出た涙なら、無理に止めなくていいだろ」
「…………」
ザフィラが黙った。
黒い耳が少しだけ下がる。
泣いているからなのか、照れているからなのか、それとも両方なのかは分からない。
「……リンドウ」
「ん?」
「……抱きしめて?」
「なんだよ急に」
「だって……」
「いいよ」
最後まで言わせる前に答えた。
「……おいで」
「…………」
次の瞬間、ザフィラが俺の胸へ飛び込んできた。
「うおっ」
思っていたより勢いがあって少しだけ後ろへよろけたけど、そのまま両腕を背中へ回して受け止める。
「……ご主人様」
「うん」
「今日、本当に嬉しかった」
「まだ終わってないぞ」
「知ってる」
「これから素材採るし」
「そうじゃなくて」
「分かってるよ」
胸元から、小さな笑い声が聞こえた。
背中へ回した腕を、ほんの少しだけ強める。
「……ありがとう」
「俺も」
「……何が?」
「……来てくれて」
「…………」
「……一人だったら、たぶん今回も『月華晶』しか見てなかった」
「でしょうね」
「そこは否定してくれない?」
「だって、絶対そうでしょう?」
「……まあ、そうだけど」
二人で少し笑ってから、ゆっくり身体を離した。
ザフィラの目尻にはまだ涙が残っている。
でも、すごくいい顔をしていた。
「ねえ」
「ん?」
「次からも」
「次?」
「あなたが知ってる綺麗な場所を思い出したら、私に教えて」
「素材があるところ?」
「なくても、ね?」
「…………」
「何もなくても、行きましょう」
「俺と?」
「他に誰がいるのよ」
「……そっか」
その言葉が、妙に胸へ残った。
次――また、別の場所。
今日という一日が終わったあとにも、まだ一緒に行く場所がある。
そんな当たり前の未来を、ザフィラは何でもないことみたいに口にする。
でも俺にとっては、そういう言葉がまだ少し眩しかった。
昔の俺は、次の目的地しか考えなかった。
次のボス。
次の装備。
次の記録。
そこに誰がいるのかなんて考えもしなかった。
なのに今は……。
次に見つけた綺麗な場所へ、誰と行きたいかまで決まっている。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「忘れない?」
「忘れねぇよ」
俺は少し笑って、ザフィラの左手を取った。
その薬指には、俺が作った赤金色の指輪がある。
周囲を埋め尽くす『月華晶』とは全然違う色なのに、満月を受けたそれは、俺には不思議なくらい綺麗に見えた。
「次に見つけたら、また誘う」
「約束よ?」
「約束」
指を絡める。
それだけで、何となく本当に約束になった気がした。
「…………」
「何?」
「いや」
綺麗だと思った。
月も。
湖も。
咲き誇る花も。
月光を閉じ込めた『月華晶』も。
それから、泣いたあとで少し目元を赤くして笑っているザフィラも。
「また見てる」
「今日はもういいだろ」
「何が?」
「見ても」
「…………」
ザフィラが少しだけ照れたように笑った。
「……いいわよ」
「そっか」
「今日だけじゃなくても」
「…………」
「いつでも」
「……お前さ」
「なに?」
「今日、ほんと強すぎ」
「ふふっ」
また笑った。
今度は涙じゃない。
ただ、嬉しそうに。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
――今度こそ、ちゃんと覚えておこう。
この場所を。
この月を。
今ここにいる、こいつの顔を。
攻略情報じゃなく、記録でもなく。
俺自身の記憶として。
♢
しばらくして、俺たちは目的の花の前まで移動した。
「これ?」
ザフィラが巨大な花の中心を覗き込む。
「そう」
雌しべの先には、拳より少し小さいくらいの『月華晶』ができていた。
透明な結晶の内部には青白い光が丸く浮かび、まるで小さな満月がそのまま閉じ込められているように見える。
「……綺麗」
「人気あった理由は分かるだろ?」
「これ、武器に使うの?」
「使う」
「もったいなくない?」
「昔も大体みんなそう言ってた」
「みんな?」
「俺が生きてた時代の話」
「ああ」
俺は『月華晶』を傷つけないよう、持ってきた採取用の器具を取り出した。
「昔は、基本的には観賞用とか宝飾品扱いだったんだよ。魔石ではあるんだけど、普通に使ったところでそこまで強くない」
「そうなの?」
「魔力の増幅もそこそこだし、特定の属性を強くするわけでもない。それなのに満月の夜しか採れないから、戦闘目的だけで考えるなら売った方が早いって扱いだった」
「でも、あなたは使い方を知ってるのね」
「ああ」
知っている、ゲーム時代から。
だからこそ、俺はフュンを作れた。
「ヒヒイロカネと組み合わせるんだ」
「ヒヒイロカネと?」
「ただ混ぜればいいわけじゃない。決まった配合と加工条件があって、それを満たしたときだけ『月華晶』の性質がヒヒイロカネの魔力経路と綺麗に噛み合う」
「どうなるの?」
「術式を撃ったあと、次の術式へ移るための魔力再収束が異常に速くなる」
「……つまり?」
「魔法の連射がめちゃくちゃ速くなる」
「最初からそう言いなさい」
「今の説明も分かりやすかっただろうが」
「長いのよ」
「技術者にそれ言うんか……」
笑いながら、結晶の根元へ器具を差し込む。
花そのものを傷つけないよう、角度を少しずつ変えながら慎重に力を加えていく。
焦る必要はない。
もう、昔みたいに一秒を争っているわけじゃない。
やがて小さな音がして、『月華晶』が花から外れた。
「取れた」
掌へ乗せる。
重さは大したことない。
けれど、内部には確かに濃い魔力が宿っている。
間違いない、ゲーム時代に何度も手にした素材。
『月華晶』。
「一個で足りるの?」
「フュン一本なら、これで十分」
「こんなにたくさんあるのに?」
ザフィラにつられて周囲を見渡す。
湖を囲む数え切れないほどの花、そのほとんどに同じ結晶が生まれている。
「取ろうと思えば、もっと取れるけどな」
「取らないの?」
「いらない」
「売れば高いんでしょう?」
「まあ、高い」
ゲームだった頃なら、時間いっぱいまで回収したこともある。
どうせ次の満月になれば同じ場所へまた生成される。
リポップする。
そういう仕様だと知っていたから、残しておく理由なんてなかった。
でも、ここはもうゲームじゃない。
「必要な分だけでいい」
「……珍しい」
「何が?」
「あなたなら、全部持って帰りそうだったから」
「俺を何だと思ってんだよ」
「鍛冶馬鹿?」
「否定できねぇ……」
苦笑しながら、掌にある一つだけの結晶へ目を落とす。
「昔なら、次にまた出てくるって分かってたから全部取れた。でも今は、本当に同じように戻るかなんて分からない」
「そうね」
「フュン一本作れりゃいいんだ。だったら、俺に必要なのはこれ一個だけでいい」
採取した『月華晶』を、持ってきた保存容器へ丁寧に収める。
「残りは」
もう一度、湖畔を見た。
無数の巨大な花が青白い光に包まれ、その中心で月の欠片みたいな結晶が輝いている。
「次にここへ来る誰かの分でいいだろ」
「…………」
ザフィラが、少しだけ笑った。
「何?」
「なんでもない」
「その顔、絶対なんかあるだろ」
「昔のあなただったら、言わなさそうだなって」
「俺もそう思う」
「褒めてるのよ?」
「じゃあ、ありがたく受け取っとく」
立ち上がる。
これで採取は終わった。
つまり、本来の目的は達成した。
昔なら、ここで終わりだった。
素材を取った。
目的達成。
だから帰る。
それだけ。
けれど今日は、立ち上がったあとも足が帰路へ向かなかった。
「……なあ」
「なに?」
「もうちょい、見てく?」
俺からそう聞くと、ザフィラが目を丸くした。
「いいの?」
「満月、まだ出てるし」
「素材はもう取ったでしょう?」
「取ったけど」
「だったら、どうして?」
「…………」
こいつ……絶対、言わせたいだけだ。
でも、もういい。
今日は散々、思ったことを言ってきた。
今さら一つ増えたところで同じだ。
「綺麗だから」
「…………」
「お前と、もう少し見てたい」
その瞬間――。
ザフィラの金色の瞳が、また少しだけ潤んだ。
「ほんと今日は涙腺緩いな、お前」
「泣いてない!」
「泣いてるじゃん」
「これは、さっきの残り!」
「涙に残りとかある?」
「あるの!」
泣きながら笑う。
さっきまでの涙とは少し違った。
今度は、もう隠そうともしていなかった。
ザフィラは笑いながら俺の手を取る。
「じゃあ」
「うん」
「もう少しだけ」
「ああ」
二人で湖のほとりへ戻った。
満月はまだ、空の高いところにある。
巨大な花々も、その中心に生まれた『月華晶』も、変わらず青白い光を放ち続けていた。
ゲーム時代、俺はこの場所へ何度も来た。
だから、ずっと知っている場所だと思っていた。
でも、たぶん違ったんだ。
座標を知っていることと。
素材の出現条件を知っていることと。
そこで何を見て、誰と笑って、どんな気持ちで時間を過ごしたのかを知っていることは、全然違う。
俺はこの場所の攻略法を知っていた。
でも、この場所そのものは知らなかった。
今夜、ザフィラと一日かけて歩いて。
一緒に飯を食って。
何度も足を止めて。
温泉に入って。
手を繋いで。
月を見て。
花が咲くのを待って。
泣いているザフィラを抱きしめて。
ようやく――俺は初めて、ここへ来たんだと思う。
隣にはザフィラがいる。
手の中にあるのは、必要な分だけの『月華晶』。
昔なら、それだけじゃ足りないと思ったかもしれない。
取れるなら全部欲しい。
早く帰って次へ進みたい。
一秒だって無駄にしたくない。
そう思っていた。
でも今は、これで十分だった。
必要なものを一つだけ持って。
大切な奴と、もう少しだけここにいる。
それでいい。
いや――。
たぶん今の俺には。
それが、何より贅沢だった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、満月の秘境で『月華晶』が生まれる夜でした。
リンドウは、この場所へゲーム時代に何度も来ています。
花が咲く時間も、『月華晶』が生成される条件も、一番効率よく採取できる場所も知っていました。
けれど、今回初めて気づきます。
攻略法を知っていることと、その場所を知っていることは、同じではない。
何度も見ていたはずの満月も、湖も、花も。
ザフィラと一緒に立ち止まって眺めたことで、ようやくリンドウ自身の記憶になりました。
そしてザフィラにとっても、リンドウの「初めてちゃんと見た景色」を一緒に見られた夜です。
「次も一緒に行こう」と言えること。
今日が終わっても、その先にまた二人で行く場所があること。
そんな小さな未来を、今回は大切に書きました。
ちなみに『月華晶』は一個だけ採取。
ゲームなら次の満月に復活すると分かっていた素材も、この世界では同じ保証はありません。
必要な分だけ持ち帰り、残りは次にここへ来る誰かのために。
……リンドウ、本当に少しずつ変わってきました。
次回はいよいよ、持ち帰った『月華晶』とヒヒイロカネを使い、かつての愛杖『フュン』の製作へ。
満月の夜に持ち帰ったものが、どんな形になるのか。
次話もよろしくお願いします。




