96:【月の下で】
結局、温泉には思っていたよりもずっと長く浸かっていた。
最初こそ隣にザフィラがいることを意識しすぎて落ち着かなかったけど、しばらくすれば湯の温かさにも慣れてきて、他愛もない話をしながら満月を眺めるくらいの余裕は出てくる。
もっとも、ようやく慣れてきたと思った頃にザフィラが肩へ頭を預けてきたり、繋いでいる指を気まぐれに動かしたりするものだから、そのたびにせっかく戻ってきた余裕を根こそぎ持っていかれたんだけど。
「……そろそろ出るか?」
頭上の月を見ながら聞くと、ザフィラも俺の肩に寄りかかったまま視線を上げた。
「そうね。これ以上入ってたら、さすがにのぼせそう」
「俺はまだ平気だけど」
「ご主人様、さっきから顔赤いわよ?」
「……温泉だからな」
「本当に?」
「……九割くらい」
「残り一割は?」
「……聞くなよ」
「ふふっ」
楽しそうに笑われた。
ここへ来てから、ずっとこんな調子だ。
俺が何か言えば拾われ、誤魔化そうとすれば顔に出ていると言われ、仕返しに何か言えば今度はザフィラの耳が赤くなる。
たぶん、どっちもどっちなんだと思う。
「じゃあ私、先に上がるわね」
「おう」
ザフィラが立ち上がろうとして、繋いでいた手を離そうとする。
けれど。
「…………」
「…………」
指が離れない。
いや、違う。
俺が離していなかった。
「ご主人様?」
「……あ」
自分たちの手元を見て、ようやく気づいた。
「……悪い」
「別にいいけど」
そう言いながら、ザフィラの方もすぐには指をほどかなかった。
ほんの数秒だけ、何をするでもなく手を繋いだままでいて、それから名残惜しそうに、ゆっくりと指が離れていく。
たったそれだけのことなのに、急に隣が少し遠くなった気がした。
「着替えたら、湖の方にいるわ」
「分かった」
「覗いちゃ駄目よ?」
「することしといて今更だろ……」
「ふふっ、冗談よ」
「覗かねぇって」
「……残念」
「だから何が残念なんだよ……」
ザフィラは答えず、笑いながら岩陰へ消えていった。
一人になった温泉で、俺は深く息を吐く。
「……強ぇなぁ、ほんと」
戦えば、俺の方が強い。
そういう話じゃないのは分かってる。
でも今日に限って言えば、朝から完全に押されっぱなしだった。
……まぁ、別に勝つ必要なんてないんだけどな。
「…………」
もう一度、満月を見上げる。
『月華晶』が生成される時間までは、まだ少しだけある。
ゲーム時代なら、この時点で温泉なんてとっくに切り上げ、採取地点へ直行していただろう。条件が揃うまでの時間は、装備画面でも眺めながら適当に潰していたはずだ。
でも今日は、その時間を暇だと思っていない。
むしろ、もう少し長くてもいいとさえ思っている。
「……変わったな、俺も」
小さく笑ってから、俺も湯を出た。
♢
着替えを済ませて湖へ戻ると、ザフィラは少し先にある平たい岩へ腰掛けていた。
温泉へ入る前と同じ軽装に戻っているけれど、まとめていた黒髪は下ろしたままで、毛先にはまだわずかに水気が残っている。
満月の光を受けた黒髪は、いつもより柔らかく見えた。
「遅い」
「そんな待たせた?」
「少し」
「……悪い」
「冗談よ。私も今来たところ」
「どっちだよ」
「さあ?」
「今日ずっとそれだな、お前」
笑いながら隣へ腰を下ろす。
湖は、温泉へ入る前よりもずっと明るくなっていた。
満月がさらに高く昇ったことで、湖面には白い光の道ができていて、その光が対岸から俺たちの足元まで真っ直ぐ伸びている。
湖畔に群生する巨大な花々も、さっきとは明らかに様子が違っていた。
固く閉じられていた花弁が緩み、その隙間から淡い青白色の光が漏れ始めている。
「……もうすぐ咲きそうね」
「そうだな。完全に開くまでは、もうちょいだけど」
「本当に詳しいのね」
「何回来たと思ってんだよ」
「何回?」
「……覚えてない」
「そんなに?」
「フュン以外にも使い道あったし、素材の組み合わせを試したくて何度も取りに来たからな」
「そういうところは、本当に昔から変わらないのね」
「どういう意味だよ」
「素材と武器の話をするとき、今でもすごく楽しそう」
「そりゃ楽しいからな」
「今も?」
「今も」
「今日と比べたら?」
「…………」
質問の意味を理解して、横を見る。
ザフィラの金色の瞳が、明らかに楽しそうに俺を見ていた。
「それは比較するもんじゃねぇだろ……」
「してみて」
「いや、武器作る楽しさとデートの楽しさは種類が違うだろ」
「逃げた」
「逃げてないって」
「じゃあ、どっちが楽しい?」
「…………」
なんだこの尋問。
しかも、たぶんこいつは答えを分かったうえで聞いている。
「……今日」
「…………」
「……今日の方が楽しいよ」
観念して答えると、ザフィラの黒い耳がぴくっと動いた。
「……そう」
「……自分から聞いといて照れんなよ」
「照れてないわ」
「耳赤ぇぞ」
「月の光よ」
「月光は赤くねぇだろ」
「うるさいわね」
肩を軽く叩かれた。
「痛っ」
「嘘」
「バレた?」
「それくらい分かるわよ」
どちらからともなく笑った。
そのあと、しばらく会話は途切れた。
でも、不思議なくらい気まずさはなかった。
何か話さなきゃいけないとも思わない。
ただ湖を見て、ゆっくり開いていく花を眺め、時々満月を見上げる。
そして、隣にはザフィラがいる。
それだけで、思っていたよりずっと心地よかった。
「……綺麗ね」
しばらくして、ザフィラがぽつりと呟いた。
「うん」
「昔も、同じ景色だったの?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「……ちゃんと、見てなかったから」
「ああ……そうだったわね」
「採取場所と時間しか見てなかった」
「本当にもったいない」
「今日それ何回目だよ」
「だって、本当にそう思うもの」
ザフィラが少し姿勢を変え、両手を後ろについて湖を見上げた。
「私だったら、一度見たら絶対に忘れないと思う」
「そう?」
「ええ」
「じゃあ……今日のことも?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、口から出た瞬間に、自分が思っていたよりずっとその答えを気にしていることに気づいた。
ザフィラがこちらを見る。
「忘れてほしいの?」
「いや」
そこだけは、考えるより早く答えていた。
「忘れないでほしい」
「…………」
言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、取り消そうとは思わなかった。
ザフィラは一瞬だけ目を丸くしたあと、本当に柔らかく笑った。
「忘れないわよ」
「……そっか」
「あなたが忘れても、私は覚えてる」
「俺も忘れねぇよ」
「本当に?」
「さすがに今日忘れたら、殴っていい」
「じゃあ忘れたら、思い切り殴るわね」
「加減してくれ」
「嫌よ」
「即答すんなよ」
「ふふっ」
ザフィラが笑う。
そのとき、膝の上に置かれていた左手が動いた。
満月の光が、薬指に嵌められている指輪を掠める。
赤金色。
俺がヒヒイロカネの余りから作った、何の効果もない指輪。
魔力補正もなければ、特殊能力もないし、隠された効果が眠っているわけでもない。
ただの指輪だ。
ゲーム時代の俺だったら、装備欄を一枠使う価値すらないと切り捨てていたかもしれない。
なのに――。
「…………」
「何?」
ザフィラが俺の視線に気づいて、左手を少し持ち上げた。
「これ?」
「あぁ」
「どうしたの?」
「いや……月の下で見ると、結構綺麗だなって」
もう一度指輪を見る。
「似合ってるよ」
「…………」
「何?」
「……今日、本当にどうしたの?」
「何が?」
「急に……そういうことばっかり言うから」
「思ったこと言ってるだけだよ」
「だから困るのよ……」
「なんで?」
「……嬉しいから」
小さく答えながら、ザフィラが指先で指輪を大事そうに撫でた。
本当に、何の効果もない指輪なのに。
「これ、好きよ」
「知ってる」
「毎日つけてるもの」
「うん」
「いつだって身に着けておきたいわ」
「必要な時は外していいぞ? なくした方が困るだろ」
「嫌」
「頑固だなぁ」
「だって、初めてあなたが私のためを想ってくれたものだもの」
「…………」
まただ……。
こいつは、こういうところで俺の考え方を簡単にひっくり返す。
「効果、何もないぞ?」
「知ってる」
「強い装備でもないし、希少な能力が付いてるわけでもない」
「それも知ってるわ」
「だったら――」
「だから何?」
言葉が止まった。
ザフィラが左手を、俺の方へ差し出す。
「私は、これがいいの」
「…………」
「効果があるからつけてるんじゃないし、強いから気に入ってるんじゃない。あなたが私のために作って、私にくれたものだから、大事なの」
金色の瞳が、まっすぐ俺を見る。
昔の俺なら、きっと理解できなかった。
性能がないのに価値があるなんて、ステータスにも表示されないものを大事にするなんて。
でも今なら、少しくらいは分かる。
「……そっか」
「ええ」
差し出された手を取る。
指輪の嵌まった左手を包み込むように握りながら、俺も素直に笑った。
「ほんとに、大事にしてくれてありがとな」
「…………」
「ん?」
「……それは反則よ」
「何が?」
「……全部」
「理不尽すぎるだろ」
ザフィラも笑った。
けれど、手は離れない。
むしろ握ったまま俺との距離を少し詰めて、そのまま肩へ頭を預けてくる。
「……ちょっとだけ、このまま。ね」
「いいよ」
「……即答なのね」
「嫌じゃないからな」
「それ、私の真似?」
「……たまにはな」
「ふふっ」
ザフィラの頭の重みを肩に感じながら、俺も湖へ視線を戻した。
何も起きていない、静かな夜だった。
国が攻められているわけでもなければ、巨大な魔物が現れたわけでもない。誰かを救うために急がなきゃいけないわけでもない。
ただ、好きな奴と月を見ている。
「…………」
そこまで考えてから、自分の中に自然と浮かんだ言葉に、少しだけ笑った。
――好きな奴。
もう、それを否定する理由なんてなかった。
「何?」
「……いや」
「また一人で笑った」
「なんでもないよ」
「教えて」
「やだよ」
「ご主人様?」
「その呼び方しても駄目」
「……ケチ」
「お前にだけは言われたくないわ」
ザフィラが少しだけ頬を膨らませる。
その顔を見ていたら、ほんの少しだけ触れたくなった。
俺は肩へ預けられていた頭へ手を伸ばし、黒い髪をゆっくり撫でる。
「…………」
ザフィラが黙った。
「嫌だった?」
「……嫌じゃない」
「そっか」
なら、もう一度。
指の間を黒髪が滑っていく。
ザフィラは何も言わないまま、少しだけ俺の肩へ体重を預け直した。
「そこじゃないの?」
「何が?」
「……耳」
「触ってほしい?」
「…………」
ザフィラがゆっくり顔を上げる。
「今のは忘れて」
「無理だな」
「忘れなさい」
「嫌」
「ご主人様?」
「ダメ」
「……意地悪」
「お互い様だろ」
少し睨まれた。
でも、その表情は長く続かなかった。
すぐにザフィラが笑う。
顔が近い。
もともと肩へ寄りかかっていたせいで、ほんの少し顔を向けるだけで互いの息遣いが分かるくらいの距離だった。
「…………」
どちらから近づいたのかは、あとになっても分からないと思う。
俺が少し顔を寄せて。
たぶん、ザフィラも同じだけ近づいた。
その結果として、唇が短く触れた。
ほんの一瞬。
それでも、離れたあとの距離はほとんど変わらなかった。
「…………」
「…………」
近いまま、目が合う。
ザフィラの頬は少し赤かった。
たぶん俺も、人のことは言えない。
「……おはよう、じゃないな」
何となく口から出た。
「今、夜よ?」
「知ってる」
「じゃあ、何のキス?」
「…………」
考えてみたけど、別に答えなんてなかった。
おはようでも、おやすみでも、ただいまでもない。
「理由とか、なくてもよくない?」
「…………」
ザフィラの金色の瞳が、少しだけ柔らかく細められる。
「……そうね」
「うん」
「それ、いいかも」
今度は、ザフィラの方からほんの少し距離を縮めた。
もう一度、唇が触れる。
さっきより少しだけ長く、それでも急ぐことはなく、ただ互いがそこにいることを確かめるみたいな、静かなキスだった。
繋いでいる手へ、ザフィラの指がそっと力を込める。
俺も握り返した。
月明かりが、ザフィラの左手にある指輪へ落ちていた。
何の効果もない。
何の能力もない。
なのに、今の俺にはどんな高性能な装備よりも、ずっと目を離せないものに見えた。
やがて、ゆっくりと離れる。
「…………」
「…………」
今度は、どちらもすぐには何も言えなかった。
普通に照れる。
ザフィラが先に耐えられなくなったらしく、そのまま俺の肩へ顔を隠した。
「……ご主人様」
「ん?」
「……見ないで」
「何を?」
「顔」
「なんで?」
「今、絶対赤いもの」
「俺もだから安心しろ」
「なら、ご主人様も隠せば?」
「どこに?」
「…………知らない」
「そこまで考えてなかったのかよ」
「うるさい」
声が少しくぐもっている。
たぶん本気で恥ずかしがっている。
そのことが何だか可笑しくて、少し笑った。
「リンドウ」
「ん?」
「……もう一回」
「…………」
「何よ」
「いや、お前今日ほんと強いなって」
「……嫌?」
「その聞き方禁止って言っただろ」
「そんなの忘れたわ」
「さっき忘れるなって話したばっかだろうが」
「これは忘れたの」
「都合よすぎんだろ……」
文句は言った。
でも、結局俺から顔を寄せた。
三度目は、本当に短かった。
触れて、すぐ離れる。
それだけで、ザフィラは満足そうに笑った。
「……これでいい?」
「……ん。しあわせ」
「なんか俺、最近扱いやすくなってない?」
「最初からよ?」
「嘘だろ……?」
「本当」
「地味にショックなんだけど」
「大丈夫よ」
「何が?」
「そういうところも好きだから」
「…………」
「また赤い」
「……ちょっともうお前黙れ」
「ふふっ」
そのままザフィラが俺の腕へ自分の腕を絡め、また肩へ寄りかかってくる。
俺も何も言わず、それを受け入れた。
こういう関係を、何と呼べばいいのか。
正直、まだよく分からない。
恋人という言葉を、俺たちはまだ互いに使っていない。
だからといって、ただの仲間と呼ぶには近すぎるし、友達なんて言葉では到底足りない。
好きだということは、もう互いに知っている。
キスもした。
離れていれば会いたいと思うし、帰る場所を考えればこいつの顔が浮かぶ。
こうして隣にいるだけで落ち着く。
それなら、今はそれでいいと思った。
無理に名前を決めなくてもいい。
何かの形へ自分たちを押し込めなくても、この手を離したくないと思っていることだけは、もう十分分かっている。
「……ねえ、ご主人様」
「……ん?」
「今日、楽しい?」
「楽しいよ」
「どのくらい?」
「またそれか?」
「いいから」
「……かなり」
「私と来てよかった?」
「何回聞くんだよ……」
「聞きたいのよ、いいでしょ?」
「よかったよ」
今度は迷わなかった。
「めちゃくちゃ」
「…………そう」
「ザフィラは?」
「私もよ」
「めちゃくちゃ?」
「……めちゃくちゃ」
「それ俺の言い方じゃん」
「……移ったのよ」
「そっか」
顔を見合わせ、二人で笑う。
「じゃあ、成功だな」
「何が?」
「デート」
「……そうね」
満月を見上げる。
いつの間にか、かなり高いところまで昇っていた。
湖畔の巨大な花々も、もうほとんど開きかけている。
青白い光が花の中心から漏れ、それが一輪、また一輪と増えていくたび、秘境全体が月明かりとは違う淡い光に満たされていった。
「…………」
そろそろだ。
たぶん、あと少しで『月華晶』が生成される。
そう思った瞬間。
「ご主人様?」
「ん?」
横を見ると、ザフィラが俺の顔を覗き込んでいた。
「ところで」
「何?」
「本当に」
金色の瞳が、少しだけ細くなる。
「今日はデートだけ?」
「…………」
反射的に視線を逸らした。
「…………」
「ご主人様?」
「何?」
「こっち見て」
「いやぁ、月が綺麗だなと思って」
「こっち」
「花もそろそろ咲きそうだしなぁ」
「リンドウ」
「…………はい」
終わった……。
というか、最初から気づかれていた気がする。
ザフィラは俺の腕へ絡んだまま、にっこりと笑った。
「何を取りに来たの?」
「…………」
「教えて?」
咲き始めた花から、青白い光がまた一つ漏れる。
満月の下。
朝から一日かけて歩き、景色を見て、飯を食って、笑って、手を繋いで、同じ月を眺めた。
俺にとっては、それだけでもう十分なくらいの一日だった。
でも――ここへ来た理由は、もう一つある。
昔の俺なら、それだけしか見ていなかった理由が。
今夜はようやく、デートの“ついで”として始まろうとしていた。
「……『月華晶』」
俺がそう答えたのとほとんど同時に。
湖畔を埋め尽くす巨大な花々が、一斉に光を強めた。
今回も引き続き、リンドウとザフィラの満月デートでした。
温泉に入り、湖を眺め、何でもない話をして、手を繋いで。
そして今回は、ザフィラがずっと身につけている指輪にも少し触れています。
あの指輪には、魔力補正も特殊能力もありません。
ゲーム的に見れば、本当に何の効果もない装備です。
それでもザフィラにとっては、リンドウが自分のために作ってくれたからこそ、大切なもの。
景色も、待ち時間も、指輪も。
以前のリンドウなら「攻略に関係がない」と見過ごしていたものに、少しずつ意味を見つけられるようになってきました。
そして二人の関係も、まだ「恋人」という名前はついていません。
でも、互いに好きだということはもう分かっていて、今はその距離を二人なりに大切にしています。
……それにしても、今回のザフィラはだいぶ強かったですね。
リンドウ、ほぼ押されっぱなしでした。
そんなデートも、いよいよ本来の目的へ。
次回、満月の下で花が開き――
『月華晶』が姿を現します。
次話もよろしくお願いします。




