95:【満月の秘境】
森を抜けた頃には、太陽はもう山の向こうへ沈みかけていた。
空にはまだ夕焼けの名残が薄く残っているものの、木々の間から差し込んでいた光はほとんど失われ、俺たちが歩いてきた山道にも、夜へ溶けていくような長い影が伸びている。
「……この辺なんだけどな」
俺は足を止め、周囲を見回しながら、記憶の中に残っている景色と今目の前にある地形を一つずつ照らし合わせた。
右へ大きく曲がった山道があり、その先には二本の巨木が並んで立っている。少し離れた場所には半分ほど土へ埋もれた大きな岩があって、その表面には、百年以上経った今でも見覚えのある亀裂まで残っていた。
間違いない。
ここはゲーム時代、俺が何度も『月華晶』を採りに来た場所だ。
……そのはずなんだけど。
「何もないわね」
「……ないな」
ザフィラの言う通り、目の前に広がっているのは鬱蒼とした森だけだった。
奥へ続く道もなければ、湖なんて影も形も見当たらず、当然ながら温泉らしい湯気もどこにも上がっていない。
ザフィラが俺の隣から一歩だけ前へ出て、木々の向こうを覗き込んだ。
「本当にここなの?」
「そこ疑う?」
「だって、ご主人様が朝から一日かけて連れてきてくれた場所が、今のところただの森なんだもの」
「言い方に悪意あるなぁ……」
「期待してたのよ?」
「そんなこと言われると余計プレッシャーかかるからやめてくれ」
俺が苦笑すると、ザフィラも小さく笑った。
ゲームでは、この辺りまで来ればマップ上にも目的地そのものは表示されていた。ただし、条件を満たしていない時間帯は先へ進むことができず、入口があるはずの場所も濃い霧に閉ざされたままだった。
条件は二つ。
満月の夜であることと、その満月が一定の高さまで昇っていること。
「まだ少し早いんだよ」
「早い?」
「月が低い」
俺は木々の向こうを指差した。
満月そのものはすでに東の空へ昇っているものの、まだ位置が低く、白い円の下半分が森の梢へ隠れている。
「もうちょい上がれば、道が出るはず」
「……はず?」
「頼むから信じてくれって……」
「ご主人様の戦闘や鍛冶なら信じてるわ」
「場所は?」
「たまに怪しいわね」
「酷いなぁ」
「だって、百年以上前の記憶だけで動いてることがあるでしょう?」
「正論パンチやめろよ……」
ゼフィロスの一件があるので、こればかりは何も言い返せない。
地形そのものが変わっている可能性だってあるし、この秘境自体が百年以上の間に消えていたとしても、絶対にあり得ないとは言い切れなかった。
ただ、『月華晶』そのものが今の時代にも存在しているなら、この場所も何らかの形で残っている可能性は高いと思っている。
「まあ、もし無くなってたら」
「無くなってたら?」
「景色のいい場所でも探して、今日はそこで野営する」
「素材は?」
「明日考えるさ」
「……珍しい」
「何が?」
「素材より、私との予定を優先するなんて」
「……今日はそういう日なんだよ」
特に深く考えずに答えただけだった。
けれど、ザフィラは一瞬だけ目を見開くと、何も言わずに俺の隣へ戻ってきて、肩が触れるくらい近くへ座った。
「……何?」
「別に」
「その『別に』、絶対なんかあるんだよな」
「嬉しかっただけよ」
「最近ほんと素直だよな、お前」
「嫌だった?」
「……嫌じゃないけど、俺の気持ちが追いついてない」
「鍛えなさい」
「……何をどう鍛えればいいんだよ」
二人で笑いながら、近くに倒れていた大きな木へ腰を下ろす。
歩いてきた道の向こうには、少しずつ夜の色へ沈んでいく森が広がっていて、魔物の気配はほとんど感じない。聞こえてくるのも、風が葉を撫でていく音と、夜を迎え始めた森から時折聞こえる小さな鳴き声くらいだった。
「静かね」
「ここ、昔から敵ほとんど出なかったからな」
「珍しい場所ね」
「採取用の秘境だったし」
「だから一人で来て、石だけ取って帰ってたの?」
「そうだなぁ……」
「温泉にも入らず?」
「入ってねぇよ」
「湖も見ず?」
「まともには」
「花は?」
「雌しべしか見てねぇな」
「…………」
「その顔やめてね?」
「ご主人様」
「んだよ」
「もったいない」
「……今は、俺もそう思ってるよ」
昔は、本当に興味がなかった。
景色が綺麗だから何だ、温泉に入れるから何だ、月が湖面へ映るから何だ。
そんなものを眺めている暇があるなら、採取条件を逃さず『月華晶』を回収して、一秒でも早く戻ってフュンを作った方がいい。
俺にとって、ここはそれだけの場所だった。
場所も知っている、条件も知っている、何時になれば何が出現するのかも、どこを調べれば目的の素材が手に入るのかも全部知っていた。
でも今思えば。
俺は、この場所を知っていただけだったのかもしれない。
ちゃんと見たことなんて、一度もなかった。
「……まあ」
俺は隣に座るザフィラを見る。
「……一人だったしな」
「ん?」
「一人で来てたから、景色なんか見てもしょうがねぇって思ってたのかもな……」
「今は?」
すぐに聞き返された。
ほんと、こいつはこういうところだけ絶対に逃がしてくれない。
「…………」
「今は?」
「聞こえてるって」
「なら答えてよ」
「……お前がいるだろ」
「……そうね」
「だったら、ちゃんと見てもいいかなって思う」
ザフィラの表情が、ゆっくりと柔らかくなった。
「ふふっ」
「だから笑うなってば」
「だって」
そのまま、こつん、とザフィラの頭が俺の肩へ乗る。
「嬉しいもの」
「…………」
ほんと、勘弁してほしい。
こういうことは当たり前みたいにやるくせに、俺が真正面から何か言うと、すぐ耳まで赤くなる。
かなり理不尽だと思う。
ただ、肩をどかそうとは思わなかったし、むしろザフィラが寄りかかりやすいように、ほんの少しだけ身体を傾けた。
「ね……リンドウ」
「ん?」
「月、見て」
言われて顔を上げる。
いつの間にか、満月は森の梢を越えていた。
白く、大きな月。
森全体を昼間のように照らすほどではないけれど、その光が俺たちの前にある大きな岩へ差し込んだ瞬間、周囲の空気がわずかに変わった。
「……来るぞ」
風が止まったように感じた。
いや、風そのものが消えたわけじゃない。
ただ、俺たちの周囲から森の音だけが遠ざかっていくような、不思議な静けさが広がった。
目の前に漂っていた霧が、ゆっくりと動き始める。
「なに、これ……」
ザフィラが立ち上がり、俺もその隣へ並んだ。
霧は消えるわけじゃない。
左右へ分かれていく。
まるで誰かが巨大な幕を静かに開いていくように、音もなく割れていき、その向こうから細い道が姿を現した。
「ほら、見ろよ」
「…………」
「疑ってたろ?」
「少しだけ」
「少し?」
「……結構」
「正直すぎるわ」
文句を言ったけど、ザフィラはもう俺の方なんて見ていなかった。
金色の瞳は、霧の向こうへ続く道、そのさらに先へ釘付けになっている。
「……綺麗」
その一言につられるように、俺も改めて奥を見た。
「…………」
知っている場所だった。
何度も来たし、何度も見た。
――はずだった。
「こんなだったっけ……」
「ご主人様?」
「いや……なんでもない」
霧が完全に開いた先には、山々に囲まれた静かな湖が広がっていた。
湖面には、空に浮かぶ満月がそのまま落ちたみたいな白い光が浮かび、わずかな風によって生まれた細かな波が、その月影をゆっくりと揺らしている。
湖の周囲には、人の背丈よりも大きな花が数え切れないほど並んでいた。
淡い青白色の花弁はまだ完全には開いていないものの、満月が高く昇っていくにつれて、眠りから覚めていくように少しずつ緩んでいる。
岸辺から少し離れた岩場では、白い湯気が静かに立ち上り、岩の間から溢れた温かな湯が細い流れとなって、湖とは反対側へ流れ落ちていた。
ゲームで見た景色と、たぶん同じだ。
湖も、花も、月も、配置そのものは変わっていないはずなのに、俺にはまるで別の場所に見えた。
画面越しじゃなく、実際にここへ立って、頬へ触れる冷たい夜風を感じ、水が流れる音を聞いて、その隣にザフィラがいる。
たったそれだけで――。
「……すげぇな」
初めて、本気でそう思った。
「ね?」
ザフィラが嬉しそうに笑う。
「何が?」
「もったいなかったでしょう?」
「……そうだな、認めるよ」
「あら、素直」
「これは認めるしかねぇわ」
俺が笑うと、ザフィラが手を差し出してきた。
「行きましょう」
「おう」
その手を取り、今度は最初から指を絡める。
霧の間に現れた細い道を、二人でゆっくりと歩いていった。
道の両側には、小さな青白い光が点々と浮かんでいる。
最初は虫かと思ったけど、よく見れば違った。地面から生えている細い草の先端が、満月の光を受けるたび淡く輝いているらしい。
「これも知ってた?」
「存在は知ってた」
「見てなかったの?」
「足元で光ってるなぁ、くらいにしか思ってなかった」
「本当に、必要なものしか見てなかったのね」
「……まあな」
否定できない。
昔の俺は攻略に必要なものだけを拾って、それ以外は片っ端から切り捨てていた。
敵を見るなら名前より弱点、景色を見るなら採取地点、誰かが何かを語っていても、その先でもらえるものさえ分かれば十分だと思っていた。
そうやって最短だけを選び続けて、世界一位まで行った。
なのに今は、ただ草が光っているだけで立ち止まっている。
「……変わったわね」
ザフィラが小さく言った。
「何がだよ」
「あなたよ」
「そう?」
「昔のあなたなら、こんなところで止まらなかったでしょう?」
「……たぶんな」
「今は?」
「お前が止まってるから」
「私のせいなの?」
「……お前のおかげ、かな」
「…………」
「何その顔」
「……何でもない」
「今度はお前が誤魔化すのかよ」
ザフィラは答えず、ただ絡めていた指へ少しだけ力を込めた。
それで十分だった。
少し進むと、やがて湖のほとりへ出た。
間近で見ると、さっきよりさらに綺麗だった。
対岸には巨大な花が並び、その向こうには黒い山の稜線が伸びていて、空には満月と数え切れないほどの星が浮かんでいる。
ザフィラは何も言わず、しばらくその景色を眺めていた。
「どうした?」
「……見てるの」
「何を?」
「……全部」
そう答えてから、俺の手を少しだけ強く握る。
「こういう場所、初めて来た」
「……そっか」
「ええ」
「アルセディアからそんな離れてないのに?」
「普通は入れないんでしょう?」
「ああ、まぁそうだな」
「……それに」
ザフィラが俺を見る。
「誰かに、こういう場所へ連れてきてもらったこともないわ」
「…………」
「……だから、ありがとう」
少しだけ照れたように笑って。
「――リンドウ」
「まだ何もしてねぇけど」
「連れてきてくれたでしょう?」
「素材取りに来たついでだけど」
「昨日は逆って言ってたじゃない」
「……覚えてたのか」
「当然」
「じゃあ、訂正」
「うん?」
「デートのついでに素材を取りに来た」
ザフィラが満足そうに頷いた。
「よろしい」
「んだよそれ……」
二人で笑いながら、湖の岸辺をさらに奥へ進んだ。
『月華晶』が生まれるのは、満月がもう少し高く昇ってからだ。
つまり、まだ時間はある。
昔なら、その時間さえ採取地点の前で待機して、出現した瞬間に回収できるよう準備していただろう。
でも、今日は違う。
「……温泉」
白い湯気が立ち上る岩場の前で、ザフィラが足を止めた。
「あるって言っただろ」
「本当にあったのね……」
「俺どんだけ信用ねぇんだよ」
「場所に関しては七割くらい」
「微妙だなぁ」
岩場の向こうには、天然の湯溜まりがいくつかできていて、それぞれが大きな岩によって緩やかに区切られていた。
湖側だけは開けているので、湯に浸かりながらでも満月と湖を眺められそうだ。
「……入るか?」
俺が聞くと、ザフィラは少しだけこちらを見る。
「そのために着替えまで持ってきたんでしょう?」
「まあな」
「なら入りましょう」
「おう」
一つの大きな湯溜まりがあったので、俺たちはそこで身体を休めることにした。
ここなら、眼前に広がる湖と満月が一望できる。
「……ほんとに一緒に入るのか?」
「嫌なの?」
「……嫌じゃねぇよ」
「ふふっ。それじゃ服だけ置いてくるわ」
「あぁ、待ってる」
ザフィラの笑い声が、岩の向こうへ消えていった。
「……今日、ずっと強いなあいつ」
聞こえないくらい小さく呟いてから、俺も湯につかる準備を始めた。
♢
「はぁ……」
肩まで湯に浸かると、思わず声が漏れた。
少し熱めの湯が、一日かけて歩いた身体へじわっと染み込んでいく。
湯気の向こうには静かな湖が見え、そのさらに上には白い満月が浮かんでいた。
「これ、昔入らなかったの本当に馬鹿だったな……」
「やっと分かった?」
遅れて入ってきたザフィラが肩を寄せてくる。
「近ぇな……」
「いいでしょ?誰もいないんだから」
「……いいけどさ。で、どうよ?」
「気持ちいいわ……」
「だよなぁ」
「景色も綺麗」
「あぁ、そうだな」
ザフィラがすぐ隣にいる。
それが妙に落ち着いた。
しばらく二人とも何も言わず、湯の流れる音と、遠くから聞こえてくる虫の声、それから時々風に揺れる木々の音だけを聞いていた。
「……なあ」
「なに?」
「……今日は、ありがとな」
「ん……?」
「……本当に、来てよかった」
何気なく口にしたつもりだったけど、それはたぶん、今日一日ずっと心のどこかで思っていたことだった。
「どうしたのよ、急に……」
ザフィラが肩を寄せたまま、少しだけ顔を上げて俺を見る。
「いや、なんかさ。朝から一日歩いてきて、今こうしてここにいるだろ? それ考えたら、来てよかったなって」
「素材を取りに?」
「それはまだ採ってねぇじゃん」
「じゃあ、何に?」
「今日そのものに、かな」
「…………」
言ってから、自分でも少し恥ずかしくなった。
けれど、今日はもういい。
朝から何度もザフィラに見透かされて、そのたび誤魔化そうとして、結局ほとんど全部顔に出ていた。だったら今さら格好つけたところで意味なんてない。
「一日かけて歩いてきたのも、途中でお前の弁当食ったのも、道端で何回も立ち止まったのも、商人と話したのも、それからここへ来て、お前とこの景色見て、今こうやって温泉入ってんのも……全部だよ」
「全部?」
「あぁ。俺一人だったら、たぶん何一つしてないからな」
ゲーム時代の俺なら、目的地まで最短で移動して、『月華晶』が生成される時間だけ確認し、出現した瞬間に回収して帰っていただろう。
途中にどんな花が咲いていたのかも、どんな奴とすれ違ったのかも、湖がどれだけ綺麗だったのかも、そんなものは一つも覚えようとしなかった。
素材さえ手に入ればいい。
目的さえ達成できればいい。
――それ以外は、全部どうでもよかった。
「昔は、それでよかったんだけどな」
「今は違うの?」
「あぁ」
隣にいるザフィラへ視線を向ける。
肩が触れている。
少し動けば離れる程度の距離なのに、不思議と今は、その僅かな温かさがひどく心地よかった。
「……たぶん、もう一人でここ来るの無理だわ」
「どうして?」
「比較しちゃうじゃん」
「今日と?」
「そうだなぁ……。昔みたいに一人で最短距離走って、素材だけ取って帰るのと、お前と一日かけて歩いてくるのと」
「どっちがいい?」
「……聞くなよ、分かってんだろ」
「聞きたいの」
「…………」
ザフィラはこういうところだけ、本当に逃がしてくれない。
けれど、俺ももう答えを知っていた。
「今日の方が、ずっといい」
「…………」
「効率だけなら昔の方が圧倒的にいいけどな。でも、もう一回どっちか選べって言われたら、俺は今日を選ぶ」
ザフィラはすぐには何も言わなかった。
ただ、寄せられていた肩がもう少しだけ近くなって、湯の中にあった手が、俺の指先へそっと触れた。
そのまま逃げることなく指が重なったので、俺も手を動かし、今度はこっちから握る。
「……だから、お前誘ってよかった」
絡めた指へ少しだけ力を込めると、ザフィラも同じくらいの強さで握り返してきた。
「ご主人様」
「ん?」
「そういうこと、不意打ちで言うの、ずるいわ」
「思ったから言っただけじゃん」
「それが一番ずるいのよ」
「……なんでだよ」
「……知らないわ」
そう言いながら、ザフィラは俺から目を逸らした。
耳が少し赤い。
温泉のせいだと言われれば、そうなのかもしれない。
でも、たぶん違う。
そして俺も、きっと似たような顔をしている。
「ザフィラ」
「なに?」
「……今日、楽しかったか?」
「まだ終わってないでしょう?」
「そうだけどさ」
「でも……」
ザフィラは一度だけ湖へ視線を向け、それから俺の肩へ頭を預け直した。
「すごく、楽しいわ」
「そっか」
「……朝からずっと」
「……そこまで言う?」
「ご主人様が聞いたんでしょう?」
「そうだけど」
「昨日、なかなか眠れなかったくらいには楽しみにしてたもの」
「俺もだよ」
「知ってる」
「なんで?」
「今日の朝からずっと、分かりやすかったもの」
「くそ……」
「ふふっ」
笑い声が近い。
耳のすぐそばで聞こえるその声を聞きながら、俺もつられて笑った。
「あなたは?」
「ん?」
「楽しかった?」
「だから、俺もって言ったじゃん」
「どのくらい?」
「そこまで聞く?」
「聞きたい」
「…………かなり」
「かなり?」
「あぁ。自分でもちょっと引くくらい」
「それは嬉しいわね」
「笑うなよ……」
「笑ってないわ。嬉しいの」
「……そっか」
短いやり取りだったけど、それだけで十分だった。
頭上では満月がゆっくりと高く昇っていて、湖の周囲に並んでいる巨大な花も、月光を浴びながら少しずつ花弁を開き始めている。
目的だった『月華晶』が生まれるまでには、まだもう少しだけ時間がある。
ゲーム時代の俺なら、とっくに温泉から上がって採取地点へ向かい、生成時刻を確認しながら最適な位置で待っていたはずだ。
でも今は、そんな気にはならなかった。
素材はまだ手に入っていないし、当然フュンだってまだ作れない。攻略的に言えば、今この瞬間には何一つ進展なんてない。
それなのに、少しも退屈じゃない。
むしろ――。
「……まだ咲かなくていいな」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
「何が?」
「花」
「どうして?」
「だって、完全に咲いたら『月華晶』取りに行くだろ?」
「そうね」
「……そしたら、今の時間が終わっちまう」
「…………」
言ってから、自分でも少し驚いた。
昔の俺なら絶対に言わない。
一秒でも早く素材が欲しかったし、生成待ちなんてただの無駄な時間で、早く終われば終わるほどいいと思っていた。
なのに今は逆だった。
もう少しだけ。
ほんの少しだけでいいから、花が開くのが遅ければいいと思っている。
「……変わったわね」
ザフィラが小さく言った。
「そうだな……」
「ええ。昔のあなたなら、絶対そんなこと言わなかったでしょう?」
「言わねぇな」
「早く咲け、早く素材を寄越せって思ってそう」
「たぶん秒数数えてるよ」
「でしょうね」
二人で笑う。
でも、その笑いが静かになったあと、俺は湖の上に揺れる月を見つめた。
「たぶんさ」
「うん?」
「変わったの、この場所じゃないんだよな」
月も、湖も、花も、きっと百年以上前からほとんど変わっていない。
昔の俺が見ていたものと、今この瞬間に目の前へ広がっているものは、たぶん同じだ。
違うのは俺の方だった。
「昔は、一人で見ても意味ねぇと思ってた。景色なんて攻略に関係ないし、待ち時間なんか短ければ短い方がいいって」
「今は?」
「……誰かと見るなら、悪くない」
「誰か?」
「……わかってんだろ」
「言葉にするのって、大事でしょう?」
ザフィラが少しだけ身体を起こして、金色の瞳でこっちを見る。
逃げられそうにない。
「……お前と見るなら、だよ」
「…………」
「これで満足か?」
「ええ」
そう答えたザフィラは、すぐにまた俺の肩へ頭を預けた。
ただ、今度はさっきよりも少しだけ深く寄りかかってくる。
「私も」
「ん?」
「あなたと来られてよかった」
「……そっか」
「誰でもよかったわけじゃないわ」
「…………」
「あなただったから、こんなに楽しみにしてたの」
「お前さ」
「なに?」
「俺の耐性鍛える気ないだろ」
「鍛えてるじゃない」
「これ一方的に圧かけてるだけだからな?」
「同じでしょう?」
「……違ぇよ」
ザフィラが楽しそうに笑う。
でも、俺はもうその手を離さなかった。
指を絡めたまま、肩を寄せたまま、二人で湖を見る。
満月が水面へ揺れている。
巨大な花は、まだ完全には開いていない。
「……リンドウ」
「ん?」
「私も、もう少しこのままがいい」
「……そっか」
「ええ」
ザフィラが俺の手を、もう一度握り直した。
「だから今だけは、急がなくていいでしょう?」
「あぁ」
むしろ、急ぎたくない。
今日一日、俺たちはずっとそうだった。
本気で走れば数時間で終わった道を一日かけて歩いて、道端の花を見るために立ち止まり、木陰でゆっくり飯を食い、知らない変化を見つけるたびに足を止めた。
今までの俺なら、全部飛ばしていた時間だ。
なのに、その全部が今日の記憶になっている。
「変な感じだな……」
「何が?」
「……昔は、目的地に着くまで全部余計な時間だと思ってたのに」
「今は?」
「……終わる方がもったいねぇな、って思う」
ザフィラが何も言わなくなる。
俺も、それ以上は続けなかった。
言葉がなくても、手は繋がっているし、肩にはザフィラの重みがある。
それだけで、今は十分だった。
ゲーム時代なら、とうに採取地点の前で時間だけを確認していた頃だろう。
あの頃の俺にとって、素材が生成されるまでの待ち時間なんて、ただ早く過ぎてほしいだけの空白だった。
でも今夜は違う。
何も起きなくていい。
まだ何も手に入らなくてもいい。
フュンだって、少しくらい完成が遅れたって構わない。
今はただ、隣にザフィラがいて、同じ月を見て、同じ花が開くのを待っている。
それだけの時間が、思っていたよりずっと大事だった。
「リンドウ」
「ん?」
「花が咲いたら、行きましょうね」
「あぁ」
「……手、繋いでくれる?」
「繋ぐよ」
「即答ね」
「今日ずっと繋いでんじゃん」
「それでも聞きたいの」
「……繋ぐって」
「ふふっ。なら、いいわ」
ザフィラが満足そうに笑い、また俺の肩へ頬を預ける。
満月はゆっくり高く昇っていき、湖の周囲に咲く花も、それに合わせるように少しずつ花弁を広げていた。
いずれ、完全に開く。
その瞬間には『月華晶』が生まれ、俺たちはここを出て、また次へ進むことになる。
分かっている。
だからこそ。
今だけは、もう少し遅くてもいい。
昔なら、一秒でも早く終わってほしかった待ち時間を。
今夜は、もう少しだけ。
ザフィラと過ごしていたかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、満月の夜だけ姿を現す秘境へ。
ゲーム時代のリンドウは、この場所へ何度も来ていました。
けれど見ていたのは『月華晶』の採取地点だけで、湖も、花も、温泉も、そこにある景色そのものにはほとんど興味を向けていませんでした。
同じ場所で、同じ満月を見ているはずなのに、今回はまるで違って見える。
変わったのは景色ではなく、たぶんリンドウの方なのだと思います。
一秒でも早く終わってほしかった“待ち時間”を、今はもう少し続いてほしいと思えるようになったこと。
そして、その時間を一緒に過ごしたい相手がいること。
今回はそんな、何も起こらない時間を二人で過ごすお話でした。
次回はいよいよ、満月の下で巨大な花が完全に開きます。
そして目的の『月華晶』も――。
もう少しだけ、二人の夜にお付き合いください。
次話もよろしくお願いします。




