94:覇王、デートへ行く。
五日後。
そう決めてしまってからというもの、俺は自分でも笑えてくるくらい落ち着かなかった。
別に、女と二人で出かけるのが初めてなわけじゃない。
ザフィラとはこれまで何度も二人きりで行動しているし、一緒に飯だって食った。手も繋いだし、キスだってもう一度や二度じゃない。
むしろ、童貞じゃあるまいし今さら何を緊張する必要があるんだと自分でも思う。
思うんだけど……。
「…………」
「リンドウ様」
「ん?」
「そちら、三回目です」
「何が?」
「同じ書類をお読みになるのが、です」
「…………マジ?」
「はい」
執務机の向こう側で、ミラがいつもの無表情のまま頷いた。
手元へ視線を落とす。
『エアリス遠征中に発生した王都南区水路補修に関する報告書』
確かに読んだ記憶はあるし、内容までちゃんと覚えている。それなのに気づけば、いつの間にか最初の行へ戻っていたらしい。
「いや、ちょっと考え事してただけ」
「そうですか」
「うん」
「では、四度目をお楽しみください」
「読まねぇよ!」
書類を横へ避けると、ミラの口元がほんのわずかに動いた気がした。
「今笑ったろ」
「いいえ」
「絶対笑ったよな?」
「気のせいかと」
「最近みんな、それ言っとけば誤魔化せると思ってない?」
「そのようなことはございません」
絶対ある。
とはいえ、仕事そのものが進んでいないわけではなかった。
ゼフィロスを追ってエアリスへ出ていた間にも、アルセディアは当然止まっていたわけじゃない。南区の水路補修、東区の倉庫増築、新しくできた学校への教師増員、冒険者ギルドから上がってきた街道整備の要望に、商人組合から提出された市場拡張の申請。
それ以外にも兵士の増員計画や農地、税、衛生、他国との交易まで、俺が留守にしていた間に溜まった案件は結構な量になっていた。
戻ってきた翌日こそザフィラに強制的に休まされたけど、それ以降は普通に仕事へ戻っている。
むしろ。
「今日中に、どこまで終わらせればいい?」
「すべてです」
「鬼かよ」
「五日後に丸一日、そのうえ翌日の午前まで予定を空けたいと仰ったのはリンドウ様です」
「そうだけどさぁ」
「でしたら、その分は前倒しで処理してください」
「はい……」
返事をした俺の前へ、ミラがさらに一枚の書類を置いた。
「それはそれとして、仕事はしっかりしてください」
「してるって!」
「先ほど同じ書類を三度お読みになっていました」
「それは事故」
「昨日は署名欄に『フュン』と書きかけていました」
「…………」
「一昨日は、ザフィラ様が入室されてから五分ほど、私の説明をほとんど聞いておられませんでした」
「…………」
「何か、ございますか?」
「……分かってて聞いてるだろ」
「何のことでしょう」
相変わらず表情はほとんど動かない。
だから余計に腹立つ。
「……デートなんだよ」
「はい」
「五日後に」
「存じております」
「なんで知ってんだよ……」
「ザフィラ様が、三日前から予定表の五日後だけを何度も確認されていますので」
「…………」
あいつもかよ。
思わず顔を上げる。
「ちなみに、昨日は?」
「四度」
「今日は?」
「朝の時点で二度です」
「…………」
「お二人とも、非常に分かりやすいかと」
「もうやだこいつ……」
「ご安心ください」
「何を?」
「城内では、概ね微笑ましく見守られております」
「安心できる要素が一個もねぇんだけど?」
ミラの表情は変わらない。
でも絶対楽しんでる。
絶対だ。
♢
二日目の夕方、廊下でザフィラと顔を合わせた。
「リンドウ」
「何?」
「五日後って、朝は早いの?」
「まあ、普通に朝出れば夕方には着くと思うけど」
「そう」
「…………」
「…………」
ザフィラはそれだけ聞いて立ち去ろうとしたけど、どう考えても不自然だった。
「何?」
「別に?」
「いや、なんで今それ聞いた?」
「予定を確認しただけよ」
「昨日も聞いたよな?」
「忘れたのよ」
「嘘つけ」
「何よ」
「楽しみにしてくれてるのか?」
「…………」
ぴくり、と黒い耳が動いた。
「してないって言ったら?」
「俺がちょっと傷つく」
「なら、してる」
「…………」
「何よ」
「いや……」
こういうときだけ、真正面から素直になるのやめてほしい。
心臓に悪い。
ザフィラは俺が黙ったのを見て少し笑うと、俺の横を通り過ぎていった。
ただ、その尻尾がいつもより少しだけ楽しそうに揺れていたのを、俺は見逃さなかった。
♢
三日目。
工房へ顔を出すと、ハルたちが兵士用装備の最後の調整を進めていた。
「リンドウ様」
「ん?」
「この鞘なんですけど――」
「ああ、それなら入口を二ミリくらい広げていい。使ってる奴、抜刀するときの角度が浅いから」
「分かりました」
「あ、それと」
「はい?」
「五日後、俺いないからな。急ぎで確認してほしいのがあるなら、今日か明日までに持ってきて」
「存じております」
「…………誰から?」
「ザフィラ様ですね」
「なんで?」
「『五日後はリンドウに仕事を振らないで』と」
「…………」
先回りされていた。
何だよそれ……。
そんなに楽しみなのか?
「……楽しみなんだなぁ」
ハルが小さく呟いた。
「聞こえてるぞ」
「す、すみません!」
ものすごい勢いで作業へ戻った。
覚えてろよ……こいつ。
いや、別に何もしないけど。
なんか恥ずかしいから、とりあえず覚えてろ。
♢
四日目の夜。
寝る前に、明日の荷物をもう一度確認した。
簡単な野営道具に、食料と飲み水。着替え、タオル、採取用の道具、それから『月華晶』を傷つけずに持ち帰るための保存容器。
「…………」
一つずつ確認する。
全部ある。
忘れ物もない。
「…………」
なのに、何となく荷物をもう一回ひっくり返した。
やっぱり全部ある。
「…………」
少し考えて、着替えを一枚増やした。
別に深い意味はない。
温泉もあるし、何かの拍子に汚れるかもしれないからだ。
ほんとにそれだけ。
別に、デートだから服を余分に持っていこうとか、そういうんじゃない。
断じてない。
「…………」
誰に言い訳してんだ俺……。
荷物を閉じ、ベッドへ入る。
明日は朝が早い。
だから早く寝た方がいい。
分かっているのに、寝付くまでいつもより少しだけ時間がかかった。
♢
そして、五日目。
朝。
「…………早くねぇ?」
城門前で待っていたザフィラを見て、最初に口から出たのがそれだった。
「……何が?」
「来るの」
「あなたが決めた集合時間でしょう?」
「いや、そうだけど。まだちょっと早いだろ」
朝日は昇り始めたばかりなのに、ザフィラはもう完全に準備を終えていた。
いつもの戦装束よりも少し軽く、長く歩くことを前提にした服装で、腰にはクロノア、背中には必要最低限の荷物を背負っている。
ただ。
「…………」
「何?」
黒髪が、いつもより少しだけ丁寧に整えられている。
服も動きやすさは変わらないのに、どことなく普段とは違って見えた。
「いや」
「なに?」
「今日、ちょっと違うなって」
「…………」
ザフィラが一瞬だけ固まった。
「……変?」
「逆だ」
「逆?」
「……似合ってる」
「…………」
耳がぴんと立つ。
……分かりやすいなぁ。
「朝からそういうこと言わないで……」
「聞かれたから答えただけじゃん」
「そうだけど……」
「ザフィラこそ」
「何よ」
「俺も何か違うか?」
聞いてみると、ザフィラが俺の頭から足元までゆっくり眺めた。
「…………」
「長くない?」
「別に……」
「で?」
「いつも通り」
「そっか」
「…………でも」
「ん?」
「悪くないわ」
「何その評価」
「褒めてるの」
「俺はちゃんと似合ってるって言ったのに」
「じゃあ、似合ってる」
「言わせたみたいになったじゃんか」
「実際言わせたでしょう?」
「そうだけども」
ザフィラが楽しそうに笑う。
それだけで、朝から妙に気分がよかった。
二人で城門を抜けると、門兵がやたら元気よく姿勢を正した。
「お気をつけて!」
「おう」
その隣にいた別の兵士まで笑顔で、「ごゆっくり!」とか言いやがった。
「…………」
「…………」
少し歩いてから、俺は振り返った。
案の定、二人ともこっちを見ながらニヤニヤしている。
「……あいつら絶対知ってるよな?」
「何が?」
「今日の目的」
「さあ?」
「お前、言った?」
「言ってないわよ」
「じゃあ何であんな顔してんの?」
「ご主人様が分かりやすいからじゃない?」
「俺のせい!?」
背後から笑い声が聞こえた。
帰ったら訓練量増やそうかな……。
……いや、私怨でやるのは駄目か。
「行きましょ」
ザフィラが俺の隣へ並んだ。
「おう」
こうして、俺たちはアルセディアを出た。
目的地までは、普通に歩けば一日ほどかかる。
ゲーム時代の俺なら、そんな距離を一日かけて歩こうなんて絶対に考えなかった。
走れるなら走るし、高速移動の手段があるなら使う。転移できるなら転移して、可能な限り最短のルートを選び、最短の時間で目的地まで辿り着く。
それが普通だった。
今だって、本気を出せば昼前には着けると思う。
でも今日は、普通に歩いた。
「ねえ」
「ん?」
「本当に歩いて行くの?」
「そうだけど」
「急がないの?」
「なんで?」
「だって、ご主人様ならもっと早く着けるでしょう?」
「着けるけど」
「じゃあ――」
「……デートで走ってどうすんだよ」
「…………」
ザフィラの足がぴたりと止まった。
俺も二、三歩先で立ち止まり、振り返る。
「んだよ……」
「……別に」
「いや、今絶対なんかあっただろ」
「ないわ」
「耳」
「何よ」
「赤いけど」
「朝日よ」
「朝日って便利な言葉だな」
「うるさい」
ザフィラが少し早足で俺を追い越していく。
ただ、すぐに歩く速度を落としてから、結局また俺の隣へ戻ってきた。
さっきより、少しだけ近い。
歩くたびに肩が触れそうになって、それから今度は手の甲が軽く触れた。
一度。
少しして、また一度。
さらにしばらく歩いたところで、三度目。
「…………」
「…………」
なんだこれ、もう手ぇ繋げよ。
そう思うのに、何となくお互いに何も言わない。
四度目に手の甲が触れたところで、さすがに俺の方が耐えられなくなった。
「ザフィラ」
「なに?」
「これ、いつまでやんの?」
「何が?」
「手」
「知らない」
「じゃあ、もういいだろ」
俺から手を伸ばし、そのままザフィラの手を握った。
ただ重ねるだけじゃなく、指と指を絡める。
「…………」
「何?」
「最初からそうしなさいよ」
「お前からでもよかっただろ」
「誘ったのはご主人様でしょう?」
「そうだけどさ……」
「……リード、してほしいのよ」
「……ほら、行くぞ」
言ってからお互い恥ずかしくなったが、手を離す気はなかった。
ザフィラも同じだったらしく、絡めた指へ少しだけ力が加わる。
「……嬉しそうじゃん」
「誰が?」
「尻尾」
「見ないで」
「見えるんだよ」
黒い尻尾が、さっきから妙に機嫌よく揺れていた。
「ご主人様も嬉しそうよ?」
「どこ見て判断した?」
「手」
「…………」
「ちょっと強く握ってる」
「……気のせいじゃね?」
「そういうことにしておいてあげる」
「はいはい……」
二人で笑いながら、そのまま街道を歩いていった。
♢
昼前になったところで、一度休憩を取った。
街道沿いに大きな木があったので、その木陰へ二人で腰を下ろす。
「腹減ったな……」
「でしょうね」
「何持ってきた?」
「あなたのお弁当」
「俺の?」
「作ってきたわ」
「…………マジ?」
「何、その顔」
「いや……」
ちょっとどころじゃなく嬉しい。
「開けていい?」
「そのために持ってきたんでしょう?」
「それもそうか」
渡された包みを開く。
中にはパンと焼いた肉、野菜に卵、それから食べやすいよう小さく切られた果物まで綺麗に詰められていて、端には最近アルセディアで流行っている小さな焼き菓子まで入っていた。
「……ちゃんとしてるなぁ」
「失礼ね」
「いや、料理できるのは知ってるけどさ」
「なら何よ」
「なんか……デートっぽい」
「…………」
隣でザフィラが固まった。
「……今日、それ何回言うの?」
「だってデートだろ?」
「そうだけど」
「ならいいじゃん」
「私は慣れてないのよ」
「俺も全然慣れてないけど」
「嘘」
「いや、マジで」
「平気そうに見えるもの」
「それは頑張ってんの」
「…………」
「何?」
「そうなの?」
「……そうだよ」
パンを取って一口食べる。
「俺だって朝から何言えばいいか考えたりしてたし、昨日なんか荷物三回くらい確認したからな」
「……私も」
「え?」
「荷物、何度も確認した」
「…………」
「……何よ」
「いや」
なんだ……同じじゃんか。
それが妙に嬉しくて、思わず笑ってしまった。
「何で笑うの?」
「お互い様だなと思って」
「そうみたいね」
「……ちなみに、これ作るために何時に起きた?」
「いつもより少し早くよ」
「集合時間よりさらに早いじゃん」
「だから何?」
「楽しみにしてた?」
「しつこい」
「してたんだ」
「食べないなら返して」
「食う食う!」
慌てて包みを抱え込むと、ザフィラが堪えきれずに吹き出した。
「誰も取らないわよ」
「今返せって言ったじゃん」
「本気にするとは思わなかったもの」
「これ美味いし、返すわけないだろ」
「…………」
「何?」
「……ほんとに、美味しい?」
「うん。めちゃくちゃ」
「……なら、いいわ」
嬉しそうに笑う。
その顔を見ていると、妙な感じがした。
今、俺たちは戦っていない。
誰かを助けに行くわけでも、国同士の話をしに行くわけでもないし、災厄を追っているわけでも、攻略のために移動しているわけでもない。
ただ二人で歩いて、その途中に木陰を見つけたから座って、ザフィラが朝早く起きて作った飯を一緒に食べている。
それだけだ。
なのに、妙に満たされていた。
「…………」
「何?」
「いや」
「また見てたでしょう?」
「見てた」
「今日は素直ね」
「最近もう誤魔化すの面倒で」
「それはそれで困るわ」
「なんでだよ」
「こっちにも心の準備があるもの」
「…………」
今の、かなり可愛かったな……。
思わずドキッとした。
言ったら絶対怒る。
黙っとこう。
「ご主人様」
「ん?」
「今、何か失礼なこと考えたわね?」
「獣人って読心術まで使えんの?」
「顔よ」
「……やっぱ俺、そんな分かりやすい?」
「かなり」
「ミラにも言われたんだけど」
「でしょうね」
「最悪だ……」
「私は好きよ、分かりやすくて」
「…………」
「どうしたの?」
「急にそういうの入れるのやめて」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、飯が喉につまりそうになる」
「ふふ」
笑いながら、ザフィラが自分の果物を一つ摘まんだ。
そして少し考えたあと、それを俺の方へ差し出す。
「食べる?」
「食う」
手を伸ばしたら、ひょいと逃げた。
「おい」
「そのまま」
「何が?」
「手、使わないで」
「…………」
「……嫌?」
「それ使うの反則だろ」
仕方なく顔を近づけ、ザフィラの指先から果物を食べる。
「…………」
「…………」
今度は二人とも黙った。
「……やる側も恥ずかしいならやんなよ」
「思ったより恥ずかしかったのよ……」
「何だそれ」
「うるさい」
ザフィラが顔を逸らす。
耳まで赤い。
俺もたぶん、人のこと言えない。
……何やってんだ俺たち。
でも、悪くない。
かなり。
♢
午後になって街道を進んでいると、二台の荷車を連れた旅商人とすれ違った。
「おや、これは……」
先頭を歩いていた男が俺たちの顔を見て目を丸くする。
「リンドウ様では?」
「あー、今日は普通に旅してるだけだから、そんな畏まらなくていいよ」
「これは失礼を。お二人は、これからどちらへ?」
「ちょっと山の方まで。そっちはアルセディア?」
「ええ、西の村から布と果実酒を運んでおります」
「へえ」
荷車を見ると、護衛らしい冒険者が二人ついている。
ただ、それだけだった。
以前なら、この辺りを荷車二台に護衛二人だけで通るなんて、かなり危なかったはずだ。
魔物もいたし、盗賊もいた。それ以前に街道そのものが荒れていて、荷車で長距離を移動するだけでも相当な負担があった。
「この道、最近よく使われてんの?」
「ええ。アルセディアへ向かう商人も随分増えました」
「危なくない?」
「以前に比べれば、ずっと安全になりましたよ。兵士の巡回もありますし、街道沿いの魔物も減りました。それに何より、道そのものが良くなりましたから」
「道?」
「荷車が壊れなくなりました」
「あー……」
改めて足元を見る。
轍こそ残っているけど、以前みたいに深く抉れてはいない。大きな石も除かれているし、水が溜まりやすそうな場所には排水用の溝まで掘ってあった。
「これ、アルセディアがやったの?」
「周辺の村々と共同で整備したと聞いております」
「…………また知らねぇ」
「ふふっ」
すぐ横から笑い声がした。
「何だよ」
「今日も知らないこと増えたわね」
「ほんとにな」
前だったら少し引っかかったかもしれない。
でも今は、普通に笑えた。
旅商人と別れ、アルセディアへ向かって遠ざかっていく荷車を少しだけ振り返る。
「……昔だったら、あんな感じで来れなかったよな」
「ええ。護衛二人だけでは難しかったでしょうね」
「そっか」
変わったのは街の中だけじゃない。
アルセディアで暮らす人間が増え、その人たちが街の外へ出て、周りの村と話して、一緒に道を直して、その道を使ってまた新しい商人がやってくる。
「ほんと、勝手に育ってんな」
「また言った」
「今日はもう褒めてるって分かるだろ」
「最初から分かってるわよ」
「じゃあ毎回突っ込むなよ」
「面白いから」
「こいつ……」
笑いながら、また前を向く。
俺の知らないところで道が安全になり、人が歩き、商売が増えて、その先にある村まで繋がっていく。
俺が全部やらなくても、ちゃんと世界は進んでいる。
そんなことを思いながら隣を見ると、ザフィラと目が合った。
「何?」
「いや、何でもない」
「また見てた」
「今日は見る日なんです」
「何それ」
「デートだから」
「…………」
「また赤くなった」
「夕日よ」
「まだ夕方前だけど」
「……うるさいわね」
♢
夕方が近づくにつれて、平坦だった街道は少しずつ山へ入っていき、周囲の空気もゆっくり冷たくなってきた。
「疲れてない?」
俺が聞くと、ザフィラが呆れたようにこちらを見る。
「誰に言ってるの?」
「ですよね」
「ご主人様こそ」
「余裕」
「でしょうね」
俺たちの身体能力なら、一日歩き続ける程度は大した負担じゃない。
それでも今日は、一度も急がなかった。
途中で休み、飯を食べ、道端に気になるものがあれば立ち止まり、どうでもいい話をしながら何度も笑った。
ゲーム時代の俺なら、絶対にしなかったことばかりだった。
綺麗な花が咲いていても、景色が良くても、見たことのない鳥が飛んでいても、攻略に関係がなければそのまま通り過ぎていた。
「なあ」
「なに?」
「今日、俺ら何回くらい止まった?」
「知らないわよ」
「結構止まったよな」
「あなたが止まるからでしょう?」
「お前もだろ。さっきの花とか」
「綺麗だったもの」
「まあな」
「……嫌だった?」
「何が?」
「いちいち止まるの」
「いや」
俺は首を振った。
「むしろ、こういうのもいいなって思ってる」
「…………」
「何?」
「何でもない」
「いや、今笑ったろ」
「嬉しかっただけよ」
「また普通に言う」
「言わない方がいい?」
「それは嫌」
「わがままね」
「お前にだけは言われたくない」
俺が笑うと、少し前を歩いていたザフィラが立ち止まった。
俺が隣まで追いつくのを待ってから、何も言わずに手を差し出してくる。
「……ん」
「何?」
「手」
「見りゃ分かるけど」
「嫌ならいいわよ?」
「はいはい」
その手を取る。
「嫌じゃない」
「知ってる」
「またそれ」
「ふふ」
今度は最初から指を絡めた。
互いの歩幅が自然と揃って、そのまま夕暮れの道を進んでいく。
「そういやぁさ」
「なに?」
「この先、夜になると少し景色変わるから」
「何が?」
「霧。今はまだ何も見えないと思うけど、満月が上がると道が開く」
「昔にも来たことあるのよね?」
「何回も」
「誰かと?」
「一人」
「…………」
「何?」
「別に」
「絶対なんかあるだろ」
「じゃあ、ここへ誰かと来るのは初めて?」
「そうだけど」
「…………そう」
少しだけ、絡めていた指に力が入った。
「嬉しい?」
「ちょっとだけよ」
「そっか」
「あなたは?」
「俺?」
「初めて誰かと来たのが私で、嬉しい?」
「…………」
改めて聞かれると恥ずかしい。
でも。
「あぁ」
「…………」
「嬉しいよ」
「……そう」
「お前から聞いといて照れんなよ」
「照れてないわ」
「耳」
「夕日のせいって言ってるでしょ……」
「便利すぎるだろ夕日」
そう言いながら、俺もたぶん似たような顔をしていた。
同じ場所なのに、ゲーム時代とは何もかも違って見える。
昔の俺は一人で来て、採取ポイントだけ確認して、必要な素材を取ったら即帰っていた。
今度は誰かと来た。
その誰かが、ザフィラだった。
「リンドウ?」
「ん?」
「さっきから、少し握るの強いわよ」
「あ、ごめん」
慌てて力を緩めようとすると、ザフィラの指が逆に俺の手へ絡み直した。
「別に、離せとは言ってないわ」
「…………」
「そのくらいなら、いい」
「……了解」
ほんと、こういうところだよな。
俺が弱いの。
さらに山道を進むと、森は少しずつ深くなり、やがて街道から細い脇道へ入った。
この辺りまで来ると、人の気配もほとんどない。
「あとどれくらい?」
「もう少し」
「もう少しって?」
「日が沈んで、月が上がるくらい」
「曖昧ね」
「月がないと入れないんだから仕方ないだろ」
木々の隙間から空を見上げる。
西には沈みかけた夕日が残っていて、その反対側、東の空には白い月が少しずつ姿を見せ始めていた。
五日前に眺めたときよりも、綺麗に。
完全な円になっている。
「……満月」
俺が呟くと、隣のザフィラも空を見上げた。
「綺麗ね」
「ああ」
「もう採れる?」
「まだ。もう少し上がってから」
「そう」
しばらく二人で月を眺めながら歩く。
すると、ふいにザフィラが聞いた。
「リンドウ」
「うん?」
「楽しみ?」
何が、とは聞かなかった。
『月華晶』を採ることなのか、温泉なのか、この先にある満月の景色なのか。
それとも――今日という一日そのものなのか。
でも、たぶん答えは全部同じだった。
「うん」
俺は握っている手へ少しだけ力を込める。
「かなり」
「……そう」
「ザフィラは?」
「……聞くの?」
「聞きたい」
「…………」
ザフィラの金色の瞳が少しだけ逸れる。
もう夕日なんてほとんど残っていないのに、耳がほんのり赤い。
「私も」
「うん」
「……とっても、楽しみにしてた」
「そっか」
「五日前から」
「……そこまで言う?」
「聞いたのはご主人様でしょう?」
「そうだけど」
「昨日なんて、ちゃんと眠れるか少し心配だったくらい」
「俺も」
「え?」
「俺も寝つくの遅かった」
「…………」
「何だよ」
「同じだったのね」
「みたいだな」
二人で顔を見合わせる。
なんかもう、それだけでよかった。
同じ場所へ行くのを楽しみにして、同じように前の晩に眠れなくなって、朝早くから準備して、わざわざ一日かけて歩いてきた。
いつもなら一瞬で縮めようとする時間を、今日は二人でわざと長く使った。
それが、妙に嬉しかった。
「ご主人様」
「ん?」
「顔、にやけてるわよ」
「…………」
「ふふっ」
「お前もじゃん」
「私はいいの」
「なんで!?」
「デートを楽しんでるから」
「俺だってそうだよ」
「じゃあ、いいじゃない」
「……それもそうか」
森の中に、二人分の笑い声が響いた。
目的地はもう近い。
けれど、急ぐ必要なんてなかった。
満月はこれからもっと高く昇るし、霧の向こうにある湖も、花も、温泉も逃げたりしない。
だから俺たちは最後まで走らず、足元の道を一歩ずつ進んでいった。
絡めた指も、離さないまま。
ゲームだった頃なら、こんな移動時間は真っ先に飛ばしていただろう。
何も起こらない道中なんて、俺にとっては目的地へ着くまでの無駄な時間でしかなかった。
でも今は違う。
ザフィラが隣にいて、くだらないことで笑って、時々足を止めて、一緒に同じものを見る。
そんな時間なら、少しくらい長くたっていい。
むしろ、今日は。
できるだけ長くてもいいと思った。
だから俺たちは、手を繋いだまま歩いていく。
今日という一日を。
どこも、少しも飛ばさないように。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、リンドウとザフィラのデート当日でした。
目的地までは、本気を出せば半日もかからない距離。
それでも今回は走らず、途中で立ち止まり、お弁当を食べ、どうでもいい話をしながら一日かけて歩いています。
ゲーム時代のリンドウにとって、目的地までの移動時間はできるだけ短くするもの。
攻略に関係のない景色も、道端の花も、立ち止まって見る理由はありませんでした。
でも今回は、その“何も起こらない時間”そのものをザフィラと楽しんでいます。
そして次回、いよいよ満月の夜だけ姿を現す秘境へ。
湖、巨大な花、天然の温泉、そして『月華晶』。
……素材採取がついでなのを、リンドウが最後まで忘れなければいいのですが。
次話もよろしくお願いします。




