88:覇王、知らないアルセディアを歩く。
食堂を出たあとも、ザフィラは俺の手を離さなかった。
というか、むしろ離す気がないらしい。
廊下ですれ違った侍女が一瞬だけこっちを見て、それから何事もなかったように頭を下げて通り過ぎていったけど、口元が若干緩んでいた気がする。
「……なあ」
「なに?」
「もう城の中なんだけど」
「そうね」
「人いるぞ?」
「いるわね」
「手……」
「繋いでるわね」
「…………」
こいつ、絶対分かってやってるだろ。
指摘したところで放してくれる気配もないし、俺から振りほどく理由も特にないので、そのまま城の正門まで歩いた。
外へ出れば、朝のアルセディアはすでに動き始めていた。
石畳を行き交う荷車に、店先へ商品を並べる商人。仕事場へ向かう職人たちが挨拶を交わし、少し先では冒険者らしい一団が荷物を背負いながら何やら楽しそうに話している。
こういう光景自体は、別に初めて見るものじゃない。
ただ。
「……人、増えたな」
思わず口から漏れた。
「今さら?」
「いや、分かってはいたけどさ」
王都を奪還した直後と比べれば、通りを歩く人間の数が明らかに違う。
あの頃は、まだ街そのものが息を吹き返そうとしている途中だった。
閉まったままの店も多かったし、道端には崩れた石材や壊れた荷車が残っていて、建物の修繕に追われる人間ばかりだった。
それが今は、通り沿いの店のほとんどが開いている。
パン屋からは焼きたての匂いが漂い、向かいでは果物を山積みにした店主が声を張り上げ、その隣では見たことのない布地を並べた露店に女性たちが集まっていた。
生活を立て直すための街というより、もう普通に生活している街だ。
「あなた、帰ってきても城と工房とギルドくらいしか行かないでしょう?」
「いや、そんなことないだろ」
「じゃあ最後に西区へ行ったのは?」
「…………」
「南通りは?」
「…………」
「東の住宅街」
「……いつだっけか」
「ほら」
「いや、王様ってそんな街中ウロウロするもんなのかね?」
「都合が悪くなると王様を使うのやめなさい」
それを言われると何も返せない。
ザフィラは呆れたように笑いながら、俺の手を引いて大通りから脇道へ入った。
「とりあえず、学校から見せてあげる」
「三つ目の?」
「そう」
「一晩寝てもまだ信じられねぇんだけど」
「昨日できたわけじゃないわよ」
「分かってるって」
しばらく歩いているうちに、見覚えのある場所へ出た。
「あれ?」
足を止める。
「ここ……」
「覚えてたのね」
「いや、そりゃ覚えてるだろ」
以前ここには何もなかった。
正確には、建物が壊されたあとに瓦礫だけ撤去して、そのままになっていた広い空き地だった。
奪還直後、この辺りまで手を回す余裕がなくて、いずれ何か建てればいいだろうと放置していた場所だ。
それが。
「……学校、増えてんな」
「だから増えたって言ったでしょう?」
そこには二階建ての大きな建物が建っていた。
派手な造りではないけれど、真新しい木材と白い石壁が朝日に照らされている。
正面には広めの庭があり、子供たちが走り回っていた。
まだ授業前なのか、年齢も種族もばらばらな子供たちが追いかけっこをしていたり、木の枝で地面に何かを書いていたりする。
「……誰が建てろって言ったんだ?」
俺が聞くと、ザフィラが首を傾げた。
「誰も言ってないわよ?」
「誰も?」
「ええ」
「じゃあなんで建ってんの?」
「必要だったからじゃない?」
あまりにも当たり前みたいに返されて、言葉に詰まった。
「最初の学校、すぐいっぱいになったのよ。子供も増えたし、読み書きを習いたい人も予想以上に多かったから」
「……ああ、なるほど」
最初に学校を作ったときは、孤児や貧しい家庭の子供でも最低限の読み書きや計算を覚えられるように、という目的が大きかった。
国を立て直すなら教育は必要だ。
俺もそう考えていた。
けど。
「だから、最初の学校で教えてた人たちと商人組合、それに住民の代表が相談して、こっちにも必要だって話になったの」
「で、建てたってか」
「そう」
「俺に通さずに?」
「駄目だった?」
「いや……」
即座に首を振る。
「全然。むしろいい」
いいどころか、その方がいい。
ただ、妙な感じだった。
ゲームなら、国の施設を増やすならプレイヤー側から指示を出す。
必要な資材を集め、条件を満たして、建設メニューから選択する。
当然だ、勝手にNPCが空き地へ学校を建て始めることなんてない。
でも、ここでは。
人が増えた、学びたい奴が増えた。
じゃあ学校が足りない、だから作る。
俺の知らないところで話が進み、俺が知らない間に完成して、もうそこで子供が遊んでいる。
「……本当に勝手に育ってんな、この国」
「勝手って言い方はどうなの?」
「褒めてんだよ」
「そうは聞こえないわね」
「俺が何も言わなくても必要なもの作ってんなって意味」
「それなら最初からそう言いなさい」
「めんどくせぇなぁ」
そんなことを話していると、校舎の方から一人の女性が出てきた。
まだ若い。
俺たちに気づいた瞬間、驚いたように目を見開き、慌てて頭を下げる。
「り、リンドウ様! ザフィラ様!」
「あー、いいって。今日は普通に見に来ただけだから」
「見学してもいいかしら?」
「もちろんです!」
女性は教師らしい。
そのまま案内されて建物の中へ入る。
中も思ったよりちゃんとしていた。
廊下には子供たちが描いたらしい絵が貼られているし、壁際には文字の練習用なのか、大きな板に共通語の文字が並んでいる。
教室を覗けば、長机と椅子。
まあ、普通の学校だな。
俺の知ってる学校とはかなり違うけど。
「今は、何教えてんの?」
「午前は主に読み書きと算術です。年齢や習熟度で教室を分けています」
「へえ」
「午後は日によって変わりますが、衛生、基礎魔術、簡単な歴史、それから商人組合の方に来ていただいて帳簿の付け方を教える日もあります」
「……結構ガチじゃん」
「がち?」
「いや、ちゃんとしてるなって」
俺が言うと、先生は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「でも、基礎魔術まで教えてんの?」
「はい。魔力を持つ子供には、暴発させないための扱い方だけでも早いうちに教えた方がいいという話になりまして」
「あー、それは確かに」
生活の中に普通に魔法がある世界だ。
才能があれば勝手に使える、で済ませるより、基礎くらい教えた方が安全に決まっている。
「誰が言い出したの?」
「ノア様から助言をいただきました。そのあと、冒険者ギルドに相談して、今は魔術師の方が交代で講師に来てくださっています」
「ノアかぁ……」
あいつ、俺の知らないところでそんなことしてたんか。
知らなんだわ……。
「衛生は?」
「ノア様と、街の治療院の方々です。手洗いや飲み水の管理、それから簡単な怪我の処置などを」
「……めちゃくちゃ大事じゃん」
下手な攻撃魔法よりよっぽど重要だ。
俺が感心している横で、ザフィラがじっとこちらを見ていた。
「何だ?」
「別に?」
「その顔絶対なんか言いたいだろ」
「あなたが知らなかったことが、また一つ増えたなと思って」
「……うるせぇ」
そう言いながら次の教室へ向かう。
そこはさっきまでの部屋とは少し雰囲気が違った。
机に座っているのが、子供じゃない。
「……ん?」
どう見ても大人だ。
若い奴もいるけど、四十代、五十代くらいに見える人間もいる。
中には白髪の老人までいた。
教師が前の板へ文字を書き、それを皆が真剣な顔で自分の板へ写している。
「大人もいるのか?」
小声で尋ねる。
「ええ」
答えたのは先生だった。
「夜の授業が中心ですが、仕事の時間が合わない方はこちらへ来られます」
「夜もやってんの?」
「はい。子供の頃に学ぶ機会がなかった方が、思っていた以上に多かったので」
それを聞いて、教室をもう一度見る。
年配の男性が、ぎこちない手つきで文字を書いている。
隣の女性が何か教え、男性が照れくさそうに笑った。
別の席では、若い獣人の男が指で数を数えながら計算問題を解いている。
「読み書きできないと困ること、増えたものね」
ザフィラが言った。
「冒険者ギルドの依頼書、商店の値札、仕事の契約、役所からのお知らせ。前は誰かに読んでもらえば済んでいたけど、それじゃ困るって思う人が増えたのよ」
「……そっか」
国が発展すれば、文字が必要になる。
仕事が増えれば、計算も必要になる。
制度を作れば、それを読む力も必要になる。
俺は「教育が必要だから学校を作る」と考えた。
でも、実際にそこで暮らす人間は、もっと具体的な理由で学ぼうとしている。
依頼書を自分で読みたい。
給料が合っているか計算したい。
自分の名前を書きたい。
子供から来た手紙を、自分で読みたい。
……たぶん、そういうことなんだろう。
「……あ」
教室の隅にいた老人が、ふとこちらに気づいた。
目が合う。
慌てて立とうとするので、俺は手で止めた。
「いい、いい。そのまま」
「し、しかし……」
「授業中だろ。続けろ」
老人は少し迷ってから、ゆっくり腰を戻した。
その手元を見る。
板に書かれていたのは、たった一つの名前だった。
何度も書き直した跡がある。
俺には知らない名前。
でも、自分の名前なんだと思う。
「……書けるようになったか?」
聞くと、老人は恥ずかしそうに笑った。
「今日、初めて……全部、自分で」
「そっか」
「今まで、印しか付けられませんでしたから」
老人は板に書かれた自分の名前を見ながら、少しだけ誇らしそうだった。
「孫が、文字を覚えましてな。今度、手紙を書いてくれるそうで」
「へえ」
「今までは娘に読んでもらっておりましたが……次は、自分で読めるかもしれません」
「……いいじゃねぇか」
「はい」
それ以上、俺から言うことはなかった。
頑張って、とか。
立派だ、とか。
そういうのも何か違う気がして。
「じゃあ、邪魔して悪かったな」
「いえ!」
老人が深く頭を下げる。
教室を出て、しばらく廊下を歩いた。
「…………」
「静かね」
「ちょっと考えてただけだ」
「珍しいこともあるものね」
「お前今日ずっと俺のこと馬鹿にしてない?」
「愛情表現よ」
「歪んだ愛情表現はやめようね」
ザフィラが笑う。
俺も少し笑ってから、窓の外を見た。
庭では子供たちがまだ走り回っている。
一人が転んで、別の子供が手を差し出していた。
特別な光景じゃない。
たぶん明日も同じことをする。
「俺、学校作ったときさ……」
「ええ」
「国立て直すなら、文字読める奴増やした方がいいだろって、それくらいにしか考えてなかったんだよ」
「あなたらしいわね」
「だろ?」
「褒めてないけど」
「知ってるわ……優しくねぇな」
肩をすくめる。
「でも、あの爺さんが孫の手紙読みたいから勉強してるとか、そこまでは考えてなかった」
「全部考える必要なんてないでしょう?」
「……そうなのかな」
「そうよ」
ザフィラは窓枠へ軽く腰を預けた。
「あなたはきっかけを作った。それをどう使うかまで、全員分あなたが決める必要はないわ」
「…………」
「学校だってそうでしょう? 最初の一つはあなたが作った。でも、足りなくなったから二つ目ができて、また足りなくなったから三つ目ができた。教えることだって、必要だから増えた」
「俺が知らない間に?」
「ええ」
「なんか王様としてどうなんだ、それ」
「全部知らないと王様じゃないの?」
「いや……」
俺は少し考えた。
知らないということが、以前なら気持ち悪かったかもしれない。
レムオンでは、知らないことは攻略の穴だった。
マップも、敵の配置も、素材の場所も、NPCの行動も、イベント条件も。
知らないものがあれば調べる。
調べて、覚える。
覚えた情報を使って最適化する。
そうして俺は世界一位まで行った。
でも――今、俺の知らない学校が建っている。
俺の知らない授業が行われている。
俺の知らない老人が、自分の名前を書けるようになっている。
知らなかった。
それなのに、別に困っていない。
むしろ。
「……悪くねぇな」
「何が?」
「俺の知らないことが増えるのも」
ザフィラが少しだけ目を細めた。
「そう?」
「うん」
これが全部、俺の命令通りにしか動かない国だったら、俺が外へ出るたびに止まってしまう。
俺がいなければ何も決められず、何も増えず、何も変わらない。
それは国じゃない。
ただの、俺の拠点だ。
「あなたがいない間にも、国は動いてるのよ」
ザフィラが静かに言った。
「学校も増えるし、店も増えるし、誰かが新しい仕事を始める。あなたが知らないところで喧嘩もするし、仲直りもするし、恋人だってできる」
「最後の情報いる?」
「大事でしょう?」
「まあ……人口増えるなら大事か」
「そういうところよ」
「何がだよ」
笑われる。
そのまま校舎を出ると、ちょうど授業開始を知らせる鐘が鳴った。
庭にいた子供たちが一斉に建物へ駆け込んでいく。
そのうちの一人が俺に気づいて、走りながら大きく手を振った。
「リンドウ様ー!」
「廊下走んなよー!」
「はーい!」
返事だけはいいけど。
絶対走るだろ、あいつ。
「教師みたいなこと言うのね」
「転んだら痛いだろ」
「そうね」
ザフィラが隣へ並ぶ。
「それで?」
「ん?」
「次、どこ行く?」
「俺が決めんのか?」
「視察なんでしょう?」
「お前が言い出したんだろ」
「じゃあ、次は市場ね」
「新しくできたやつか?」
「そう」
「そこも俺知らないんだよなぁ……」
「安心して。まだまだあるから」
「何を安心すりゃいいんだよ」
歩き出す。
学校を離れ、大通りへ戻る。
途中、見覚えのない店がまた一軒あった。
その向かいにも。
壁には知らない催しの張り紙。
路地の奥からは、知らない楽器の音まで聞こえてくる。
「…………」
「どうしたの?」
「いや」
俺は少しだけ笑った。
「今日一日で足りるんか?」
「無理じゃない?」
「だろうなぁ……」
「だって、あなたが思ってるよりずっと変わってるもの」
「……そっか」
その言葉が、今度は少し嬉しかった。
俺が知らなくても。
俺が見ていなくても。
ここにいる奴らは、自分たちで必要なものを考えて、作って、変えていく。
昨日まで俺は、百年以上も同じ道を辿り続けたゼフィロスを見ていた。
だから余計に思う。
帰る場所っていうのは、昔のまま待っていてくれる場所じゃないのかもしれない。
俺がいない間にも変わって。
知らないものが増えて。
それでも、帰ってきたらちゃんと受け入れてくれる。
たぶん、そういう場所だ。
「リンドウ?」
「ん?」
「ぼーっとしてると置いてくわよ」
「いや、手繋いでんだからそりゃねぇだろ」
「あら、そうだったわね」
「絶対忘れてなかっただろ」
ザフィラの尻尾が楽しそうに揺れる。
握った手は、そのままだった。
知らない学校を一つ見ただけで、朝からこんなに驚かされるとは思わなかった。
この調子なら、今日が終わる頃にはどれだけ俺の知らないアルセディアを見せられるのか分からない。
でも、それもまあ、悪くない。
せっかく帰ってきたんだ。
俺の知らない間に育ったこの国を、今日はゆっくり見て回ろう。
隣にいるこいつと一緒に。
お読みいただきありがとうございます。
第五章、しばらくは少しゆっくりとしたアルセディアの日常が続きます。
リンドウがいない間にも学校が増え、人が学び、国は少しずつ自分たちの力で前へ進んでいました。
次回は、さらに「リンドウの知らないアルセディア」を見て回ります。
新しくできた市場や食材の祠、そして街に生まれ始めた“余裕”のようなものも描いていく予定です。
次話もよろしくお願いします。




