85:【天鯨の帰る空】
第七の『雨の道標』には、青白い光が灯っていた。
百年以上ものあいだ本来の意味を失い、『誘導塔』と呼ばれ、人間が災厄を自分たちから遠ざけるための装置へ作り替えられてきた最後の塔。
それでも基礎の奥深くには、かつて風巫女と天鯨のために作られた古い回路が残っていて、今、その光はまるで長い眠りから目を覚ましたように真っ直ぐ空へ伸びている。
その光を見つけたゼフィロスは、静かに進路を変えた。
「……行くのか?」
俺は『ドライ』を握ったまま、巨大な頭部の上に立っていた。
もう叩いてはいないし、無理やり押してもいない。
少し前までなら、ゼフィロスが北へ逸れようとするたびに頭部へ衝撃を入れ、残した二枚の『風鰭』の動きを見ながら、どうにか海側へ姿勢を変えさせていた。
でも、もうその必要はなかった。
ゼフィロス自身が第七の光を見つけ、自分からそちらへ身体を向けている。
――ォォォォォォォォォォォォォン。
長い声が、広い空へ響いた。
少し前までなら、暴風と雷に紛れたただの咆哮にしか聞こえなかったはずの声。
でも。
もう、そうは聞こえない。
リュネアの歌を受け取って返した、もう半分。
風巫女が呼びかけ、天鯨が応えることで初めて完成する『返り声』。
その意味を知ってしまったあとでは、何百回も聞いてきたはずの同じ声が、まるで別のものみたいに聞こえた。
『リンドウ!』
頭の中へアウラの声が飛び込んでくる。
「聞こえてる」
『ゼフィロスが東へ向いたぞ!』
「こっちでも見えてるよ」
『第七の『雨の道標』を追っているのか!?』
「多分な」
巨大な身体が緩やかに傾くと、それまで周囲を覆っていた雨雲まで一緒に海側へ動き始める。
急旋回じゃない。
かつての『覇王式誘導法』で何度も見た、強い魔力に引かれて無理やり首を捻らされたような動きでもない。
ゆっくりと、自分で確かめるように。
――こっちへ行く。
そう決めたような動きだった。
『第一塔より報告! 天鯨、予定航路からの逸脱なし!』
別の声が通信へ割り込む。
『第二塔、周辺異常ありません!』
『第三、採石場の無人を再確認!』
次々に報告が続いた。
『第四塔、下流水位正常!』
『第五塔、開拓村への接近なし!』
『第六! 街道封鎖継続中だ!』
最後だけ、明らかに声がでかい。
「お前、報告まで声でけぇよ」
『聞き取りやすいだろう!』
「……まあな」
思わず笑った。
その通信の向こうでは、俺たちが作った新しい道の周りで、たくさんの人間が動いている。
第一の『雨の道標』がある丘では、羊たちが安全な牧草地へ移されている。
第二の周辺では、街外れに住む人たちが戸締まりをしながら、それでも窓越しに空を見上げているだろう。
第三の採石場は無人になり、第四の下流では村の人たちが川の水位を測っている。
第五の近くには、俺たちの古い地図には存在すらしなかった新しい村がある。
きっと今頃、あの村の人たちも石造りの避難所から、同じ空を見ている。
第六の街道は閉鎖され、第七の先にある海岸からも、人はすでに離れている。
「……」
考えてみれば……これは、俺一人で作った道じゃない。
アウラと一緒に現地を歩いて、エアリスの職員たちが土地を調べ、職人たちが壊れた『雨の道標』を直し、そこに暮らしている人たちから話を聞いた。
地図に載っていなかった生活を見つけるたびに、何度も航路を書き直した。
そして最後は、エアリスの人たち自身が昔の方法へ戻らないことを選んだ。
百年以上前の道じゃない。
ゲーム時代に俺が最適化した道でもない。
今ここで生きている奴らが、今ある暮らしを見ながら作った。
今のための道だ。
「……七つ、か」
俺は後ろを振り返った。
一番遠くにある第一の『雨の道標』は、もうゼフィロスを引きつけるほどの強い光を出してはいない。
それでも、淡い光は残っていた。
作戦の成功を知った各塔の技師たちが、進路へ影響を与えない程度まで出力を落とし、それでも道標として見えるよう、光だけを残してくれているらしい。
第一。
第二。
第三。
第四。
第五。
第六。
そして、俺たちの前にある第七。
距離が離れすぎているから、全部を同時に肉眼で見ることなんてできない。
それでも――地上から空へ伸びる七つの光が、一つの道として繋がっていることだけは分かった。
「……昔とは違うぞ」
俺は足元のゼフィロスへ話しかける。
「これは、リュネアが作った道じゃねぇ」
ルアネ連邦は、もうない。
風巫女もいない。
当時の街も、田畑も、人の暮らしも。
百年以上前とは、何もかもが変わった。
「今の道だ」
ゼフィロスが、また低く鳴いた。
それが俺への返事だったのか。
ただ呼吸をしただけなのか。
分からない。
でも、それでいい。
分からないものを、勝手に分かったことにするのはもうやめた。
分からないなら――分からないまま、ちゃんと見ればいい。
♢
第七の『雨の道標』へ近づくにつれて、ゼフィロスの周囲を覆っていた嵐が、少しずつ形を変え始めた。
「……ん?」
最初に気づいたのは、風だった。
弱くなっている。
もちろん、完全に消えたわけじゃない。
こんな巨大な身体が空を泳いでいるんだから、周囲に風が生まれるのは当然だ。
でも、さっきまでみたいな。
周囲にあるものを片っ端から壊してしまいそうな、荒れ狂う暴風じゃない。
巨大な渦が、少しずつほどけ始めている。
雲の中を走っていた雷も、明らかに減っていた。
「何だ……?」
こんなゼフィロスは、知らない。
ゲーム時代、討伐直前ならむしろ逆だった。
『風鰭』を失い、体力が減り、頭部の弱点が露出する最終段階では、ゼフィロスは最後の抵抗みたいに嵐を激化させ、空一面を雷で埋め尽くす。
それが、俺の知っている終わり方だった。
でも今は、終わりへ近づくほど静かになっている。
「……お前、何してんだ?」
そう呟いた瞬間。
足元で、ゼフィロスの頭部を走る青白い紋様が強く光った。
「っ」
同時に、視界へ青白い文字が現れる。
ゲーム時代には存在すら知らず、この世界へ来た直後に名前だけを聞き、ゼフィロスとの戦いの中で初めて表示として姿を現した謎のシステム。
『レムナント・レコード』
その下に、ゼフィロスの情報が浮かび上がる。
『第五災位『嵐』』
『天渦鯨ゼフィロス』
『分類――『七つの残誓』』
『中枢――『誓核』』
「……またか」
『誓核』。
その文字が現れたのと同時に、ゼフィロスの頭部中央。
俺がゲーム時代に何度も、何度も、何度も殴った場所から、細い光の亀裂が広がり始めた。
「……」
反射的に『ドライ』を構えた。
攻撃しようと思ったわけじゃない。
身体が勝手に動いた。
弱点が露出した。
最終局面へ入った。
なら、ここで殴る。
十二年間、何百回も繰り返した動きを身体が覚えている。
「……違う」
自分へ言い聞かせる。
光の亀裂がゆっくり広がり、ゼフィロスの頭部が左右へ開いていく。
でも、その下に見えたのは血でも肉でもなかった。
青、白――そして淡い黄金。
いくつもの光が混ざり合った、巨大な結晶。
『誓核』。
以前見えたときよりも、ずっとはっきりとむき出しになっている。
「……マジかよ」
手を伸ばせば触れられる。
『ドライ』を振れば届く。
俺には分かってしまう。
ここを殴れば、終わる。
たった一撃。
それだけでいい。
俺は無意識に『ドライ』を握り直していた。
右足を半歩引き、腰を回せるように身体を開き、重心を落とす。
どう振れば一番効率よく力が伝わるのか。
どの角度なら『誓核』を一撃で砕けるのか。
考える必要すらない。
全部、身体が覚えている。
「……」
簡単だ。
笑えるくらい。
怖くなるくらい。
簡単だった。
この数日は一体何だったんだ。
そう思うくらい、昔の俺がずっと正解だと思っていたものが、目の前にある。
弱点を知っている。
攻略法を知っている。
最も早く。
最も確実に。
どうすればゼフィロスを殺せるのか。
全部知っている。
でも。
「……知っちまったんだよ」
『ドライ』を握る手が止まった。
頭の中に、一人の少女が浮かんだ。
十三か、十四か。
まだ、それくらいだったリュネア。
長い旱魃。
枯れた井戸。
ひび割れた畑。
弱っていく家畜。
空を横切る巨大な天鯨を、人々は災厄だと思った。
雨を奪う化け物だと。
追い払えと。
殺せと。
そう言った。
でも、あの少女だけが違うものを見ていた。
『あの子は雨を奪ってるんじゃない』
『雨を、運んでるんだよ』
「……」
丘の上に立った少女が、風に声を乗せる。
『雨を運ぶあなた』
『もし、私の声が聞こえるなら』
『この国にも、雨を分けてください』
そして、天鯨は応えた。
雨が降った。
翌年、ゼフィロスはまた来た。
だから――今度は少女が約束した。
『毎年、この国へ雨を連れてきて』
『あなたが迷わないように』
『私たちが灯をともすから』
国中の職人が。
魔術師が。
神官が。
七つの『雨の道標』を作った。
そして毎年、リュネアは歌った。
風へ声を乗せて。
ゼフィロスは返した。
雨を運んできた。
それが一年、また一年と続いた。
少女は大人になった。
きっと、年も取った。
いつか自分が歌えなくなることも知って。
次の風巫女へ歌を渡した。
『あの子が迷わないように』
でも、国は永遠じゃなかった。
ルアネ連邦は衰え。
人が減り。
塔は壊れ。
風巫女の系譜も途絶え。
歌の意味さえ忘れられた。
そして、誰もゼフィロスへ伝えなかった。
もう来なくていい。
もう国はない。
もう――リュネアはいない。
そんなこと、あいつが知るわけない。
「……百年以上」
それでも毎年、来た。
雨を運んで、帰ってきた。
誰も待っていない場所へ。
「お前……」
喉の奥が、少しだけ詰まった。
俺は目の前にある『誓核』を見る。
青白い光の中から、細い糸のようなものが何本も伸びていた。
そのすべてが向かっているのは――西。
かつて、ルアネ連邦があった方向。
「……まだ、繋がってんのか」
これが『残誓』なのか。
俺にはまだ分からない。
『レムナント・レコード』は何も説明してくれない。
でも、説明されなくても、見れば分かることくらいはある。
この『誓核』は……ずっと、何かに縛られている。
昔交わした。
たった一つの約束へ――戻るために。
「……」
俺はもう一度『ドライ』を持ち上げた。
あと一回振れば、終わる。
ゲームなら、それで勝ちだ。
討伐判定が出る。
素材を拾う。
タイムを確認する。
ランキングを見る。
また次の周回へ行く。
ずっと、そうやってきた。
「……なあ」
俺は『誓核』から目を離し、ゼフィロスの巨大な金白色の瞳を見た。
そこに小さな俺の姿が映っている。
「お前は……」
――殺されたいか?
そんなことを聞こうとして、やめた。
聞いたって俺には答えなんて分からない。
なら、別のことを聞けばいい。
「……どっち行きたい?」
前を見る。
第七の『雨の道標』。
その先には、海。
まだ、ゼフィロスが一度も選んだことのない空がある。
後ろには、もう存在しないルアネ連邦。
百年以上――帰ろうとし続けた方向。
「……」
ゼフィロスの瞳が僅かに動いた。
どちらを見ているのか、俺には分からない。
でも、今度は俺が決めるつもりはなかった。
塔を最大出力で光らせて引っ張らない。
頭を殴って無理やり曲げない。
そして……殺して終わらせない。
「選べよ」
小さく言った。
「今度は、自分で」
リュネアはいない。
国もない。
それでも、道ならある。
昔と同じじゃない。
俺たちが今、作った道が。
「自分で決めろ」
俺は『ドライ』を下ろした。
何度もこいつを殺してきた武器。
その『ドライ』を、ゼフィロスの頭部へ、ゆっくり置く。
「俺はもう殴らねぇ」
『誓核』は無防備に露出している。
今なら、簡単に壊せる。
それでも、俺は武器から手を離した。
「好きな方に行け」
♢
しばらく、何も起きなかった。
風が吹いている。
細かな雨が頬を叩く。
第七の『雨の道標』だけが、変わらず海へ続く空を青白く照らしている。
ゼフィロスは、止まったままだった。
「……」
もし、こいつが今、昔の国があった方向へ戻ったら。
そのときは……どうする?
たぶん、また考える。
それだけだ。
殺さないと決めたから、すべてがうまくいくなんて思ってない。
俺の選択が正しい保証だってない。
ただ、今。
ゼフィロスがどうしてここへ来ているのかを知った。
それを知ってしまったから。
知らなかった頃と同じようには殴れなくなった。
本当に……それだけなんだ。
『リンドウ』
アウラの声が聞こえた。
いつもより少しだけ小さい。
「何だ?」
『どうした?』
「今、待ってんだ」
『何を?』
「こいつが決めるのを、だよ」
少しだけ間があって。
『……そうか』
アウラはそれ以上何も言わなかった。
「お前、珍しく聞かないな」
『お前が待つなら、待つ』
「……そっか」
遠く。
地上でも、たくさんの人が待っている。
エアリスの八万人。
南西に暮らす人たち。
小さな村も。
畑も。
家畜も。
みんな、同じ空を見上げている。
怖いはずだ。
――早く殺してくれ。
そう思っている奴だって、きっといる。
当然だ。
それでも、第二の『雨の道標』は点かなかった。
誰も、あの古い方法へ逃げなかった。
だから、あいつらも……きっと待ってる。
「……お前さ」
俺はゼフィロスへ苦笑する。
「すげぇ迷惑かけてんだぞ」
返事はない。
「……まあ、俺も人のこと言えねぇけどさ」
その言葉を口にした瞬間。
ふと、「帰る場所」という言葉が頭へ浮かんだ。
アルセディア。
城、街、工房。
ミラ。レオ。ジン。ラグ。
それから、ザフィラ。
『帰ってきてね、ご主人様』
出発する前、二人きりのときあいつはそう言った。
俺も、帰ると答えた。
今の俺には帰るところがある。
それが、少しずつ当たり前みたいになり始めている。
でもこいつは――。
百年以上、誰もいなくなった場所へ帰ろうとしていた。
「……」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
でも、今はそこを深く掘るのはやめておく。
これは俺の話じゃない。
今はこいつの話だ。
ただ、一つだけ思う。
帰る場所が昔とまったく同じ形で残っていなくても。
だからって、帰るための道まで消えなきゃいけないわけじゃない。
「……なあ」
俺は小さく口にする。
「……帰る場所は、もうないけどさ」
前には、海がある。
その上に、新しく作った道がある。
「帰れる空くらいなら……あるだろ」
いや――違う。
「ないんだったら……作ればいいさ」
その瞬間だった。
ゼフィロスの巨大な瞳が、ゆっくりと閉じた。
「……」
長く。
まるで、何かを考えるみたいに。
そして、また開く。
巨大な頭部が動いた。
「……来た」
最初に、ほんの少しだけ。
――東、第七の『雨の道標』を見る。
そこから、さらにその先の海へ。
次に、ほんの僅かだけ後ろへ。
かつてルアネ連邦があった方向へ。
「……」
俺は、何もしなかった。
『ドライ』にも触れない。
ただ、待った。
そして、ゼフィロスの頭が、もう一度東へ向いた。
今度は――戻らなかった。
「……お前」
残っている二枚の『風鰭』が、大きく空へ広がった。
周囲に風が集まる。
でも、暴風じゃない。
巨大な身体を浮かせ、前へ運ぶための風。
そして、ゼフィロスは進み始めた。
「……そっち選ぶのか」
第七の『雨の道標』、その先の海。
百年以上前にはなかった道。
リュネアが作ったものでもない。
俺たちが、今作った道。
そこへ……ゼフィロス自身が進んでいく。
「……はは」
笑いが漏れた。
……嬉しいのかね。
たぶん、それだけだ。
「そうか」
誰かに進路を変えられたわけじゃない。
第二、第四、第六の塔から強い魔力を浴びせられ、無理やり引っ張られたわけでもない。
俺に頭を殴られて、押されたわけでもない。
こいつが、自分で、そっちへ行くと決めた。
「……行けよ」
その瞬間。
ピシッ、と。
小さな音が聞こえた。
「……え?」
『誓核』。
結晶の表面へ、細い亀裂が一本走っている。
「……何だ?」
反射的に身構える。
俺は何もしていない。
誰も触っていない。
なのに、もう一度。
ピシッ。
淡い光の亀裂が増える。
「……『誓核』?」
そして、かつてルアネ連邦があった西の方角へ伸びていた細い光の糸が。
一本、ふっと……切れた。
「……」
次も、その次も。
一本ずつ、ほどけるように消えていく。
嫌な壊れ方じゃない。
魔力の暴走もない。
むしろ――これは。
「……ほどけてる?」
絡まり続けた糸が、一本ずつ解けていくみたいだった。
『レムナント・レコード』
青白い表示が揺らぐ。
『中枢――『誓核』』
文字が、少しずつ薄くなっていく。
「……まさか」
『誓核』へ、また亀裂が走った。
「おい」
思わず手を伸ばす。
でも、触れられなかった。
――怖い。
これが砕けたら、ゼフィロスは死ぬのか?
俺が殴らなくても。
結局……こいつは死ぬ?
「……待て」
それは。
違う。
「待てよ!」
俺はそんな結末を選んでない。
「死ぬなよ!」
我ながら。
滅茶苦茶なことを言っている。
「俺、お前を殺さないって決めたんだから!なぁ、ゼフィロス!」
その瞬間。
ゼフィロスが鳴いた。
――ォォォォォォォォォォォォォン。
「……」
今までのものとは、また違う。
低く、長い。
でも、苦しそうじゃない。
むしろ、何か重たいものを全部吐き出して。
空へ抜けていくような――軽い声。
その声と同時に、『誓核』から光が一気に溢れ出した。
「……っ!」
あまりの眩しさに目を閉じる。
次に視界が戻ったとき、『誓核』は崩れていた。
でも、粉々に砕けたわけじゃない。
青。
白。
黄金。
無数の小さな光へ変わって。
雨の中を、空へ舞い上がっていく。
「……」
その光の中へ。
青白い文字が、一つだけ静かに現れた。
『解放』
「……解放」
討伐じゃない。
撃破でもない。
勝利でもない。
ただ。
――『解放』
その二文字だけを残して、表示は消えた。
同時に、『誓核』が露出していたゼフィロスの頭部が、ゆっくりと閉じていく。
傷跡すら残っていない。
「……生きてる、のか?」
返事なんてない。
でも、分かる。
『風鰭』は動いている。
こいつは息をしている。
大きな金白色の目もちゃんと開いている。
「……よかった」
それを確認した途端、全身から力が抜けた。
俺はその場へ座り込む。
「マジで……」
今まで平気だった膝が急に震え始めた。
戦っていた疲れが全部、今になって押し寄せてきたみたいだった。
「……死ぬかと思った」
俺がなのか、ゼフィロスがなのか。
たぶん……両方だ。
『リンドウ!』
アウラの声が飛び込んでくる。
『何が起きた!? 天鯨から光が出たぞ!』
「分からん」
『分からないのか!?』
「俺も今見たんだ、知らねぇもんは知らん」
『ゼフィロスは!?』
「生きてるよ」
『そうか!』
「『誓核』が……」
そこで言葉に詰まった。
どう説明すればいい?
「壊れた」
『なら死ぬのではないのか!?』
「俺もそう思ったよ……」
でも、違う。
壊れたというのは、たぶん少し違う。
「……ほどけた」
『ほどけた?』
「あぁ、多分な」
約束がなくなったわけじゃない。
リュネアとゼフィロスが出会ったことも。
雨を届けたことも。
七つの『雨の道標』も。
百年以上守り続けてきたことも。
全部、本当にあった。
それをなかったことにしたわけじゃない。
ただ……。
「もう……お前は縛られてないんだな」
そんな感じがした。
毎年、必ず帰らなきゃいけない。
国がなくても。
誰も待っていなくても。
ずっと。
ずっと。
同じ約束を果たし続けなきゃいけない。
――そんな何かから。
「……自由になった、のか?」
口にして、自分で少し驚いた。
――自由。
アルセディアでも何度も考えた言葉。
誰かに決めてもらうんじゃない。
誰かに生き方を与えられるんじゃない。
自分で、選ぶ。
「……そっか」
ゼフィロスは、今、海へ向かっている。
約束だからじゃない、塔に無理やり引っ張られているからでもない。
『誓核』はもうない。
だったら。
「お前……もう、行かなくてもいいんだな」
ルアネへ。
毎年、帰らなくてもいい。
雨だって、運ばなくてもいい。
誰も責めない。
リュネアだって――きっと。
百年以上。
何もかもがなくなったあとまで、こいつを縛るつもりであの約束をしたわけじゃない。
あのとき。
一人の少女が、雨を分けてもらった。
嬉しくて、また来てほしいと。
そう言っただけだ。
「……なのに百年以上とか」
思わず苦笑した。
「お前、真面目すぎんだろうが……」
馬鹿みたいに律儀で。
誰も覚えていなくても。
約束した相手がもういなくても。
ずっと――守り続けた。
「……もういいぞ」
聞こえているのかなんて分からない。
それでも、俺は言った。
「帰らなくてもいい」
ゼフィロスは進む。
「雨も、運ばなくていい」
第七の『雨の道標』の上を越える。
「好きにしていいんだ」
その先には、広い海がある。
青い空がある。
水平線が、どこまでも続いている。
「……好きなとこ、行っていいんだぞ」
その瞬間、残っていた二枚の『風鰭』が強く光った。
「何だ?」
再生?
いや、それだけじゃない。
俺たちが壊した二枚も、光の粒が集まるように元の場所へ戻っていく。
四枚、すべての『風鰭』が完全な形で揃った。
「……全部、戻った」
次の瞬間。
ゼフィロスの巨大な身体が一気に持ち上がった。
「うわっ!」
思わず頭部へしがみつく。
「急に元気になんなよ!」
――ォォォォォォォォォォォォォン!
今までで一番大きな声。
なのに、怖くなかった。
風が吹き、雲が広がる。
でも、雷はない。
暴風でもない。
ただ――風と水だけが空へ広がっていく。
「……雨?」
ゼフィロスが背負っていた巨大な雲が、ゆっくりとほどけ始める。
今まで。
嵐として。
災害として。
あいつの周囲へ渦巻いていた雨雲が。
穏やかな風に乗って、陸へ流れていく。
「……」
雨が降る。
最初に、第七の『雨の道標』の周りへ。
そして、第六の街道と草原。
第五の近く、あの開拓村。
第四にある川沿い。
第三の山と採石場。
第二の街の外縁。
第一、羊のいる丘。
七つの灯りが作った道の周りへ。
静かな雨が降っていく。
暴風雨じゃない、人を傷つける雨でもない。
ただ、地面へ染み込んでいく優しい雨。
「……」
遠く――地上に、小さな人影が見えた。
避難所から出てきた人たちが空を見上げている。
エアリスでもきっと、窓が開いている。
家の外へ出た人もいるだろう。
兵士。
職人。
老人。
子供。
みんな、雨を浴びている。
もう――、逃げていない。
『リンドウ!』
アウラの声が、僅かに震えていた。
『雨だ!』
「……うん」
『風が弱い!』
「うん」
『これなら……』
その先を、アウラは言わなかった。
俺も、言わなかった。
乾いていた畑へ雨が染み込んでいく。
川へ水が落ちる。
牧草地では、羊たちが空を見上げている。
第五の、地図になかったあの村では。
子供が、石造りの避難所から手を伸ばして雨へ触れていた。
「……雨を」
ふと――リュネアの言葉を思い出した。
『あの子は雨を奪ってるんじゃない』
『雨を、運んでるんだよ』
「……」
その通りだった。
最初から……ずっと。
「……マジで、運んでたんだな」
喉がの奥が、少しだけ熱くなった。
ゲーム時代、何度も戦った。
何度も殺した。
こいつの周りにある雨も、ただのフィールドギミックだと思ってた。
でも、一人の少女だけは。
百年以上前に、ちゃんと見ていた。
こいつが何を運んでいるのかを。
「リュネア……」
お前、正しかったよ。
声には出さなかった。
出したら、駄目な気がした。
ゼフィロスは、そのまま海へ進んでいく。
もう、第七の光を見ていない。
……必要ないんだ。
塔を越えたその先には、誰も決めていない空しかない。
「……」
一瞬、怖くなった。
こいつは、これからどこへ行くんだ?
自由になった。
なら、もうエアリスへは来ないかもしれない。
雨も運ばないかもしれない。
遥か遠くへ行ってしまうかもしれない。
でも。
「……それでいい」
自分に言い聞かせるように声へ出した。
……それでいい。
また来てほしい。
雨を運んでほしい。
そう願うことは、人間の勝手だ。
でも、頼むことならできる。
リュネアがしたみたいに。
でも、縛るのは違う。
「好きに飛べよ……ゼフィロス」
俺はゼフィロスの頭部を、軽く叩いた。
攻撃じゃない。
ただ、硬い皮膚へ手を置くみたいに。
「もう『雨の道標』なんて、いらねぇだろ」
返事の代わりみたいに。
ゼフィロスが大きく高度を上げた。
「ちょっ――」
待て!俺、まだ乗ってるんだけど!?
「待て待て待て!」
風が強くなる。
「俺を降ろせ!」
――ォォォォォォォォォォォォォン!
「絶対聞いてねぇだろ!」
『楽しそうだな!』
通信の向こうでアウラが笑っている。
「どこがだよ!」
『ゆうえんちみたいだぞ!』
「いつのネタ引っ張ってんだ!」
いや、マジでそんなこと言ってる場合じゃない。
気づけば海の上。
しかも高度はどんどん上がっていく。
「くっそ……!」
『ドライ』を三節へ展開し、ゼフィロスの背へ引っ掛ける。
「最後まで世話焼かせやがって!」
悪態をつきながら。
でも、自分が笑っているのが分かった。
細かな雨が顔へ当たる。
海面に光が反射している。
遠く、陸地には七つの灯りが小さく見える。
「……」
綺麗だった……本当に。
ただ、綺麗だった。
ゲーム時代だって、同じ場所を何度も見たはずなのに。
こんな景色は、一度も見たことがなかった。
ボスを倒した。
タイムを見る。
素材を回収する。
次の周回へ行く。
ずっと、そればかりだった。
でも……。
今、初めてちゃんと見ている。
――ゼフィロスが帰っていく空を。
「……リュネア」
もういない一人の少女へ。
俺は呟いた。
「お前の約束」
終わった。
いや……終わらせた。
そう言う方が正しいのかもしれない。
でも。
「こいつ、ちゃんと雨届けたぞ」
百年以上。
待っている人がいなくなっても。
国が消えても。
「ずっと……」
声が、少し、詰まった。
何で……俺が、泣きそうなんだよ。
「ずっと、守ってた……!」
ゼフィロスが鳴く。
その声が、海と空のあいだへ。
どこまでも広がっていく。
歌はない。
今度は、人間側の誰も歌っていない。
だから、これは『返り声』じゃない。
「……そうか」
少しだけ、笑った。
「それも、お前の声なんだな」
誰かへ応えるための声じゃない。
約束した相手へ返すための声でもない。
一匹の天鯨が。
自分で鳴きたいから。
空へ響かせた。
――自分自身の声だった。
♢
しばらくして、ゼフィロスは海上で大きく旋回した。
「……ん?」
北へ戻る?
違うな、南東?
俺は頭の中で地図を広げる。
――その先には。
「……乾燥地帯?」
大陸沿岸の南側。
もともと雨が少なく、今年は特に旱魃が酷いという報告があった場所。
「……お前」
もう『誓核』はない。
リュネアとの約束に縛られてはいない。
ルアネ連邦へ帰る必要もない。
それでも、ゼフィロスの背にはまだ少しだけ雨雲が残っている。
そして、あいつは南東へ向かおうとしている。
「……はは」
本当に、そこへ行くのかもしれない。
ただ、風向きに合わせただけかもしれない。
偶然……かもしれない。
だから、今度こそ。
勝手に意味を決めつけるのはやめる。
「……好きにしろって、言ったもんな」
もし、それを。
お前が自分で選んだなら。
「……行ってこい」
俺はゼフィロスの背に引っ掛けていた『ドライ』を引き抜いた。
そろそろ、俺も降りる。
「俺は帰るから」
その言葉を口にして、一瞬止まった。
「……」
帰る。
昔の俺なら、そんな言葉を自分に使うことなんてなかった気がする。
でも今は、あまりにも普通に口から出た。
アルセディアが浮かぶ。
そして、ザフィラの顔。
『帰ってきてね、ご主人様』
俺は、あのとき、ちゃんと答えた。
帰ってくると。
「……帰らないとな」
ゼフィロスの頭部を軽く撫でる。
やっぱり、硬い。
「じゃあな、クソ鯨」
巨大な金白色の瞳がこっちを見る。
「今度会っても、いきなり殺したりしねぇよ……多分な」
――ォォォォォォォォォォォォォン!
突然、風が吹いた。
「うおっ!」
身体が浮く。
海へ落とされる――と思った瞬間。
俺は『ドライ』を三節へ広げた。
その先が掴んだのは、ゼフィロスが作った柔らかな上昇気流。
「……最後まで!」
風へ身体を預ける。
その流れは、俺を海じゃなく陸側へ運んでいく。
「世話焼かせやがって!」
そう悪態をついてから、最後に振り返った。
ゼフィロスはもう遠い。
青灰色の巨大な身体が、海と空のあいだをゆっくり泳いでいる。
その後ろには、細い雨の帯が。
長く、どこまでも続いていた。
「……」
地上では、七つの『雨の道標』が少しずつ消えていく。
第一。
第二。
第三。
一つ。
また一つ。
役目を終えた灯りが静かに消えていく。
そして、最後。
第七の『雨の道標』だけが、しばらく海を照らしていた。
まるで、もう一度だけあいつの背中を見送るみたいに。
その光も、やがてゆっくりと消えた。
「……」
もう、道標はない。
それでも……ゼフィロスは迷わない。
自分で、行く空を選んだから。
昔の国へ帰るためじゃない。
誰かに進路を変えられたわけでもない。
百年以上前の約束に、縛られているからでもない。
ただ、自分が行きたいと思った空へ――飛んでいく。
「……天鯨の帰る空、か」
呟いた。
帰る場所は、もうない。
それでも、帰る空はある。
いや――きっと、作れる。
昔と同じじゃなくたっていい。
誰かに決められた道じゃなくてもいい。
今、ここにいる奴らを見て。
今、そこにある暮らしを見て。
そのたびに、自分で選び直せばいい。
「……」
なぜか、その言葉は自分で思っていたより深く、胸の奥へ落ちていった。
でも、今はまだ触れない。
これは……ゼフィロスの物語だから。
「じゃあな」
雲の向こうへ小さくなっていく天鯨を見る。
「もう、帰ってこなくてもいいぞ」
少しだけ笑う。
「……まあ、来たかったら来てもいいけどな」
我ながら勝手だ。
……ほんと、人間ってやつは。
でも、今度は縛らない。
もしまた、こいつが来るなら。
「そのときは」
七つの灯りがなくても……。
「好きな道で来い」
やがて、ゼフィロスの姿が雲の向こうへ消えていく。
そして、本当に見えなくなる寸前。
最後に一度だけ。
鳴き声が届いた。
――ォォォォォォォォォォォォォン。
それは。
もう、誰かへ返すための声じゃなかった。
約束を果たすための声でも。
帰る道を確かめるための声でもない。
ただ。
一匹の天鯨が。
自分で選んだ空を飛びながら。
自分の意思で。
空へ響かせた声だった。
そして、その背中から運ばれてきた雨だけが。
百年以上前の誰かのためではなく。
今、この瞬間を生きている人々の土地へ。
静かに。
優しく。
――降り続いていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
百年以上、誰も待っていない国へ雨を運び続けたゼフィロス。
リュネアとの約束は、消えたわけではありません。
ただ――もう、縛られなくていい。
『討伐』でも、『撃破』でもなく。
『解放』。
そしてゼフィロスは、誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ空へ飛んでいきました。
リュネアが百年以上前に見抜いた通り。
天鯨は、雨を奪う災厄ではなく、雨を運ぶ存在だった。
最後の鳴き声は、もう誰かへ返す『返り声』ではありません。
一匹の天鯨が、自分の意思で空へ響かせた声でした。
帰る場所は、もうない。
それでも、帰る空はある。
第四章『天鯨の帰る空』、決着です。




