68:覇王、暴風を駆ける。
――ォォォォォォォォォォォォン。
ゼフィロスの鳴き声が、空そのものを震わせた。
腹の底まで響いてくる低音に合わせるように、周囲の木々が一斉に枝葉を伏せ、足元に転がっていた砂利が細かく跳ねる。
そして、その瞬間。
「アウラ!」
「なんだ!?」
「走れ!」
「え?」
「今だ! 行け!」
返事を待つことなく、俺は地面を蹴った。
一瞬遅れてアウラも駆け出したものの、突然軽くなった足取りに驚いたらしく、すぐに声を上げる。
「な、何だ!? 急に風が――」
「さっき教えただろ!」
「あっ!」
ゼフィロスが大きく鳴いた直後、その巨体を取り巻いていた暴風は、ほんの僅かな時間だけ弱まる。
完全に風が消えているわけじゃない。幾重にも重なった気流が一度ほどけ、次の流れへ組み替えられるまでの、ごく短い空白だ。
ゲーム時代、俺はこの瞬間を何百回、何千回と見てきた。
最初は感覚で飛び込み、吹き飛ばされ、何度も死んだ。
そのうち誰かが周期を計り始め、別の誰かが咆哮から風が戻るまでの時間を測り、最後にはコンマ何秒単位で最適な踏み込みまで共有されるようになった。
俺自身、その数字をさらに削る側にいた。
だから、間違えるわけがない。
「止まるな! 七秒もねぇぞ!」
「分かった!」
アウラの重装が、地面を激しく鳴らしながら前へ出る。
つい数秒前まで立っているだけでも苦労していたのが嘘のように、今だけはまともに前進できる。
頭上では、巨大なゼフィロスが雲を引き連れながら、悠然と空を泳いでいた。
距離が縮まったことで、ようやく自分の中で大きさの感覚が麻痺していたことに気づく。
胸鰭一枚だけでも小型船どころか建物数棟を簡単に覆い隠せそうで、尾鰭がゆっくり振られるたび、その遥か後方にある雲まで大きく形を歪めていた。
まあ、だから何だ。という話でもある。
攻撃範囲が馬鹿みたいに広くて、弱点までの距離が遠い。
攻略する側からすれば、結局はそれだけだ。
「あと二秒!」
「もう分かるのか!?」
「一――!」
空気が軋むような音を立てた。
「伏せろ!」
俺はその場で地面へ身体を投げ出す。
「おう!」
よし。
今度は俺を殴らなかった。
次の瞬間、頭上を暴風が通り抜ける。
ゴォォォォォォォォォ――!
「っ……!」
もはや音というより、巨大な壁を横から叩きつけられたような衝撃だった。
地面に伏せていても身体が持ち上がりそうになり、土と砂利が顔の横を高速で飛んでいく。
隣ではアウラが咄嗟に片膝をつき、右手を地面へ押しつけた。
「『接地』!」
脚甲へ刻み込んだ魔力回路が青白く発光する。
足元から大地へ魔力が流れ込み、アウラの身体が地面へ縫いつけられる――はずだった。
「お、おおおおおお!?」
ズザザザザッ!
一メートル、二メートル。
アダマンタイトの重装を纏ったアウラが、片膝をついたまま地面の上を引きずられていく。
「リンドウ!」
「聞こえてる!」
「これでも動くぞ!?」
「だから言っただろ! 五災舐めんな!」
「そういう問題なのか!?」
「そういう問題だ!」
叫び返しながら、俺は左手に握った『ドライ』を一振りした。
三本の棍を繋いでいた鎖が内部へ巻き取られ、瞬く間に一本の長棍へ変わる。
その先端を足元へ叩きつけると、硬い音とともに半ばまで岩盤へ食い込んだ。
それを支柱代わりにして身体を低く保ち、暴風をやり過ごす。
直後だった。
バキバキバキッ!
「……うお」
数十メートル先で、太い木が一本、根をむき出しにしたまま宙へ持ち上がった。
それだけじゃない。
隣の木も、そのさらに奥も、地面ごと抉られるように次々と空へ吸い上げられていく。
「リンドウ!」
「見えてる!」
「木が飛んでいるぞ!」
「見りゃ分かるわ!」
「凄いな!」
「感動してる場合か!」
空へ巻き上げられたのは木だけじゃない。
岩や枝、土塊までが暴風に飲まれ、巨大な濁流みたいになって周囲を飛び交っている。
普通の冒険者なら、ゼフィロス本人へ攻撃される前にここで終わる。
近づくことすらできない。
この暴風域そのものが、ゼフィロスを守る巨大な防壁になっているのだ。
初見でここを抜けろと言われたら、今の俺だって嫌になる。
けど……。
「右!」
「おう!」
俺とアウラが同時に横へ跳んだ。
直後、さっきまで二人がいた場所を巨大な岩が通過し、背後へ叩きつけられる。
ズドォォォン!
衝撃で地面が揺れた。
「次、左! 三歩!」
「一、二、三!」
「止まれ!」
アウラがぴたりと足を止める。
その鼻先を、根を剥き出しにした大木が高速で横切っていった。
「……」
「何だよ」
「お前、全部見えているのか?」
「見えてねぇよ」
「では、なぜ分かる?」
「知ってるからだよ」
ゼフィロスの暴風域へ突入してから、本体へ辿り着くまで。
俺たちはゲーム時代、ここだけで馬鹿みたいな数の失敗を積み重ねてきた。
パーティ全員まとめて岩に潰されたこともあれば、安全地帯だと思っていた場所へ落雷が直撃したこともある。
そこから風向きを測り、周期を数え、どのタイミングでどこへ踏み込めば最短で抜けられるのかを探した。
世界中のプレイヤーが情報を持ち寄って完成させた攻略法を、俺たちはさらに削った。
一秒。
一歩。
僅かな無駄でも見つければ修正し、何度も何度も繰り返して、ようやく今のルートへ辿り着いた。
「次は左から強風。そのあとゼフィロス側への吸い込みが来る。抜けた直後、三秒だけ南側が開く」
「……分かった!」
「本当に?」
「ついていく!」
「まあ、それでいい!」
俺は地面に突き立てていた『ドライ』を引き抜いた。
「五」
走る。
「四」
左から横殴りの風が押し寄せる。
「三」
今度は空気そのものがゼフィロスへ吸い寄せられ、身体が前へ持っていかれそうになる。
「二」
足元へ力を込める。
「一――」
風向きが切り替わった。
「今!」
地面を蹴る。
アウラも迷わず続いた。
さっきまでまともに前へ進めなかった暴風域の中を、二人で一直線に駆け抜けていく。
「ははっ!」
思わず笑いが漏れた。
変わってねぇ。
百二十年が経った。
ゲームじゃなくなって、飛んでくる岩は本当に痛いし、雷に撃たれれば普通に死ぬ。
それでも、ゼフィロス。
お前の動きは、何も変わっちゃいねぇ。
「リンドウ!」
「次来るぞ!」
周囲の空気が僅かに変質する。
湿った臭いが鼻をつき、肌が細かく痺れ始めた。腕の毛が逆立ち、髪までふわりと浮き上がる。
「右へ飛べ!」
「何が――」
バヂィィィィン!
青白い雷光が地面を横へ走った。
「うおっ!?」
アウラが飛び退いた直後、さっきまで立っていた場所が爆ぜ、焼けた土から焦げ臭い煙が上がる。
「雷が横に走ったぞ!?」
「そういう奴だからな!」
「雷とは上から落ちてくるものではないのか!?」
「ゼフィロスに常識求めんな!」
空を見上げる。
ゼフィロスの胸部後方に浮かぶ四枚の『風鰭』が、淡い青白色の光を帯びていた。
そこを走った電流が周囲の雲へ伝わり、雲から地上へ、さらに地面を這うように雷が走る。
一発。
二発。
三発。
「左!」
避ける。
「止まれ!」
目の前へ雷が落ちる。
「前!」
一歩踏み込んだ直後、背後を青白い光が薙いだ。
「次、右斜め!」
「おう!」
アウラは一度も迷わず、俺の指示通りに動く。
こういう状況になると、本当に使いやすい。
「リンドウ!」
「何だ!」
「楽しくなってきたぞ!」
「やっぱりお前連れてきたの間違いだったかもしれん!」
「なぜだ!?」
返事の代わりみたいに轟音が鳴り、新たな突風が吹きつけた。
そこへ今度は雨まで混じり始める。
「っ……痛ぇ!」
顔へ叩きつけられた雨粒に思わず声が漏れた。
痛い。もちろん比喩じゃない。
暴風に乗った雨が、細かな礫みたいな勢いで肌へぶつかってくる。
隣でアウラが兜の面頬を下ろした。
「リンドウ! 顔は大丈夫なのか!?」
「痛いに決まってんだろ!」
「兜を作ればよかったな!」
「今言うか!」
雨によって視界も一気に悪くなり、数十メートル先すら白く霞んでいく。
それでも、問題はない。
ゼフィロスの位置。
風の向き。
次に来る攻撃。
すべてを目で見てから判断する必要なんてない。
低い唸り声が響き、空気が一瞬だけ震える。
「アウラ、止まれ!」
「あぁ!」
「大剣を地面へ刺せ!」
「これか!」
アウラが背負っていたオリハルコンの大剣を引き抜き、そのまま地面へ深く突き立てる。
直後。
遥か頭上で、ゼフィロスの巨大な尾鰭が振られた。
まるで空そのものが押し潰されたみたいに、これまでとは比べ物にならない風圧が襲ってくる。
「ぐっ……!」
「おおおおおおおおっ!」
俺は長棍形態の『ドライ』を地面へ突き立て、両腕で必死に保持した。
アウラも『接地』を最大出力まで引き上げ、脚甲から伸びた魔力を網のように地面へ広げている。
それでも、大剣ごと身体が数十センチずつ後方へ引きずられていく。
地面に亀裂が走り、小石が浮かび、拳大の岩まで転がり始める。
「来るぞ!」
「何がだ!?」
「でかいのだよ!」
雨の向こう。
人間の背丈なんて軽く超える巨岩が、暴風に巻き上げられていた。
それが真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「避けるか!?」
「いや!」
後ろは崖だ。
「俺がやる!」
地面に突き立てていた『ドライ』を引き抜き、手首を返す。
カチン、と内部機構が外れる音がした。
一本だった長棍が三本へ分かれ、それぞれが鎖で繋がった三節棍へ戻る。
右手を振ると第一節が回り、その勢いに引かれて第二節、最後に三節目が風の中へ飛び出した。
普通の三節棍なら、こんな暴風の中でまともに扱えるわけがない。
軌道は風に乱され、自分の武器に殴られるのがオチだ。
でも、これは『ドライ』だ。
「重心――前!」
内部に仕込んだ機構が作動し、組み込まれた隕鉄が先端側へ移動する。
重量そのものが増えたわけじゃない。
けれど、重心が一気に前へ寄ったことで、先端の回転速度と破壊力が跳ね上がる。
鎖がさらに伸びた。
暴風に持っていかれる力すら利用する。
「――ふっ!」
振り抜く。
ドッ――!
三節目が巨岩の中心へ深く食い込んだ。
一瞬遅れて、岩の表面へ蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。
次の瞬間。
バガァァァン!
「おおっ!」
巨岩が空中で粉々に砕け散った。
当然、それだけでは終わらない。
破片もまだ高速で飛んでくる。
俺は手首を返し、重心を中央へ戻した。
飛び出した第一節を引き戻す反動で第二節を回し、そのまま横薙ぎに振るう。
飛んできた岩片をまとめて叩き落とし、返す手で逆側から迫ってきた木片を弾く。
鎖が鳴った。
三本の棍が互いの動きを繋ぐように俺の周囲を駆け、暴風に乗って飛んでくる枝や石を次々と弾き飛ばしていく。
「……すごいな、それ!」
「だろ?」
思わず口元が上がった。
やっぱりいい。
工房で振ったときとは、まるで違う。
実戦。しかも、五災の暴風域なんていう無茶苦茶な環境で使ってみて、初めて『ドライ』の強みがはっきり見えてくる。
長棍形態なら身体の固定や直線的な突進に使える。
三節へ変えれば、暴風の中でも広い範囲へ攻撃を届かせられる。
さらに重心移動を組み合わせれば、先端を遠くへ飛ばしたあとでも引き戻しやすく、状況に応じて軌道そのものを変えられる。
「最高だな、お前」
「私か!?」
「ドライだよ!」
「紛らわしい!」
作った甲斐はあった。
ただ――これでようやく、入口を抜けただけだ。
「アウラ!」
「なんだ!」
「そろそろ上がるぞ!」
「上か?」
俺は前方を指差した。
山岳地帯の切れ目。
その向こうでは、谷間を抜けた風が一気に上空へ吹き上がり、巨大な上昇気流を作っている。
「待て!」
珍しく、アウラが先に俺を止めた。
「さっき言ったではないか!」
「何を?」
「上向きの風に乗るなと!」
「勝手に乗るなって言ったんだよ」
「何が違う!?」
「タイミング」
「それだけか!?」
「それが全部だ!」
頭上のゼフィロスを見る。
四枚の『風鰭』は、まだ一枚も壊れていない。
だからこそ周囲の気流は、多少荒れていても一定の周期を保っている。
吸い込み。
横流。
下降。
そして上昇。
順番さえ分かっていれば、使える。
「次の上昇流で、一気に第一『風鰭』と同じ高さまで上がる」
「飛ぶのか!?」
「ああ」
「この鎧で!?」
「だから重くした」
「逆ではないのか!?」
「軽かったら、そのまま上まで持っていかれるぞ!」
「ああ、なるほど!」
納得した。
本当か?
「俺より前に出るな」
「分かった!」
「上がった直後、左から横風が来る。身体を斜めにして受け流せ」
「分かった!」
「そのあと下降気流だ。絶対に抵抗するな」
「落ちるぞ!?」
「落ちろ」
「えっ?」
「落下先が第一『風鰭』だ」
「……」
アウラは一度ゼフィロスを見上げ、それから俺を見る。
もう一度、空を見る。
「リンドウ」
「何?」
「本当にそれでいいのか?」
「ああ」
迷わず答える。
するとアウラも、一度だけ大きく頷いた。
「……なら、信じる!」
「よし」
それでいい。
周囲の風が変わった。
――来る。
俺には分かる。
「あと十秒」
『ドライ』を一振りする。
三本の節が一直線に並び、内部機構が噛み合って再び長棍へ戻った。
「八」
ゼフィロスが遠くで身体を傾ける。
「六」
四枚の『風鰭』の角度が僅かに変わった。
「四」
谷底の草木が、同じ方向へ大きく倒れ込む。
「三」
俺とアウラは同時に走り出した。
「二」
崖際へ踏み込む。
「一――」
谷底から轟音が突き上がった。
「今!」
跳ぶ。
「うおおおおおおおお!?」
次の瞬間、身体が凄まじい勢いで空へ持ち上げられた。
地面が一気に遠ざかる。
十メートル。
二十。
五十。
眼下の木々がみるみる小さくなっていく。
「リンドウ! 速いぞ!」
「分かってる!」
「高いぞ!」
「見りゃ分かる!」
「楽しいぞ!」
「お前結構余裕じゃねぇか!」
すぐに横風が来る。
「左肩入れろ!」
「こうか!」
「そう!」
身体を斜めにする。
アウラの重装がまともに風を受けることなく、斜めへ流しながらさらに上昇していく。
そして、空気が一気に冷えた。
「次、落ちるぞ!」
「分かった!」
さっきまで身体を押し上げていた力が、突然消える。
胃が浮いた。
今度は真下へ。
下降気流。
普通ならここで焦る。
飛行魔法でも風魔法でも使って、何とか高度を保とうとする。
そして次の横風に捕まって、遥か彼方へ吹き飛ばされる。
だから、何もしない。
そのまま落ちる。
「リンドウ!」
「そのまま!」
雲を突き抜けた。
視界が開ける。
目の前には、青灰色の巨大な身体。
さっきまで山のように見上げていたゼフィロスの巨体が、今は視界の大半を埋め尽くしている。
硬質な皮膚。
その表面を走る青白い紋様。
絶えず這い回る雷光。
そして、その少し横。
半透明の淡い青色を帯びた、巨大な器官。
『風鰭』、一枚目。
「見えた!」
「狙うのは根元だ!」
落下しながら、『ドライ』の固定を解除する。
三本の棍が分かれ、鎖が風の中で高い音を立てた。
俺は第一節を振り抜く。
先端がゼフィロスの背へ向かって伸び――。
ガンッ!
皮膚の隙間へ食い込んだ。
「っ!」
鎖が一気に張る。
その瞬間、真下へ落ちていた身体の軌道が横へ大きく変わった。
遠心力に引かれながら、ゼフィロスの巨体へ近づいていく。
足を伸ばす。
靴底が、青灰色の背へ触れた。
「アウラ!」
「おおおおおっ!」
続いて、アダマンタイトの重装を纏ったアウラが落ちてくる。
轟音。
ゼフィロスの巨大な背が、ほんの僅かに揺れた。
「着いたぞ!」
「ああ」
俺はゆっくり立ち上がる。
目の前には、薄青い光を放ちながら脈動する巨大な第一『風鰭』。
この怪物の周囲に暴風を生み出している、四枚のうちの一枚。
場所も。
形も。
攻略順も。
ゲーム時代と同じだった。
ここへ辿り着くまで、一度も外していない。
百二十年経っても。
ゲームが現実になっても。
俺が知っている攻略法は、ちゃんと通用する。
俺は『ドライ』を肩へ担ぎ、青白い風を纏う巨大な『風鰭』を見上げた。
「まず――一枚目だ」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
百二十年ぶりのゼフィロス攻略、開幕です。
ゲーム時代に積み重ねた知識は、世界が現実になっても消えません。
そして今回、ようやく『ドライ』も本格的な実戦投入となりました。
果たして、世界一位だった覇王は五災をどこまで攻略できるのか。
次回、ゼフィロス戦はさらに本格化します。
面白いと思っていただけましたら、☆や感想、レビュー等で応援していただけると励みになります。




