62:【幕間】ミラは今日も休めない。
朝、目を覚ました瞬間に最初に考えたことは、今日こそ早く仕事を終えよう、だった。
決して大それた願いではない。
夕刻までに執務を終え、自室へ戻る。温かい食事を取り、湯浴みをして、日付が変わる前には寝台へ入る。
国を預かる立場の人間として、むしろ健康的で模範的な生活と呼んでいいはずだ。
そのために昨日は、今日処理する予定だった書類の三割を前倒しで片付けておいた。
さらにリンドウ様には、一日の休養を命じてある。
ザフィラ様にも、その監視をお願いした。
三日間も寝食を忘れて工房へ籠もり、世界最高峰の武器を一本作り上げた挙げ句、ついでのように大鎌へ時間停止能力まで付与する人間さえ大人しくしていれば、少なくとも昨日よりは平穏な一日になる。
私は本気で、そう思っていた。
「ミラ様」
「はい」
執務室へ足を踏み入れて、まだ椅子へ座る前だった。
「朝一番で申し訳ございません。東部穀倉地帯から昨日到着する予定だった荷馬車十二台のうち、三台がまだ到着しておりません」
なるほど。
今日も無事に始まったらしい。
「原因は確認しましたか?」
「先日の雨で、街道の一部がぬかるんだ可能性があると報告されています」
「可能性ではなく、まず状況を確認してください。護衛隊へ連絡を。輸送隊が街道上で止まっているだけなら人員を送り、車輪や荷台に問題があるようなら現地で積み替えます」
「承知しました」
「それから、到着が半日以上遅れる場合は本日の市場放出量を調整してください。『食材の祠』から持ち帰った備蓄を一部回せば、価格を大きく動かさずに済みます」
「すぐに手配します」
担当者が頭を下げて退出する。
私はようやく椅子へ腰を下ろし、机の端に置かれていた茶へ手を伸ばした。
まだ一口も飲んでいない。
今なら温かい。
そう思った瞬間、扉が開いた。
「ミラ様、住民登録についてご相談が」
「……どうぞ」
私は静かに茶を戻した。
ええ。
分かっています。
仕事ですから。
♢
奴隷紋の全解除から、すでに幾日かが経っている。
だからといって、国が一晩ですべて正常に戻るわけではない。
むしろ自由になったからこそ、新しく必要になる仕事が山ほどあった。
名前を取り戻した者。
そもそも名前を持たないまま生きてきた者。
以前の主人と改めて雇用契約を結ぶ者もいれば、別の職を探す者もいる。
住居を変えたい者。家族を探したい者。他国からアルセディアへ流れ着き、この国で暮らしていきたいと望む者。
それらをすべて、「自由になりました。以上」で終わらせてしまえば、今度は制度の外側へ人を放り出すことになる。
「こちらの十二名ですが、旧奴隷商会の名簿には記録番号しか残されていません」
住民管理を担当する女性から書類を受け取る。
「本人たちは?」
「八名はすでに自分で名前を決めています。三名は幼少時の名前を覚えているそうです。ただ、残る一名だけは、まだ決められないと」
「急がせる必要はありません」
「登録上は、空欄でもよろしいでしょうか?」
「行政上の仮登録番号をこちらで付与してください。ただし、それを本人を呼ぶための番号として使ってはいけません」
担当者が僅かに目を見開く。
「行政上の管理番号と、人の名前は別です」
「……承知しました」
以前なら、数字だけで呼ばれていた者がいた。
レオも、その一人だった。
今では自分の名前を名乗り、それを呼ばれることに喜びを感じていると聞く。
人は、突然自由を与えられたからといって、その瞬間から迷いなく選べるようになるわけではない。
選択すること自体を、これから覚えていかなければならない者もいる。
「それから、住居の不足についてですが」
「西区画の空き家調査は?」
「七割ほど終了しています」
「倒壊の危険がない建物から優先して回してください。修繕が必要なものは復興担当へ一覧を共有し、職人の割り振りをお願いします」
「はい」
一件を処理すれば、次が来る。
それを終えれば、さらに次が来る。
一つずつ片付ければ、いつかは終わる。
少なくとも私は、その理屈を信じている。
「ミラ様」
「はい」
「冒険者ギルドの仮庁舎についてですが」
どうやら、その“いつか”は今日ではないらしい。
♢
昼前には、冒険者ギルドの再建担当者と商人組合の代表が、ほぼ同時に執務室へやってきた。
できれば別々に来ていただきたかった。
「ギルドとしては、旧庁舎を修復して再利用したいと考えております」
「ですから、あの建物へ再び人を集められては困ると申し上げています」
商人組合の代表が、間髪入れず口を挟む。
「なぜ商人組合がギルド庁舎へ口を出すのです?」
「隣接する倉庫群を我々が使用する予定だからです。冒険者が四六時中出入りするようになれば、荷馬車の搬入に支障が出ます」
「旧冒険者ギルド庁舎ですよ?」
「現在は閉鎖されています」
「なら再開すればいいでしょう」
「その再開が迷惑だと――」
「お二人とも」
声を張り上げたつもりはない。
それでも二人は、同時に口を閉じた。
「まず、旧冒険者ギルド庁舎は耐久調査が終了していません。そもそも再利用できるかどうかすら、まだ決定していない建物です」
「しかし――」
「そして隣接倉庫についても、商人組合への恒久貸与は決定しておりません。現在はあくまで仮利用です」
今度は商人組合の代表が黙った。
「つまり、現時点ではどちらの所有物でもありません。取り合う段階にすら達していませんので、まず調査結果を待ってください」
「では、その間のギルド業務はどうするのです?」
「南広場近くの旧徴税所を仮庁舎として使用してください」
「狭すぎます」
「受付業務と依頼掲示だけなら十分です。解体所は職人区画の外縁、素材保管庫については第三倉庫を共同利用してください」
「共同?」
「商人組合とです」
二人が、ほぼ同時に嫌そうな顔をした。
非常に息が合っている。
「仲良くしてくださいとは申しません。必要な仕事だけしてください」
国を立て直している最中に、組織同士の好き嫌いまで面倒を見る余裕はない。
「使用時間と搬入経路はこちらで分けます。問題が発生した場合は、両組織から責任者を一名ずつ呼びます。そのつもりで運用してください」
「……承知しました」
「分かりました」
ようやく二人が帰っていく。
私は机の上へ視線を落とした。
そこには、朝から一度もまともに口をつけられていない茶がある。
当然ながら、完全に冷めていた。
「……温め直しましょうか」
横にいた補佐役が、気遣わしそうに尋ねてくれる。
「お願いします」
五分後。
温め直された茶が戻ってきた。
湯気が立っている。
今度こそ飲もう。
「ミラ様」
「はい」
「領政官候補の三名が到着しました」
「……」
私は茶を見た。
温かな茶も、私を見ているような気がした。
もちろん、茶がこちらを見るはずなどない。
疲れているのだろう。
「応接室へお願いします」
今日は茶を飲めない運命らしい。
♢
午後は、領政官候補への制度説明から始まった。
任期、権限、会計監査、住民からの申し立て制度。不正が発覚した場合の即時解任。
旧貴族制へ戻さないために、どこまで権限を分散させるべきか。
その説明を終えた直後には、復興担当者から橋の補修予算が足りないという報告が入った。
「理由は?」
「木材価格が想定以上に上昇しています」
「北部からの搬入量が落ちている影響ですね」
「はい」
「では一部を石材へ変更してください」
「初期費用が増えますが」
「耐用年数まで含めれば、そちらの方が安くなります。それと、崩落した旧貴族屋敷三棟の石材を再利用できるはずです」
「確認します」
「所有権はすでに国庫へ移っています。使えるものは使ってください」
「承知しました」
その担当者と入れ替わるように、財務担当が入ってきた。
顔を見る前から、嫌な予感がした。
「何でしょう」
「職人街から請求が上がっています」
「どちらの工房ですか?」
「ジン工房を中心とした、共同利用分になります」
「……見せてください」
嫌な予感が、確信へ変わった。
受け取った書類へ目を落とす。
炉一基。
高出力魔導線、複数。
耐熱板。
工具。
魔力計測器。
作業台の補修。
消火用魔法薬。
壁面の焦げ補修。
床石の交換。
そして――。
「窓、一枚?」
「はい」
「なぜ窓まで壊れているのですか?」
「『ドライ』の試験時に飛んだ石片が直撃したそうです」
私はゆっくり目を閉じた。
昨日、三日間工房へ籠もっていた皆様を正座させた。
あの時点では、まだ被害額を確認していなかった。
先に見ていたら、説教はもう少し長くなっていたかもしれない。
「これは、誰が支払う予定ですか?」
「工房側からは、国の技術開発に伴う費用として国費申請が出ています」
「却下します」
「即答ですね」
「通常使用による設備の損耗までは認めます。しかし、窓と焦げた壁は技術開発費ではありません」
「では?」
「リンドウ様へ回してください」
「覇王様へ、ですか?」
「ご本人が破損させた部分は、ご本人に請求するのが当然でしょう」
財務担当が、ほんの僅かに口元を緩めた。
「何か?」
「いえ。覇王様にも請求書が届くのだなと」
「当然です」
国王なら何を壊しても無料。
そのような国にするつもりはない。
「それと、ヒヒイロカネを含む希少素材についてですが」
「……そちらもありましたね」
問題はこちらの方が大きい。
リンドウ様が『最果ての夢跡』から持ち帰ったものは、『ドライ』へ使用した三種類だけではない。
オリハルコン。
アダマンタイト。
ミスリル。
魔銀。
聖銀。
その他、私ですら聞いたことのない希少鉱石が相当量ある。
ご本人に言わせれば、
『星骸鉄狙ってたら勝手に溜まった』
とのことだった。
勝手に伝説級の素材が倉庫いっぱいに溜まるのであれば、世の鍛冶師は誰も苦労しない。
「すべて国庫へ入れるのでしょうか?」
「まず所有権の確認が必要です」
「覇王様個人の取得物では?」
「個人的な探索で入手したものですから、原則としてはそうなります。ただ、ご本人が国の職人へ提供する意思をお持ちなら、寄付扱いにすることもできます」
「確認しておきましょうか?」
「私から聞きます」
嫌な予感しかしない。
あの方なら、おそらく。
『好きに使っていいよ』
その一言で終わらせる。
そして、その「好きに使っていい」を正式な制度へ変換するのが、こちらの仕事だ。
無償提供なのか。
貸与なのか。
研究利用なのか。
加工した製品の所有権は誰へ帰属するのか。
希少素材を誰でも自由に持ち出せるようにするわけにもいかない。
「……あの方が素材を一つ拾ってくるたび、書類が十枚くらい増えますね」
「何か?」
「独り言です」
次は、できれば普通の鉄くらいにしていただきたい。
まず無理でしょうけれど。
♢
夕方。
ようやく机の天板が見えるようになってきた。
朝は書類の山に埋もれていたのだから、これは大きな進歩と言っていい。
残りは三分の一ほど。
「……いけます」
誰もいない執務室で、小さく呟いた。
このまま新規案件さえ増えなければ、あと二時間。
日暮れは少し過ぎるとしても、定時と言い張れなくもない程度には帰れる。
書類を一枚取る。
内容を確認して署名。
次は税収予測。
その次は農地再配分。
さらに孤児保護施設の人員配置。
順調だった。
驚くほど順調だった。
今日こそ、本当にいける。
「ミラ様」
扉が開いた。
「……はい」
「北門前へ商隊が二つ同時に到着しまして、どちらが先に検査を受けるかでもめています」
「別々の検査列へ振ってください」
「担当者が足りません」
「衛兵の中から読み書きのできる者を二名、一時的に回してください。禁制品の確認だけ税関担当者が行えば問題ありません」
「承知しました」
五分程度。
まだ大丈夫。
「ミラ様」
「はい」
「旧王族所有地から、地下室が発見されました」
「現場を封鎖してください。誰も中へ入れないように。テオ様が戻り次第、確認をお願いします」
「分かりました」
十分程度。
これも問題ない。
「ミラ様」
「……今度は何でしょう」
「復興区画で住民同士の境界線争いが起きています」
「旧台帳と現地測量を照合してください。台帳自体に改竄の疑いがある場合は暫定線を引き、双方へ一時的な利用許可を」
「はい」
十五分。
まだ取り返せる。
きっと。
そうして、日が完全に沈んだ頃、私は最後の一枚へ署名した。
「……終わりました」
本当に終わった。
机の上には、新規案件がない。
未処理書類も、ゼロ。
自分でも信じられない。
椅子の背へ身体を預ける。
肩は重い。
目も疲れている。
それでも、今日は帰れる。
「素晴らしい」
小さく自分を褒めた。
誰も褒めてくれませんので、このくらいは許されるでしょう。
♢
執務室を出る頃には、王城の廊下もかなり静かになっていた。
見かけるのは夜勤の兵士と、片付けをしている使用人くらいだ。
自室へ向かいながら、今日処理した案件を頭の中で確認する。
食料輸送の遅れは解消。
住民登録は仮制度で対応。
冒険者ギルドと商人組合には暫定利用区画を提示。
領政官候補への説明も終了。
復興予算の調整も済んだ。
職人工房からの請求も仕分けた。
希少素材の管理についてだけは、明日リンドウ様へ確認する必要がある。
悪くない。
いえ、かなり良い。
「今日は本当に早く――」
『もう少し』
足が止まった。
廊下の右側。
リンドウ様の私室から、ザフィラ様の声が聞こえた。
もちろん扉は閉まっている。
『さっきからずっと撫でてるだろ』
続いてリンドウ様の声。
私は何も聞かなかったことにして、その場を通り過ぎようとした。
『一か月と三日分には、まだ足りないもの』
「……」
足が止まった。
『いつ終わんだよ』
『明日の朝くらい?』
『長ぇよ』
私は閉じた扉を見た。
もちろん、他人の私生活へ口を出すつもりはない。
ありません。
本当に。
ただ。
「……」
リンドウ様は十七歳。
確か、十七歳だったはずだ。
それに対して、ザフィラ様は二十三歳……。
念のため頭の中でもう一度確認した。
『そこ、もう少し優しく』
『注文多いな』
『ご主人様が雑なのよ』
『痛かった?』
『少し』
『じゃあ動くなよ』
「…………」
私は静かに視線を正面へ戻した。
聞かなかったことにしましょう。
それが大人というものです。
きっと今の会話にも、私が知らないだけで極めて健全な事情がある。
そう。
例えば、耳の手入れ。
あるいは尻尾の手入れ。
昨日クロノアを強化していましたから、武器の調整という可能性も――。
『そこじゃない』
『じゃあどこだよ』
『もう少し下』
「……」
私は歩き出した。
「そういうことにしておきましょう」
何がそういうことなのかは考えない。
考えてはいけない。
なぜか今日一日の疲労が、少しだけ増した気がした。
♢
自室へ戻る途中。
私は一度だけ執務室へ引き返した。
明日の予定表を確認するため。
それだけです。
本当に、それだけのつもりだった。
机の引き出しを開く。
その中には、国の重要人物について私が個人的にまとめている簡易評価表がある。
公式文書ではない。
仕事を割り振る際の参考資料だ。
私はリンドウ様の欄を開いた。
『覇王リンドウ』
戦闘能力:最高
生産能力:最高
知識:極めて高い
危機対応能力:極めて高い
統治能力:要監督
計画性:目的達成能力は高いが、途中の行動に問題あり
自己管理能力:非常に低い
休養命令遵守率:要改善
「……」
しばらく眺めたあと、私は筆を取った。
一項目、追加する。
『節度:大幅な再評価が必要』
「……十七歳ですよね、あの方」
書いてから、少し考えた。
待ってください。
私はザフィラ様とリンドウ様が実際に何をしていたのか確認したわけではない。
聞こえてきたのは会話のごく一部だけ。
状況証拠だけで人を評価するのは、公平ではない。
「……」
もう一度、筆を取る。
そして『節度:大幅な再評価が必要』の横へ、小さく追記した。
『※要事実確認』
「これで公平です」
我ながら完璧。
評価表を引き出しへ戻す。
今度こそ帰ろう。
♢
ようやく自室へ戻り、扉を閉める。
時計を確認すると、まだ日付は変わっていなかった。
「……勝ちました」
何に対して勝ったのかは分からない。
それでも昨日よりは、ずっと早い。
上着を脱ぎ、椅子へ掛ける。
机の上には、読みかけの本が置いてある。
忙しくなって以来、ほとんど続きを読めていない。
「少しくらいは読めますね」
まず湯浴み。
そのあと温かい茶を淹れ、本を読む。
眠くなったら寝る。
完璧な予定だった。
「明日こそ、定時で帰ります」
今日は定時ではなかった。
だから明日こそ。
そう決意した、その瞬間だった。
コンコン。
「……」
扉が叩かれた。
聞こえなかったことにしたい。
コンコン。
もう一度。
「ミラ様」
外から声がする。
「……何でしょう」
「緊急です」
「…………」
私は数秒、無言で扉を見つめた。
怒っても仕方がない。
報告へ来た者は何も悪くない。
緊急事態だって、私の退勤時間に配慮して発生してくれるわけではない。
分かっています。
分かっていますとも。
静かに息を吐く。
そして、たった今脱いだばかりの上着を、もう一度羽織った。
「今、行きます」
結局――。
その日も、読みかけの本が一ページでも進むことはなかった。
今回は幕間、ミラ視点のお話でした。
国を取り戻し、奴隷紋を解いても、それだけで国が元通りになるわけではありません。
住民登録、住居、物流、予算、ギルドの再建、希少素材の管理……。
リンドウたちが前線で派手に動いている裏側で、アルセディアの日常を支えているのは、こうした地道な仕事だったりします。
そして今日こそ早く帰るはずだったミラ。
冷め続けるお茶、増え続ける仕事、何やら怪しい覇王の私室、そして最後には緊急案件。
果たして彼女が定時で帰れる日は来るのでしょうか。
……たぶん、しばらく来ません。
次回から、第三章もいよいよ終盤へ向かいます。
引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。




