58:覇王、帰還する。
『最果ての夢跡』を出たのは、翌日の昼前だった。
『時蝕回廊』から入口までは、それなりに距離がある。
途中で一度だけ野営し、見覚えのある灼熱地帯と地下森林の境目を抜け、巨大な谷をひたすら戻っていく。
来たときには気にも留めなかった景色が、帰り道になると妙に目についた。
空へ向かって流れていく滝。
青白い光を放つ地下森林。
遠くの空中を漂う巨大な岩盤。
そして、その向こうには、もう主のいなくなった『武極の闘場』も見える。
俺はそこで、少しだけ足を止めた。
あそこへ戻っても、もう禍津武はいない。
倒しても、倒しても。
何度でも再構成され、俺の前に立ち続けていた男は、最後に自分の名前を教え、その魂だけを俺へ残して消えた。
「……またな、とは言えねぇんだよな」
インベントリの中には、『武神の魂』がある。
見た目だけなら、小さな黄金色の結晶にすぎない。
けれど、今の俺にはもう、ただの製作素材には見えなかった。
使わないという選択肢はない。
あいつ自身が、俺へ託したものだ。
だからこそ、中途半端なものにはしない。
「完成したら、見せに来るか」
誰もいない闘場へ向かってそう言い残し、俺は再び歩き始めた。
今度こそ、本当に寄り道はしない。
ミラに言い訳できる範囲も、そろそろ限界だった。
♢
入口の石碑まで戻ったところで、俺はもう一度そこに刻まれた文章を読んだ。
『諦められなかった者たちの、最後の夢が残る場所』
ここへ来たときには、まだこの言葉の意味を半分も分かっていなかった気がする。
神鋼を求めた者。
武の果てを求め、最後まで強者を待ち続けた禍津武。
そして、時間そのものへ手を伸ばした者たち。
俺が踏み込まなかった区域にも、おそらく別の誰かが残した何かがあるのだろう。
ゲーム時代の俺にとって、ここは素材を採取する場所であり、ボスを倒す場所でしかなかった。
今は少し違う。
もちろん、全部を知ったわけじゃない。
むしろ、知らないことの方が遥かに多い。
それでも、自分が何も知らないのだと認識できるようになっただけ、昔よりはましだと思う。
「今度来たときは、もう少し見て回るかね……」
もちろん、ミラには言わない。
絶対に止められる。
石碑から離れ、認識阻害の境界へ向かう。
来るときには散々面倒な手順を踏まされたが、出る側からであればそれほど難しくない。
空間の境界を越えた瞬間、背後の景色が水面のように大きく揺れた。
巨大な谷も。
火山も。
地下森林も。
まるで最初から存在していなかったかのように、視界から消えていく。
振り返った先に残っているのは、ごく普通の山だけだった。
何も知らない旅人なら、この先に何かがあるなんて考えもしないだろう。
「本当に性格悪いな」
そんなダンジョンを作った奴へ今さら文句を言っても仕方ない。
地図を取り出し、現在地とアルセディアまでの道を確認する。
ここからなら、徒歩でおよそ四日。
これまでの日数と合わせれば――。
「……三十二日になるな」
約一か月。
嘘は言っていない。
ちょっとだけ、『約』からはみ出しただけだ。
ザフィラなら確実にそこを突っ込んでくるだろう。
そう考えたところで、なぜか自然と口元が緩んだ。
「帰るか」
その言葉が、思っていた以上に自然に口から出た。
♢
ゲームをしていた頃の俺は、長期間の周回を苦痛だと思ったことがほとんどなかった。
目当てのアイテムが出ない。
なら、出るまでやる。
それだけだった。
朝起きて、適当に何かを食べ、ログインする。
そのまま周回を始め、腹が減れば手近なものを口へ放り込み、眠くなれば寝る。
目が覚めれば、また昨日の続きを始める。
曜日なんて関係なかった。
学校へ行った日でさえ、帰宅すればすぐゲームを起動していた。
もっとも、その学校自体もだんだん行かなくなったけど。
ゲームの中なら、同じ敵を何日倒し続けても気にならなかった。
同じダンジョンへ何週間籠もっても、別に困らない。
帰る場所なんて、意識したこともなかった。
ゲームを終えれば、自分の部屋へ戻る。
そこには俺一人しかいない。
誰かが待っているわけでもないし、今日何をしたのかを話す相手もいなかった。
だから。
もっと強い装備を作ること。
タイムを縮めること。
誰よりも早く攻略すること。
それだけで十分だった。
「……よくやってたな」
山道を下りながら、昔の自分を思い出す。
今回だって、やったことだけを並べれば、当時とそれほど変わらない。
六日間、延々と鉱石を掘った。
禍津武とは何度も何度も戦った。
マテリアルドラゴンに至っては、途中から数えることさえやめた。
最後には予定になかったクロノヴォアまで倒した。
食事はほとんど保存食。
眠る場所は野営地。
起きれば、また周回を始める。
昔の俺なら、この生活を数か月続けたって平気だったはずだ。
でも今回は、少し違った。
十日を過ぎた頃には、ザフィラから通信が来るたびにアルセディアの様子を尋ねるようになっていた。
アウラが訓練場を壊しかけたとか。
カレンが訓練で兵士を泣かせたとか。
ノアが医務室の備品を整理しているとか。
テオがまたどこかへ姿を消したとか。
ミラが相変わらず寝ていないとか。
ジンが俺の設計図を眺めながら、勝手に何かを試しているとか。
そんな、攻略には何の関係もない話を聞くたびに、頭の中へアルセディアの景色が浮かんだ。
中央広場、市場、工房、王城、自分の部屋。
そして、その場所で暮らしている連中の顔。
「帰りてぇな」
今度は、ちゃんと声に出してみた。
自分で言っておきながら、少し変な感じがした。
昔の俺なら、素材が揃う前にそんなことを考えれば、集中力が切れていると判断しただろう。
効率が落ちる。
余計なことを考えている。
そう切り捨てていたかもしれない。
今だって、素材は欲しい。
装備へ妥協する気もない。
欲しいものがあれば、出るまでやるという考え方も変わっていない。
それでも同時に、早く帰りたいとも思っている。
その二つが、今の俺の中ではもう矛盾しなくなっていた。
「……悪くないな」
何が悪くないのか、自分でも上手く説明できない。
ただ、帰れば会える奴がいることも。
自分が帰ってくるのを待っている奴がいることも。
思っていたより、ずっと悪くなかった。
♢
二十九日目。
その日は、小さな川沿いで野営することにした。
日が落ちる少し前、荷物を下ろしたところで通信魔道具が光る。
誰からなのかは、確認するまでもなかった。
「ザフィラか」
『……今、どこ?』
「もうダンジョン出た」
一拍、間が空く。
『本当に?』
「何で疑うんだよ」
『昨日、もう帰るって言っていたから』
「帰ってるよ」
『昨日は?』
「帰る準備してた」
『一昨日は?』
「……ちょっと用事が」
『……リンドウ?』
声が一段低くなる。
「必要な用事だったんだって」
『ミラに言える?』
「……」
『言えないのね』
「帰れば分かる」
『何が?』
「それは秘密」
今度は、さっきより少し長い沈黙が返ってきた。
『……また何か拾ってきた?』
「まあ」
『珍しい素材?』
「そんな感じ」
『あなたが珍しいって言うもの、だいたいおかしいでしょう』
「失礼だな」
『否定できる?』
「あえてしないがな」
通信の向こうで、ザフィラが小さく笑った。
その声を聞くだけで、妙に安心する。
『あと何日?』
「三日くらい」
『三日、ね』
「もうすぐだろ」
『長いわよ……』
「二十何日も待ったんだから、三日くらい誤差だろ」
『待っている側にそんなこと言わないで』
「はいはい」
『……怪我は?』
「もう治した」
『また怪我したの?』
「高ランクダンジョン行って無傷は無理だって」
『顔は?』
「大丈夫」
『腕は?』
「大丈夫」
『足は?』
「大丈夫」
『本当に?』
「帰ったら確認すればいいだろ」
そう答えた途端、向こうが黙った。
「……何?」
『確認していいの?』
「怪我をだよ」
『分かってる』
何だ、その微妙な間は。
『三日ね』
「ああ」
『ちゃんと帰ってきて』
「もう帰ってる途中だって」
『分かってるけど、言いたいの』
「……分かったよ」
『待ってるからね?』
「ああ」
少しだけ迷ってから、俺も声を柔らかくする。
「もう少しいい子で待ってろ」
『えぇ、待ってるわ』
通信が切れた。
辺りには、川の流れる音だけが残る。
俺はしばらく手の中の通信魔道具を眺め、それからインベントリへしまった。
その奥には、『刻蝕晶核』がある。
そして、あの指輪も。
どちらのことも、まだ言っていない。
「……何で俺、隠してんだろうな」
クロノアの強化素材については分かる。
驚かせたい。
多分、それだけだ。
でも指輪の方は――。
「……」
少し考えて、やめた。
今考えたところで、たぶん答えは出ない。
♢
三十日目、三十一日目。
いくつかの山を越え、ようやく見慣れた街道へ戻った。
道を歩いていると、少しずつ旅人とすれ違うようになる。
荷馬車もある、商人もいる。
そして、そいつらの多くがアルセディアの方角へ向かっていた。
国を取り戻したばかりの頃なら、こんな光景は見られなかった。
商人が戻り、旅人が戻り、冒険者が戻ってくる。
少しずつではあるが、あの国へ人の流れが生まれ始めている。
「ちゃんと国になってきたな」
三十二日目の朝。
遠くに、見覚えのある山並みが見えた。
さらに進む。
昼を過ぎた頃には道幅が広くなり、整備された街道へ変わっていった。
新しく補修された石畳もある。
途中では工事をしている人たちへ、見覚えのある制服を着た兵士が指示を出していた。
もう、アルセディア領内だ。
「帰ってきたな……」
王都はまだ見えない。
それでも、そう思った。
そして、自分でも驚くくらい自然に肩から力が抜けた。
♢
西門が見えたのは、夕方になる少し前だった。
まだ距離がある。
人の顔までは判別できない。
けれど、門も、城壁も、その奥に並ぶ王都の建物も見える。
一か月程度しか離れていないはずなのに、ひどく懐かしく感じた。
「……」
無意識のうちに、歩く速度が少し上がった。
別に走る必要はない。
ここまで帰ってきたのだから、あと数十分遅れたところで何も変わらない。
それでも、足が勝手に前へ進んでいく。
もう少し近づいたところで、西門の前に何人か立っているのが見えた。
数人の兵士。
そして、その中に一人だけ見慣れた姿がある。
黒い髪。
その頭から伸びる黒豹の耳。
そして、腰の後ろから揺れる黒い尻尾。
「……あいつ」
ザフィラだった。
向こうも俺に気づいたらしい。
獣人の視力なら、この距離でも顔くらいは見えているのだろう。
立ち姿だけを見れば、いつもと変わらない。
背筋を伸ばし、腕を組み、表情もなるべく平静を保っている。
アルセディアの軍を任される者として、兵士たちの前ではいつものザフィラでいようとしているらしい。
――ただし。
「……」
尻尾だけが、まったく平静じゃない。
右へ。
左へ。
かなりの勢いで、ぶんぶんと揺れている。
「隠す気あんのか?犬じゃあるまいし……」
まだ聞こえるような距離じゃないのに、つい口から出た。
近づくにつれて、ザフィラの顔もはっきり見えるようになる。
表情は澄ましている。
でも耳は少し前へ向き、尻尾は相変わらず全力で揺れていた。
門番をしている兵士が二人、その様子を横目で確認している。
そして俺と目が合った瞬間、二人そろって勢いよく視線を逸らした。
一人は真正面。
もう一人に至っては、何もない空を眺め始める。
「……」
何で全員そんな必死なんだよ。
ようやく門の前まで辿り着く。
「ただいま」
俺がそう言うと、ザフィラはすぐには答えなかった。
一秒ほど、じっと俺を見る。
旅の途中で補修した服。
一か月前より少し伸びた髪。
多少は残っている疲労の色。
まるで怪我が残っていないか確かめるように、頭の先から足元まで視線が動いた。
それからようやく、金色の瞳が俺の顔へ戻る。
「……遅い」
第一声が、それだった。
「一か月くらいって言っただろ」
「三十二日」
「数えてるじゃん」
「数えてないわ」
「じゃあ何で知ってるんだよ」
「……うるさい」
「無理あるだろ」
「うるさい」
言葉とは裏腹に、尻尾の動きはさっきよりさらに激しくなった。
「尻尾は正直だぞ?」
「見ないで」
「いや、無理だろ」
「見ないで!」
「めちゃくちゃ動いてるけど」
「動いてないわ……」
「兵士も見てるぞ」
俺が門番へ視線を向けると、二人は同時に背筋を伸ばした。
「我々は何も見ておりません」
「聞いてないが?」
「何も見ておりません」
必死だった。
ザフィラが無言で兵士たちを見る。
二人の姿勢がさらに良くなる。
「……いい部下持ったな」
「黙っててよ!」
そう言うザフィラも、本気で怒っているわけじゃない。
よく見れば、必死に抑えている口元がほんの少しだけ緩んでいた。
「荷物は?」
「全部あるよ」
「怪我は?」
「治したって」
「本当に?」
「ああ」
「食事は?」
「保存食だ」
「……また?」
「生きてるからいいだろ」
「そういう問題じゃ、ない」
「帰ってきたら食わせてくれるって言ってたじゃんか」
「……ちゃんと、練習したから」
「期待してる」
いつものように、くだらないやり取りをする。
ただそれだけなのに、妙に落ち着いた。
一か月。
たった一か月だ。
毎日のように通信だってしていた。
それでも、同じ場所に立ち、顔を見ながら話すことが、思っていた以上に懐かしい。
「ミラは?」
「王城」
「怒ってる?」
「かなりね」
「何で?」
「予定より遅れたから」
「二日だぞ」
「『二日も』だそうよ」
「帰りたくなくなってきたな」
「もう遅いわね」
「国外逃亡しようかな……」
「逃がさないにきまってるでしょ?」
間髪入れず返ってきた。
「怖いって……」
「自業自得よ、ばか」
ザフィラが俺の隣へ並ぶ。
人前だから、さすがに腕へ絡みついてきたりはしない。
尻尾だって、俺の手首へ巻きつけたりはしなかった。
ただ、それでも。
一か月前より、ほんの少しだけ距離が近い。
「行きましょ」
「ああ」
二人で西門をくぐる。
そこに広がっていたのは、見慣れているはずなのに少しだけ変わった街だった。
新しい店が増えている。
壊れていた建物も、かなり修理が進んでいた。
行き交う人の数も、一か月前より明らかに多い。
そして俺へ気づいた誰かが、声を上げた。
「覇王様!」
別の場所からも声が飛んでくる。
「帰ってきたのか!」
「おかえりなさい!」
何人かがこちらへ手を振る。
俺も軽く手を上げて返した。
「ただいま」
そう答える。
すると今度は、少し離れた場所から別の声が届いた。
「おかえりなさい」
商人だった。
その次は職人。
兵士。
顔も名前も知らない子どもまで。
道を歩いているだけなのに、何度も同じ言葉をかけられる。
「おかえり」
そのたびに、俺も答えた。
「ただいま」
不思議な感じだった。
ゲーム時代、アルセディアへ戻ってきた回数なんて数え切れない。
転移して街へ戻る。
装備を整える。
倉庫へ素材を放り込む。
補給を済ませたら、また次の攻略へ向かう。
それだけの場所だった。
だから一度だって、『帰ってきた』なんて思ったことはない。
でも今は違った。
隣を歩くザフィラを見る。
「何?」
「いや」
すぐに前へ視線を戻す。
「帰ってきたなって」
ザフィラは少しだけ目を細めた。
「そうね」
たったそれだけの会話だった。
でも、今はそれで十分だった。
♢
王城へ続く道へ入る頃には、人通りも少し減っていた。
それでも巡回中の兵士はいる。
だからザフィラも、まだ人前での距離を保っていた。
……はずだった。
歩いているうちに、少しずつ俺との間隔が狭くなっている。
「ん?」
「……」
本人は何も言わない。
さらに一歩。
気づけば、肩が触れそうなところまで近づいていた。
「ザフィラ?」
「何?」
「近くない?」
「普通よ……」
「そう?」
「普通なの」
そこまで言い張るなら、そういうことにしておこう。
並んだまま、王城へ向かって歩く。
もう建物はすぐそこまで近づいていた。
その直前。
ザフィラがさりげなく周囲を見回した。
前方には兵士がいる。
だが、少し距離は離れている。
後ろにも、人の姿はない。
それを確認すると、ザフィラは歩く速度を変えないまま、ほんの少しだけ俺へ顔を寄せてきた。
その距離なら、声が届くのは俺だけだ。
「……おかえりなさい、ご主人様」
一瞬だけ、唇が触れた。
さっきまで人前で使っていた、凛とした声とは違う。
一か月のあいだ、夜になるたび通信越しに聞いていた声。
少し甘くて、柔らかくて。
俺と二人きりのときにだけ聞かせる声だった。
毎日のように聞いていたはずなのに。
こうして隣から直接聞くと、全然違う。
「……ああ」
俺も一応、周囲を確認する。
誰もこちらを気にしていない。
それを確認してから、少しだけ笑った。
「ただいま」
今度の言葉は。
王都へでも、国民へでも、覇王としてでもない。
ただ、ずっと俺を待っていたこいつへ向けて。
そう返した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
三十二日間に及んだ『最果ての夢跡』での旅も、ようやく終了です。
かつてのリンドウにとって、街は次の攻略へ向かうための拠点でしかありませんでした。
でも今は――
待っている人がいて、「おかえり」と言ってくれる人がいる。
アルセディアはいつの間にか、リンドウにとってちゃんと帰る場所になっていたのかもしれません。
そして次回。
持ち帰った素材を使って、いよいよ三節棍『ドライ』の製作が始まります!
引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。




