47:覇王、すべての鎖を断つ
奴隷紋の解除作業は、その日のうちには終わらなかった。
当然だ。王都で保護されている者だけでも、四百七十二人。
周辺の村や施設から、新たに救出された者も次々と運ばれてくる。
国全体へ一度に解除術式を放てば、もっと早く終わったのかもしれない。
だが、スペルブレイカーはそういう武器じゃない。
本人が、自分の意思で契約を終わらせたいと望んだときだけ。
白銀の刃は、その鎖を断ち切る。
一人ずつ尋ね。
一人ずつ答えを待ち。
一人ずつ、奴隷紋を消していく。
効率は悪いし、時間もかかる。
それでも、これは急げばいい仕事じゃなかった。
♢
解除作業を始めた初日。
リィナの奴隷紋を消したあと、俺はザフィラたちにも声をかけた。
「お前らも先にやるか?」
アウラ。カレン。ノア。テオ。そしてザフィラ。
こいつらの身体にも、王家によって刻まれた奴隷紋が残っている。
紋章があろうとなかろうと。
俺が命令で縛ったことなど、一度もない。
それでも、他人から所有されるために刻まれたものを、残しておく理由はなかった。
スペルブレイカーを持ち上げると。
ザフィラが、静かに首を横へ振った。
「私たちは後で構わない」
「でも――」
「先に、この国の者たちを解放してくれ」
人前での、凛とした口調だった。
黒い耳をまっすぐに立て。
治療所の外へ続く長い列を見る。
「私たちは今も、自分の意思で行動できている」
「だが、あの者たちは違う」
「今この瞬間も、命令されることを恐れ」
「逃げれば痛みが走るのではないかと、怯え続けている」
アウラも頷く。
「ザフィラの言うとおりだ。我々は、すでにリンドウと共に歩くことを自分で選んでいる。今も選べずにいる者たちを優先してほしい」
「私は少しでも早く消してもらいたいですけど……」
カレンが、自分の胸元へ手を添える。
少しだけ困ったように笑い。
それでも、列の先にいる子どもへ目を向けた。
「でも、あの子たちを待たせてまで先にとは思いません」
「私も、後で大丈夫です」
ノアが静かに続ける。
「解除のあとの身体に問題がないか、私が皆さんを診たほうがいいと思いますから」
「俺も後でいい」
テオが壁へ背中を預けたまま言う。
「そもそも、そいつが命令してきたところで聞かねぇしな」
「誰がそいつだ」
「お前以外に誰がいる」
「もう少し敬えよ」
「敬われるようなことをしてから言え」
「今、国中の奴隷紋を消そうとしてんだけど?」
「それとこれとは別だ」
相変わらずだな、こいつは。
それでも、全員の意思は同じだった。
「分かったよ」
俺はスペルブレイカーを鞘へ戻す。
「国民の分が終わってからだ」
「ああ」
ザフィラが答える。
「最後で構わない」
その言葉どおり。
俺たちは、まず国民の奴隷紋を解除することにした。
♢
初日は、子どもと重症者を優先した。
長時間待つことが難しい者。
奴隷紋による命令で、身体や魂を酷く傷つけられている者。
解除前後には、必ずノアが状態を確認する。
ミラは一人ずつ名前を尋ね。
解除を望む意思と、術式が消えたことを記録していった。
二日目。
王都内で保護されている元奴隷たちの解除へ移った。
治療所に入りきらないため、周囲の建物も使用する。
それでも、解除を行う部屋には必要以上の人間を入れなかった。
誰かが奴隷だった事実も。
契約を解除するか迷っていることも。
人々の前へ晒すものではない。
一人目。二人目。三人目。
同じ奴隷紋でも、解除されたあとの反応は一人ずつ違った。
声を上げて泣く者。
何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くす者。
何度も胸元を触り、紋章が戻っていないことを確かめる者。
長く息を吐き。
その場に崩れ落ちる者。
ある獣人の男は。
奴隷紋が消えた直後、治療所の出口まで走った。
「おい!」
支援員が慌てて追いかけようとする。
「待て」
俺は、それを止めた。
男は扉の外へ飛び出し、石畳の上で足を止めた。
胸を押さえ息を荒くしながら、何かを待っている。
逃げようとした人間へ与えられる、奴隷紋の痛み。
心臓を掴まれ、全身を焼かれ、立っていられなくなるほどの苦痛。
だが、何も起きない。
男はしばらく、その場に立っていた。
やがてゆっくりと振り返り、今度は走らずに扉をくぐった。
「……戻ってきたのか?」
俺が尋ねると、男は泣きそうな顔で笑った。
「自分で戻った」
「ああ」
「捕まったからじゃない」
「ああ」
「戻りたいと思ったから、戻ってきた」
「そうだな」
それだけ言うと、男は両手で顔を覆った。
肩が震えている。
外へ出るのも、戻ってくるのも。
もう、誰かの許可はいらない。
どちらも、もうこいつ自身が選べる。
♢
その日の午後。
小さな子どもの奴隷紋を解除した。
年齢は、七歳くらいだろうか。
保護されたときの記録には、名前がなかった。
書かれていたのは。
第二十九号。
それだけだった。
「記録に残す名前は、どうしますか?」
ミラが尋ねる。
子どもは答えなかった。
名前という言葉の意味すら、すぐには分からなかったらしい。
「今まで、なんと呼ばれていましたか?」
「……二十九」
「それは、あなたの名前ではありません」
ミラは淡々と言う。
だが、急かすことはしない。
「以前、別の名前で呼ばれていた記憶はありませんか?」
子どもは、しばらく考えた。
やがて、遠い記憶を探すように、何度も首を傾げる。
「お母さんが……」
「はい」
「レオって、呼んでた」
「レオ」
ミラが、紙へその名を記す。
「ほかに名前は?」
「分かんない」
「では、今はレオとして登録します」
「……俺の名前?」
「ご自身が、そう呼ばれたいのであれば」
子ども――レオが。
紙へ書かれた文字を見つめる。
「レオ」
小さな声で。
自分の名前を、自分で呼んだ。
「俺、レオ」
「そうですね」
ミラが頷く。
それは――。
番号として扱われていた子どもの名前が。
初めて、この国の正式な記録へ残された瞬間だった。
◇
三日目以降は、周辺地域から連れてこられた人々の解除へ移った。
王都から救援隊を出し、奴隷商が使っていた倉庫、貴族の別邸。
鉱山。農園。教会の地下施設。
各地に残されていた人々を、一人ずつ保護していく。
全員を王都へ集めるわけにはいかない。
移動が難しい者もいる。
だから、俺たちのほうから各地へ向かった。
スペルブレイカーを持ち、ノアと治療班、ミラが手配した記録官たち。
アウラやカレンが率いる護衛隊。
日が昇れば解除を始め。
日が暮れるまで、一人ずつ話を聞いた。
解除されたあと、そのまま同じ場所へ残りたいと望む者もいた。
クライブの屋敷で働かされていた、一人の使用人。
奴隷紋を解除した翌日。彼女は、もう一度屋敷へ戻ってきた。
「行く場所がないのか?」
俺が尋ねると、女性は首を横へ振る。
「違います」
「じゃあ、なんでだ?」
「ここで働きたいんです」
クライブが、驚いたように彼女を見る。
前の領主が屋敷を支配していた頃。
この女性は、奴隷として掃除や食事の支度をさせられていた。
クライブが王都へ入って以降も。
屋敷を管理するため、仕事を続けていたらしい。
「契約は、もう消えてるんだぞ」
「はい」
「ここに残れって、誰も命令してない」
「分かっています」
「なら――」
「それでも、ここで働きたいんです」
女性が、今度はクライブを見る。
「私は、この仕事が嫌いではありません。料理も、掃除も、屋敷で働く皆さんも」
「ただ……」と、少しだけ、視線を落とす。
「今度は、休みが欲しいです」
「もちろんだ」
クライブはすぐに答えた。
「賃金も支払う。契約内容をすべて文書へ記し、いつでも辞められるようにする。望まない仕事を命じることもしない」
女性は、少し驚き。
それから、笑った。
「では、働かせてください」
新しい雇用契約が作られた。
賃金。勤務時間。休日。仕事内容。
双方からの契約解除条件。
失われていたものが、最初からすべて書かれている。
契約を切ったから、必ずその場所を離れなければならないわけじゃない。
誰のそばにいるのか。どこで働くのか。
何を続け。何をやめるのか。
それを、自分で選べることが自由なんだ。
♢
解除を望まない者もいた。
正確には、望んでいるのかどうか自分でも分からない者だった。
六十歳を越えているだろう男。
幼い頃に売られ。
それからずっと、誰かの命令に従って生きてきた。
破邪の短剣を前にして。
男は首を横へ振った。
「できません」
「何が?」
「自由になることが」
胸元に刻まれた奴隷紋へ、両手を重ねる。
「命令されなければ」
「朝、何時に起きればいいのかも」
「何を食べればいいのかも」
「どこへ行けばいいのかも、分からない」
「……」
「契約がなくなったら」
男の声が震える。
「私は、どうすればいいのですか?」
俺は、短剣を鞘へ戻した。
「今日はやめとけ」
男が顔を上げる。
「ですが……」
「今すぐ決めなくていい」
「でも、皆は解除して」
「皆がどうしたかは関係ねぇよ」
俺は答える。
「お前が終わらせたいと思ったときに、もう一度来い」
「それまでは?」
「飯も寝る場所も用意する」
「働きたいなら、できる仕事を探せばいい」
「何もしたくないなら、しばらく休め」
「命令は……?」
「しねぇよ」
男は、困ったような顔をした。
命令されないことが、今のこいつにとっては何より不安なんだろう。
それでも、俺が代わりに答えを決めるわけにはいかない。
男は、その日は解除せずに帰った。
そして、四日後。
もう一度、俺の前へ現れた。
「決めたのか?」
「……まだ、怖いです」
「ああ」
「何をすればいいかも、分かりません」
「ああ」
「それでも」
男は、自分の胸元へ触れる。
「終わらせたい」
前よりも。ほんの少しだけ、声が強かった。
「今度は……自分で、何をするか決めてみたい」
スペルブレイカーが、白銀の光を放つ。
俺は男へ最後に確認した。
「本当にいいんだな?」
「はい」
「この契約を」
男は、自分の意思で答えた。
「終わらせてください」
刃を奴隷紋へ触れさせる。
長い年月、男の人生へ巻きついていた鎖が。
一本ずつ。
ゆっくりとほどけていった。
♢
解除作業を始めてから、七日目。
遠方の施設から救出された最後の一人が、王都へ到着した。
身体への負担を考え。
一晩休んでもらってから、翌朝。
本人の意思を確認し。
奴隷紋を解除した。
破邪の短剣の光が消える。
黒い紋様が、跡形もなく消えた。
俺は短剣を離す。
「終わったぞ」
その人は、何度も胸元を確かめ。
小さな声で礼を言った。
大々的な式典は開かなかった。
誰かの奴隷紋を解除することは。
王や英雄の功績を見せつけるためのものじゃない。
一人ずつが、自分の人生を取り戻すためのものだ。
治療所の前。ミラが、分厚い名簿の最後へ印をつける。
何度も確認し、別の記録官とも照合したあと静かに告げた。
「王都および確認済みの周辺地域における、国民の奴隷紋解除が完了しました」
誰も声を上げなかった。
その場にいた人々は信じられないように、自分や、隣にいる者の胸元を見ている。
本当にもう、奴隷紋はない。
命令に逆らっても。逃げても。嫌だと言っても。
身体を焼く痛みは来ない。
少し遅れて、誰かが泣き始めた。
別の誰かが笑い、家族を抱き締める。
自分の名前を何度も呼ぶ声。
帰りたい場所を相談する声。
明日から何をしようかと話す声。
『私の力を、どうするのですか?』
ヘレナの声を思い出す。
俺は、手の中の破邪の短剣へ視線を落とした。
「見てるか、ヘレナ」
誰にも聞こえないほど、小さく呟く。
「ちゃんと、自由にするために使ったぞ」
だが、まだ終わりじゃない。
解除されていない契約が、残っている。
♢
国民全員の解除を終えたあと。
俺たちは、王城の一室へ集まった。
今度は、アウラたちの番だ。
「まずはアウラだな」
破邪の短剣を抜く。
「この契約を終わらせたいか?」
「無論だ」
アウラは、迷わず答えた。
「だが」
胸元へ手を添え、まっすぐに俺を見る。
「契約が消えても、私がアルセディアを守ることに変わりはない」
「分かってるよ」
「それは、私自身が選んだ役目だ」
「ああ」
「なら、頼む」
白銀の刃を奴隷紋へ触れさせる。
銀色の鎖がほどけ、アウラの身体から紋章が消えた。
アウラは胸元を確認し、静かに拳を握る。
「これで」
「ああ」
「誰の命令でもなく、この国を守れる」
次はカレン。
「ようやくですね」
「怖いか?」
「少しだけ」
カレンは、正直に答えた。
それから、いつものように明るく笑う。
「でも、楽しみのほうが大きいです」
「何が?」
「明日からのことです」
「何をするか決めてるのか?」
「まだです」
「決めてねぇのかよ」
「決めていないから、楽しみなんですよ」
なるほど。それも、自由か。
「終わらせたいか?」
「はい」
「お願いします」
奴隷紋が消える。
カレンはその場で一歩踏み出し。
振り返って、嬉しそうに笑った。
「ちゃんと、自分で動けました」
「今までも勝手に動いてただろ」
「気分の問題ですっ」
三人目はノア。
ノアは、破邪の短剣を見つめ。
静かに自分の胸元へ手を置いた。
「終わらせたいです」
「もう決めてるのか?」
「はい」
銀紫色の瞳が、俺を捉える。
「これからは、自分が誰を助けるのか、どこで力を使うのか、自分で選びたいです」
「ああ」
「それでいい」
白銀の光が、ノアの奴隷紋を包む。
契約が消えたあと。
ノアは少しだけ目を閉じ。
自分の魂の状態を確かめるように、静かに息を吐いた。
「……軽いです」
「身体が?」
「魂が」
最後はテオ。
「確認なんていらねぇ」
こいつは俺の前へ立つなり、面倒そうに言った。
「さっさとやれ」
「確認が必要なんだよ」
「俺が消せと言ってんだろ」
「終わらせたいって言え」
「同じことだろうが」
「武器が反応しねぇんだよ」
「面倒くせぇ武器だな」
「作った俺に言うな」
「誰に言えばいいんだよ」
「ヘレナ」
「いねぇだろ」
「だったら俺に言うな」
テオが、盛大に舌打ちする。
「……終わらせたい」
「聞こえねぇ」
「聞こえてんだろ」
「もう一回」
「殺すぞ」
「契約解除前に犯罪者になるな」
アウラが小さく咳払いした。
「テオ」
「分かったよ!」
テオが苛立ったように胸元を指差す。
「この契約を終わらせたい!これでいいか!」
スペルブレイカーが光った。
「はいはい」
「最初からそう言え」
「お前、絶対楽しんでただろ」
「少しだけな」
「あとで覚えてろ……?」
奴隷紋を解除する。
テオは胸元を確認した。
「……何も変わらねぇな」
「そりゃ、お前は最初から好き勝手してたからな」
「なら、やっぱ確認いらなかっただろ」
「いるんだよ」
これで、四人。
残るのは、ザフィラだけだった。
俺が短剣を持ったまま振り返る。
「次、ザフィラ」
だが、ザフィラはその場から動かなかった。
「私の解除は、あとで構わない」
公の場での、落ち着いた口調。
「まだ何かあるのか?」
「……二人で話したい」
短い言葉だった。
アウラたちは、深く追及しない。
カレンだけが何か言いたそうに口を開いたが。
アウラに肩を押され、そのまま部屋を出ていった。
「では」
ミラが記録簿を閉じる。
「解除記録への署名は、後ほどお願いします」
「分かっている」
「リンドウ様も、忘れないように」
「俺も?」
「実施者の署名が必要です」
「はいはい」
ミラも出ていく。
最後にテオが、俺とザフィラを交互に見た。
「何だよ」
「別に」
「何か言いたそうだな」
「言ったら面倒そうだからやめとく」
「その言い方が一番気になるだろ」
テオは返事もせず、扉を閉めた。
部屋には。
俺とザフィラだけが残った。
♢
王城の中にある、ザフィラの私室へ移動した。
扉が閉まり、外から人の気配が消える。
ザフィラの肩から、ふっと力が抜けた。
立っていた黒い耳も、少しだけ横へ倒れる。
「……やっと二人になれた」
「解除するだけだろ」
「分かってるわ」
ザフィラは寝台の端へ腰を下ろす。
「でも、これは人前でやりたくなかったの」
「なんで?」
「なんとなく」
「理由になってねぇぞ」
「私の問題だから」
それ以上は説明するつもりがないらしい。
ザフィラは上着の留め具へ手をかけ。
奴隷紋のある場所だけが見えるよう、衣服を少しずらした。
褐色の肌に刻まれた、黒い紋様。
今まで、何度も目にした。
それでも、破邪の短剣を持って向き合うと、見え方が違う。
これは、俺とザフィラの関係を示すものじゃない。
王家が、ザフィラを所有物へ変えるために刻んだ、ただの傷だ。
俺は、短剣を構える前に尋ねる。
「ザフィラ……」
「……はい」
「この契約を、終わらせたいか?」
ザフィラはすぐには答えなかった。
自分の胸元にある奴隷紋へ、指先で触れる。
「……終わらせたい」
やがて、はっきりと答えた。
「これは、私が選んだものじゃないから」
「ああ」
「でも」
ザフィラが顔を上げる。
金色の瞳が、まっすぐに俺を見る。
「勘違いしないで、リンドウ」
「何を?」
「契約が消えたからって、私がどこかへ行くわけじゃない」
声は、少しだけ小さい。
人前では決して見せない。
砕けた口調だった。
「私は――私が、ここにいたいからいるの。」
「あなたのそばにいるのも」
ザフィラが、わずかに視線を逸らす。
「私が……そうしたいから」
それは、告白じゃない。
俺たちの関係に、新しい名前をつける言葉でもない。
ただ、ザフィラが自分の意思を伝えただけだ。
「分かってるよ」
俺は答える。
「お前は、契約が切れたくらいで大人しく消えるような奴じゃねぇ」
「何それ」
「褒めてる」
「絶対、嘘」
ザフィラが、少しだけ笑った。
それから、もう一度自分の奴隷紋へ触れる。
「終わらせて」
「ああ」
「この契約を、切ってほしい」
スペルブレイカーが、淡く光った。
俺は刃の腹を、奴隷紋へ触れさせる。
黒い紋様が、銀色の鎖へ変わっていく。
命令への強制、反抗した者へ与えられる痛み。
契約主による、生命と魂の支配。
ザフィラへ刻まれていたものが。
一本ずつ、ゆっくりと、ほどけていく。
最後の鎖が消えた。
褐色の肌に、もう黒い紋様は残っていない。
「……なくなった」
「ああ」
ザフィラが目を閉じ。
奴隷紋のあった場所へ、手のひらを重ねる。
「本当に、何もない」
「これで、お前は誰の所有物でもない」
ザフィラが、ゆっくりと目を開けた。
「それは、ちょっと困るわ……」
「なんでだよ」
「私の心と身体はもう、あなたの……ご主人様のものだから」
「……馬鹿な猫だよ、ほんと」
ザフィラを抱き寄せ、髪を撫でた。
彼女も嬉しそうに頬を擦り付けてくる。
軽く口づけると、すぐに力が抜け体重を預けてくる。
部屋へ、少しだけ静かな時間が流れた。
奴隷紋は消えた。
だが、俺とザフィラの間にあるものは何も変わっていない。
こいつが何を考えているのか、俺は全部分かるわけじゃない。
俺たちが何なのかも。
まだ、名前はついていない。
今は、それでいい。
「だから……だからね?」
「なんだ?」
「これからも……」
ザフィラが、ちらりと俺を見る。
「……二人のときだけ、呼んでいい?」
「好きにしろよ」
「本当に?」
「俺が決めることじゃねぇだろ」
呼ぶか、呼ばないか。
それも、こいつが決めることだ。
「じゃあ、そうする」
ザフィラが少しだけ楽しそうに笑う。
そして、俺へ身体を寄せ。
耳元で、小さく囁いた。
「これからもたくさん可愛がって下さい――ご主人様」
「契約切った直後に、それ言うか? 普通」
「だって」
ザフィラが、嬉しそうに尻尾を揺らす。
「これは、私が自分で選んだ呼び方だから」
「はいはい」
「返事は?」
「これからもよろしく、ザフィラ」
「……うん」
それ以上、踏み込むことはなかった。
告白も。
俺たちの関係に、名前をつける言葉もない。
ただ、俺たちの間にある、名前のついていない関係が。
ほんの少しだけ、前よりも自然なものになった気がした。
そのとき、手の中にあるスペルブレイカーが、淡く光った。
視界の端へ、術式の確認表示が浮かぶ。
『技神国アルセディア領内』
『強制契約反応――0』
国民。仲間。そして、ザフィラ。
確認できるすべての奴隷紋が、消えている。
「終わった、な」
「えぇ……」
ザフィラが、奴隷紋の消えた胸元へ触れながら答える。
「終わったわね、リンドウ」
♢
その日の夜。
俺は一人で、王城の屋上へ上がった。
復興中のアルセディアを、一望できる場所。
壁へ背中を預け。
煙草を一本取り出す。
火をつけ。
ゆっくりと煙を吸い込んだ。
眼下では、今日も人々が動いている。
瓦礫を運ぶ者。
明日の仕事について相談する者。
家族と一緒に、仮設住宅へ帰る者。
新しい住居をどこにするか、地図を見ながら話す者。
仕事を辞めると決めた者。
同じ仕事を続けると、自分で選んだ者。
誰かの命令へ逆らったからといって。
もう、痛みが走ることはない。
逃げても。断っても。立ち止まっても。自分の道を選んでも。
身体と魂を縛る鎖は、もうない。
俺は煙を吐き。
傍らへ置いた破邪の短剣を見る。
白銀の刃。
その根元に刻まれた言葉。
『選ぶ権利は、誰にも奪えない』
「なあ、ヘレナ」
返事はない。
当然だ。
あいつは――。
今度こそ、自分で眠ることを選んだんだから。
「全部、解いたぞ」
夜風が、煙草の煙を空へ運んでいく。
「この国に残ってた鎖は」
「一つも残ってねぇ」
返事はない。
それでも、俺は話し続ける。
「お前の力」
「今度は、ちゃんと人を自由にするために使えたよ」
やはり、返事はなかった。
以前なら、何も返ってこないことを少しくらい寂しいと思ったかもしれない。
けれど。今は、それでいい。
返事が聞こえたのなら。
あいつはまだ、どこかに縛られたままなのだから。
「……もう、起こされるなよ」
煙草の火を消す。
街から届く笑い声を聞きながら。
俺は、ほんの少しだけ笑った。
返事がないことに。
初めて、安心できた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二章――『鎖の聖女ヘレナ編』、完結です。
人を守るために生まれながら、人を縛るために歪められたヘレナの力。
その奇跡は、破邪の短剣へと姿を変え、アルセディアに残されたすべての奴隷紋を断ち切りました。
誰かに与えられる自由ではなく、一人ひとりが自分で選び取る自由。
ヘレナが守ろうとした願いを、最後まで描けていたら嬉しいです。
ここまで鎖の聖女ヘレナの物語を見届けてくださり、本当にありがとうございました。
次章もよろしくお願いいたします。




