44:覇王、何も命じない
「次は――誰を縛ればいいのですか?」
七本目の戒鎖が、俺とヘレナの魂をつないだ。
銀色の鎖が胸の奥へ食い込む。
痛みはなかった。
それでも、自分の内側へ他人の指を差し込まれたような、言いようのない不快感がある。
右手には、まだフィーアを握っていた。
腰には双剣『ツヴァイ』。
鎖を断ち切ろうと思えば、今すぐにでも刃を振るえる。
だが、七本目へ攻撃を加えれば、砕いた六本の戒鎖がすべて復活する。
――特殊勝利条件。
すべての武器を解除し。
七本目の契約を拒まず。
最後まで、ヘレナへ一度も命令しない。
攻略サイトに書かれていたのは、ただそれだけだった。
「……分かったよ」
フィーアから手を離す。
巨投剣が、重い音を立てて石床へ落ちた。
続いて、腰から双剣を外す。
望めばいつでも呼び戻せる。
だが、それすらしないと決め、二振りの剣を床へ置いた。
防具に仕込んだ暗器。
投擲用の小刀。
予備の魔導具。
武器として扱われるものを、一つずつ解除していく。
最後の短剣を手放した瞬間。
銀色の鎖が、俺の魂へ深く沈み込んだ。
視界が白く染まる。
礼拝堂も。祭壇も。腕の中にいるヘレナの姿も消えた。
代わりに流れ込んできたのは、報告書の文字では分からなかった――彼女自身の記憶だった。
♢
そこは、戦場だった。
焼けた草の匂い。
血に濡れた地面。
怒号を上げながら、敵味方の兵士たちが互いへ刃を振り下ろしている。
その真ん中に、まだ幼さの残る少女が一人で立っていた。
今よりも短い銀金色の髪。
簡素な白い衣。
震える両手を胸の前で組み、少女は祈っていた。
『お願い……』
泣いている。
怖くて、足が震えて、きっと今にも逃げ出したいはずなのに。
『もう、誰も殺さないで』
少女が両手を広げた。
光が弾ける。
無数の鎖が戦場を駆け抜けた。
だが、人の身体には巻きつかない。
剣を縛り、槍を絡め取り、弓の弦を断ち、魔術を放とうとした腕をその直前で止める。
敵も味方も関係なかった。
ただ、誰かが誰かを殺すための力だけを、少女は封じた。
やがて、戦場から音が消えた。
兵士たちは呆然と、自分たちの手元を見下ろしている。
死者は、一人も出なかった。
『……よかった』
少女が、崩れるように膝をつく。
本当に嬉しそうに。
涙を流しながら笑った。
そこへ、一人の兵士が近づく。
少女は怯えたように身体を縮めた。
だが、男は武器を捨て。
彼女の前へ膝をついた。
『ありがとう』
男の声も震えていた。
『あなたのおかげで、娘のところへ帰れる』
男が胸元から、小さな木彫りの人形を取り出す。
幼い娘が作ったものなのだろう。
歪な形の人形を、男は何より大切そうに握っていた。
『帰ったら、もう剣は捨てる』
『畑を耕して、娘と暮らす』
『本当に……ありがとう』
少女は、その言葉を何度も心の中で繰り返した。
娘のところへ帰れる。
誰かが、誰かのもとへ帰れる。
そのために、自分の力が使える。
それが、嬉しかった。
ただ、それだけだった。
♢
景色が変わる。
戦争が終わったあとの街。
家を焼かれた者。
国境を追われた者。
親を失った子どもたち。
帰る場所のない人間が、通りに溢れていた。
彼らの多くは、食事と寝床を求め、騎士や商人、領主のもとで働くことを望んだ。
だが、庇護を与えるという名目で、人を所有しようとする者もいた。
少女は、それを止めるために一つの誓約を作った。
随行誓約。
従う者だけではなく。
守る者もまた、その責任に縛られる契約。
『本当に、この方のもとで働きたいのですか?』
ヘレナが、痩せた少年へ尋ねる。
少年の隣には、一人の老騎士が立っていた。
戦争で家族を失った少年は、老騎士の従者になることを選んだ。
『はい』
『食事を与えていただきました』
『剣も教えてくださるそうです』
『いつか俺も、この人みたいな騎士になりたいんです』
ヘレナは、すぐには契約しなかった。
『嫌になったら、いつでもやめていいのですよ』
『はい』
『命じられたことが怖ければ、断ってもいいのです』
『はい』
『この方があなたを守らなかったときも、誓約を解いて構いません』
『分かっています』
何度も、何度も確認した。
老騎士にも、同じだけの言葉を投げかけた。
『この子を、あなたの所有物にしてはいけません』
『分かっている』
『命じる以上、あなたにも責任があります』
『承知している』
『この子が去ることを選んだとき、妨げてはいけません』
『誓おう』
二人が同意したのを確認して。
初めて、ヘレナは契約を結んだ。
淡い光が、少年と老騎士をつなぐ。
少年は胸元に浮かんだ紋章を見て、嬉しそうに笑った。
『これで、俺も従者ですね!』
『そうですね』
ヘレナも笑った。
『ですが、あなたはあなたのままです』
『誰かのものになったわけではありません』
その言葉が。
後に、すべて消されることになるとも知らずに。
♢
契約書が、机の上へ置かれていた。
見慣れた随行誓約。
だが、その文章には赤い線が引かれている。
従者側の解除権。
主側の保護義務。
契約外の命令を拒否する権利。
それらが、一つずつ削られていた。
『この変更は認められません』
ヘレナが、教会の高位聖職者たちへ訴える。
『戦争捕虜や犯罪者に、自由な解除権など与えられません』
『ですが、誤って捕らえられた者がいたらどうするのですか』
『審問の結果を疑うのですか?』
『人は間違えます』
その言葉に、聖職者たちの顔から笑みが消えた。
『聖女ヘレナ』
『あなたは奇跡を与える者です』
『制度を決めるのは、我々の役目です』
『この誓約を作ったのは私です』
『いいえ』
男は、静かに首を横へ振った。
『この術式は、女神が教会へ与えたものです』
『あなたは、それを形にしたにすぎません』
机の上へ、新しい契約書が置かれる。
随行誓約ではない。
従者契約。
その下には、ヘレナの名前さえ記されていなかった。
彼女の許可なく。
彼女の願いとは関係なく。
人を守るための鎖は、少しずつ人を縛るための道具へ作り変えられていった。
♢
暗い地下室。
泣き声が響いている。
小さな少女が、祭壇へ縛りつけられていた。
十歳にも届いていない。
胸元へ焼きつけられようとしているのは、ヘレナが作ったものと同じ契約紋。
だが、そこには相互の誓約などない。
あるのは、命令への絶対服従だけだった。
『嫌だと言ったら……』
少女が、震える声で尋ねる。
『また、痛いことをされますか?』
その言葉を聞いた瞬間、ヘレナの中で何かが壊れた。
『その子から離れてください!』
聖職者たちが振り返る。
『これは教会の決定です』
『その子は罪人の娘です』
『だから何ですか……』
『将来、教会へ反逆する可能性があります』
『まだ、何もしていない子どもです!』
『罪の芽を摘むことも、秩序を守るために必要なのです』
『そんなものを、秩序とは呼びません!』
ヘレナの足元から、鎖が伸びる。
兵士たちの武器を絡め取り。
聖職者たちの腕を壁へ縫い止めた。
誰も殺さない。
それでも、今度の鎖には確かな怒りが込められていた。
少女の胸へ刻みかけられていた術式を消し。
地下牢に捕らえられていた人々の契約を、一人ずつ解いていく。
『外へ出てください』
『もう、誰の命令にも従わなくていいのです』
『逃げて』
扉を開き、人々を外へ送り出す。
自分の奇跡が生んだものを――自分の手で、すべて壊そうとした。
♢
大聖堂の前。
大勢の人々が集まっていた。
ヘレナは階段の上へ立ち。
教会が行ってきたことを、すべて話そうとしていた。
『随行誓約は、教会の所有物ではありません』
『人を支配するためのものでもありません』
『教会は――』
声が消えた。
首へ青い鎖が巻きついている。
聖職者たちが、彼女の声を封じた。
兵士が両腕を拘束し。
黒い鎖が逃げ道を塞ぐ。
『聖女様は、長年の祈りによってお疲れなのです』
群衆へ向けて。
司祭が、穏やかな声で嘘をつく。
『皆様の罪を背負い、心を痛めておられます』
『これより聖女様は、永遠の祈りへ入られます』
ヘレナは首を横へ振った。
違う!
そんなことは望んでいない!
だが、声が出ない。
誰にも届かない。
その日から、一人の少女としてのヘレナは記録から消された。
残されたのは――。
自ら永遠の祈りを選んだ、都合のいい聖女だけだった。
♢
森の中。
逃がした人々と、ヘレナは身を隠していた。
数日の間だけ、初めて教会から自由になれた。
だが、そこへ。
一人の若い司祭が駆け込んでくる。
『ヘレナ様!』
黒い髪。まだ若い顔。
大聖堂の最深部でリッチとなっていた、あの聖職者だった。
『エルド』
ヘレナが、その名前を呼ぶ。
『教会が、逃亡者たちの家族を捕らえました』
司祭エルドの声が震える。
『あなたが戻らなければ、全員を処刑すると』
周囲の者たちが息を呑む。
『私たちは大丈夫です……』
逃がされた少女の母親が言う。
『戻ってはいけません』
『ですが、皆さんの家族が!』
『あなたが犠牲になる必要はありません!』
何人もの人が、ヘレナを止める。
それでも、ヘレナは戻ることを選んだ。
『私が戻れば、皆さんは助かるのですね……?』
『教会が約束を守る保証はありません!』
『それでも』
ヘレナは笑った。
怖くないはずがない。
戻れば、何をされるのか分かっていた。
それでも――。
『私が戻らなければ、きっと後悔します』
それが。
誰かのために選んだ、彼女自身の最後の自由だった。
♢
冷たい石の祭壇。
両手を赤い鎖で縛られ。
声を青い鎖で奪われ。
力を白い鎖で封じられ。
逃げ道を黒い鎖で閉ざされ。
名前と記憶を金の鎖で削られ。
死ぬことさえ、透明の鎖で禁じられた。
『随行誓約の根幹術式を抽出しろ』
『被験者の意識が落ちています』
『起こせ』
『肉体の損傷が限界です』
『再生させろ』
『魂核の固定を強めろ』
人の声がする。
まるで、目の前にいるものが人間ではないように。
ヘレナは、何度も訴えた。
『私は、誰も縛りたくありません!』
聞き入れられなかった。
『この力を使わないでください!』
無視された。
『もう、やめて……!』
やがて、声を出すことすら許されなくなった。
それから、どれだけの時間が流れたのか。
教会は滅びた。
祈りを捧げる者もいなくなった。
それでも、ヘレナは死ねなかった。
ときおり、大聖堂へ人がやってきた。
王。貴族。奴隷商。冒険者。
皆、同じ目をしていた。
『聖女の力が欲しい』
『この国の秩序を守るためだ』
『反逆者を従わせるために必要なのだ』
『争いをなくすために使う』
誰一人として、鎖につながれた少女へ何を望んでいるのか尋ねなかった。
誰も、彼女を解放しようとはしなかった。
そしてヘレナは、自分の力を守るために、自分自身へ最後の鎖を巻いた。
『もう、誰にも渡しません』
銀色の鎖が、魂へ沈んでいく。
『私がここで止め続ければ』
『誰も、この力で人を縛れない』
それが――七本目の戒鎖。
誰かに巻きつけられたものではない。
ヘレナが自分の意思で作った。
自分と、自分の奇跡を、永遠に閉じ込めるための鎖だった。
♢
視界が戻る。
俺は礼拝堂の床へ片膝をついていた。
銀色の鎖が、今も俺とヘレナをつないでいる。
「……そういうことだったのか」
報告書で読んだのは、出来事だけだった。
誰が何をしたのか。
どんな術式が使われたのか。
それしか書かれていなかった。
そこに、ヘレナが何を感じていたのかは残っていない。
誰も死ななかったことが嬉しかった。
誰かが家族のもとへ帰れることを喜んだ。
自分の作った誓約が誰かを守ると信じていた。
それを奪われ、歪められ、自分の奇跡で泣いている子どもを見た。
そして――。
最後には、自分の力を二度と使わせないため、自分自身を縛った。
「俺も、お前のことを知らなかった」
ヘレナは、何も答えない。
俺の胸元へ伸びた銀の鎖だけが、淡く光っている。
「この世界がゲームだった頃」
「従者NPCって表示を、俺は何度も見てきた」
「自分から仕えた奴も」
「脅されて、無理やり契約された奴も」
「画面の中じゃ、全部同じ名前だった」
ヘレナが、ゆっくりと俺を見る。
「俺は、それを疑わなかった」
「奴隷なんて、この世界にはいないと思ってた」
だがそれは違った。いなかったんじゃない。
「……俺が、その向こうを見なかっただけだ」
ゲームの頃。
俺は、ヘレナを何度も倒した。
効率よく、攻略手順どおりに。
特殊勝利条件を満たし、素材を拾って帰った。
彼女が何者なのか、なぜ鎖につながれているのか、考えもしなかった。
「前の俺は、お前が誰かも知らずに倒した」
「攻略情報どおり鎖を壊して、報酬だけ持って帰った」
「……報酬」
「ああ」
「お前の力を、欲しがった奴らと同じだ」
ヘレナの瞳から、わずかな光が消える。
「やはり、あなたも……」
「だから俺を信用しろとは言わねぇよ」
言葉を遮る。
「何を言っても、今までお前を利用した奴らと同じに聞こえるだろうからな」
「……」
「ただな……」
俺は、銀色の鎖へ手を添えた。
「今度は、同じことをしたくねぇ……」
「お前が何を望んでるのかも知らずに」
「勝手に倒して、勝手に力だけ持って帰る」
「そんなことは、もうやめたい」
ヘレナが、悲しそうに首を横へ振った。
「自由にすれば、また人は争います」
「ああ……」
「誰かが、誰かを傷つけます」
「そうだな……」
「強い者が、弱い者から奪います」
「そういう奴はごまんといる」
ヘレナが、目を見開く。
「……否定しないのですか?」
「……できるわけ、ねぇだろ」
アルセディアを見れば分かる。
王家が滅びても。
制度を変えても。
すべてが正しくなるわけじゃない。
「人は争うし、間違える。それに、自由を悪用して、誰かを傷つける奴も出てくる」
「なら――」
ヘレナの鎖が、わずかに強く締まる。
「なら、縛るべきです」
「違う」
「傷つける前に止めるべきです」
「間違えるかもしれねぇからって、最初から選ぶ権利を奪っていい理由にはならねぇ」
「ですが、自由にすれば――」
「大丈夫じゃないかもしれない」
あえて、そう答えた。
「何も起きないなんて言えねぇ」
「全員が正しい選択をするとも言えねぇ」
「それでも」
俺は、銀色の鎖を握る。
「大丈夫にするのは、もうお前一人の仕事じゃねぇんだ」
「……私、一人の?」
「誰かが間違えたら、周りの奴が止める」
「倒れたら、隣にいる奴が起こす」
「それでも無理なら、俺がぶっ飛ばす」
昨日まで、アルセディアでは誰もが王の命令に従わされていた。
王がすべてを決め。
逆らう者は消された。
それを終わらせるために、俺は王にならなかった。
裁判の判決も、一人では決めなかった。
「俺は、安全だから自由にするんじゃねぇ」
「危険があっても、誰か一人が全員の人生を決めるよりマシだと思ってる」
「傷つかないために全部を縛るなんて、それこそ生きてるとは言えねぇだろ」
「でも……」
「お前一人が、全員の自由を背負う必要はねぇ」
ヘレナの唇が、震える。
「私が縛らなければ……」
「ああ」
「また、この力が使われるかもしれません」
「それは、俺たちが止める」
「あなたがいなくなったあとも?」
言葉に詰まる。
俺だって、永遠には生きられない。
この先のすべてを保証することなんてできない。
「分からねぇ」
「……」
「俺がいなくなったあとのことまでは、約束できねぇよ」
嘘は言えない。
ここで大丈夫だと笑うのは簡単だ。
だが、それでは。
自分たちなら絶対に間違えないと言った、教会の奴らと同じになる。
「だから」
俺は、ヘレナをまっすぐ見る。
「俺たちは、次の奴らへ伝える」
「お前が何をされて、その力が何に使われたのかを隠さねぇ」
「都合よく書き換えたりもしねぇ」
「誰かがまた同じことをしようとしたとき、お前の物語を知ってる奴が止められるようにする」
完璧な保証なんてない。
それでも、忘れないことならできる。
語り継ぐことならできる。
「だから、もう休め」
そこまで言いかけて、口を閉じた。
……違うな。
これじゃ、命令になっちまう。
休めと命じ。
眠れと決める。
それでは、今までの奴らと変わらない。
「……ヘレナ」
「はい」
「お前は、どうしたい?」
ヘレナが目を見開いた。
鎖が、初めて動きを止める。
「私、が?」
「ああ」
「俺がどうしてほしいかじゃねぇ。誰かを守るために、何をすべきかでもねぇ」
「お前自身が、どうしたい?」
誰かに命令されるのではなく。
誰かのために選ぶのでもなく。
自分の望みを尋ねられる。
そんなことはきっと、何百年もなかった。
「私、は……」
声が震える。
ヘレナは、すぐに答えられなかった。
唇を開いては閉じ。
何度も迷う。
望むことすら、罪だと思っているように。
「言っていいんだぞ」
「ですが……」
「何を選んでも、お前の自由だ」
長い沈黙のあと。
ヘレナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「もう……」
小さな声だった。
「もう、誰も縛りたくありません」
「ああ」
「誰にも、命じられたくありません」
「ああ」
「それから……」
銀色の鎖が、かすかに震える。
「眠りたいです」
ヘレナの涙が、次々と頬を伝っていく。
「今度こそ」
「誰かに起こされることもなく」
「誰かのために力を使わされることもなく」
「ただ……眠りたいです」
「なら、そうしろ」
「……いいのですか?」
「それを決めるのは、俺じゃねぇ」
俺は、七本目の鎖へ手を添えた。
「お前だ、ヘレナ」
ヘレナは、泣きながら笑った。
初めて戦争を止めた日のように。
誰かのためではなく。
今度は、自分の願いが認められたことを喜ぶように。
「私は……眠ります」
「ああ」
「私が、決めました」
「ああ」
「誰にも、命じられていません」
「そうだ」
ヘレナが、胸元の鎖へ手を添える。
七本目の戒鎖が、音もなくほどけ始めた。
砕けるのではない。
誰かに壊されるのでもない。
彼女自身が結んだ鎖を。
彼女自身の意思で解いていく。
銀色の光が、礼拝堂へ広がった。
俺の身体へ絡みついていた鎖も消えていく。
同時に、ヘレナの指先が淡い光へ変わり始めた。
「……消えるのか」
「はい」
ヘレナは、不思議なくらい穏やかな顔をしていた。
「長いあいだ、魂をこの場所へ固定していましたから……。鎖がなくなれば、もうここにはいられません」
「怖くないのか?」
「少しだけ」
ヘレナが、正直に答える。
「ですが、それ以上に……ほっとしています」
光になった指先を見つめ。
静かに息を吐いた。
「もう、頑張らなくてもいいのですね」
「ああ、もういいんだ……」
命令ではなく。
彼女が選んだことを、肯定する。
それだけでいい。
「私の力を、どうするのですか?」
ヘレナが尋ねる。
俺は正直に答えた。
「持って帰る」
青い瞳が、わずかに揺れる。
「やはり……」
「人を縛るためには使わねぇよ」
最後まで聞けと、目で伝える。
「奴隷紋を消すための刃に変える」
「縛られた奴を自由にするために使う」
「お前の奇跡を――今度こそ、人を解放するものに作り直す」
ヘレナは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
ほんの少しだけ、寂しそうに笑う。
「それなら……」
消えかけた手を胸へ当てる。
「私の間違いにも、少しだけ意味があったのでしょうか」
「違うな」
すぐに否定した。
「お前は間違えてねぇよ」
「でも、私が作った誓約が――」
「お前は、人を守るために作った」
「拒む権利も、契約を解く権利も、守る側の責任も、全部残した」
「それを壊したのは、お前じゃねぇ」
「お前の願いを利用した奴らが間違えたんだ」
ヘレナの青い瞳が、大きく見開かれる。
「だから、お前が背負う必要はねぇよ」
「お前が作った奴隷紋じゃない」
「あなたは……」
ヘレナが声を詰まらせる。
「私を、許してくださるのですか?」
「許すも何も、最初からお前の罪じゃねぇ」
その言葉を聞いた瞬間。
ヘレナの顔が、くしゃりと歪んだ。
静かに流していた涙が、止まらなくなる。
「私……ずっと、自分のせいだと思っていました」
「ああ」
「私が、あの術式を作らなければ」
「私が、奇跡を使わなければ」
「あの子たちは……」
「違う」
肩へ手を置く。
触れている感覚は、もうほとんどない。
「お前の優しさを悪用した奴らが悪い」
「お前は誰かを守ろうとした」
「そのことまで……間違いにすんじゃねぇよ」
ヘレナは何度も頷いた。
子どものように泣きながら。
「……はい」
それでも。
最後には、笑っていた。
「ありがとうございます」
身体の半分以上が、光へ変わっている。
「騎士様」
「なんだ?」
「エルドは……」
ボス部屋の前で消えた、あのリッチ。
記憶の中で、ヘレナを逃がそうとしていた若い司祭。
「司祭エルドは、まだ大聖堂にいますか?」
「さっき会ったよ」
「そう……ですか」
「あいつも、最後までお前のことを心配してたぞ」
ヘレナが、泣きそうな顔で笑う。
「……なんと?」
「ヘレナ様を、どうか安らかにって」
それを聞き。
ヘレナは、ゆっくりと目を閉じた。
「エルドらしいですね」
「あいつも、もう消えた」
「そうですか……」
寂しそうに。
それでも、どこか安心したように呟く。
「それなら、寂しくありませんね」
「ああ、先に行って待ってんじゃねぇか?」
「ずいぶんと待たせてしまいました」
「文句の一つくらい言われるかもな」
「では、謝らなければなりませんね……」
ヘレナが微笑む。
その姿が、完全に光へ溶けていく。
「騎士様」
「なんだ?」
「最後に一つだけ」
「ああ」
「私は……聖女でいられたでしょうか?」
少しだけ考える。
教会が作り上げた、都合のいい聖女じゃない。
誰にも迷わず。
弱音を吐かず。
すべてを赦し続ける、そんな作り物でもない。
「知らねぇよ」
ヘレナが目を丸くする。
「俺が知ってんのは――」
「怖くても戦場へ出て」
「誰も死なせたくないって願って」
「最後まで、誰かの自由を守ろうとした一人の女だ」
「それで十分だろ?」
聖女なんて肩書きがなくても。
彼女が成したことは消えない。
ヘレナは、少しだけ困ったように。
それから。
心の底から嬉しそうに笑った。
「……はい」
その一言を残し。
鎖の聖女ヘレナは、光となって消えた。
視界の端に、見慣れた文字が浮かぶ。
『ユニークボス『鎖の聖女ヘレナ』』
『特殊勝利条件を達成しました』
昔の俺なら。
真っ先に報酬欄を確認していただろう。
獲得経験値。討伐時間。希少素材。
だが、今はどうでもよかった。
最後の光が消えるまで。
俺は、何もない空間を見つめ続けた。
♢
祭壇の上に、二つの結晶が残されていた。
一つは透明な刃のような形をした、白銀の結晶。
『解戒の聖核』
奴隷紋や強制契約を解除する術式の核。
破邪の短剣を作るための素材だ。
もう一つは、小さな銀色の鎖が幾重にも絡み合った結晶。
『七戒の鎖核』
武器『ズィーヴェン』――別名、天理の鎖を作るための核。
人を縛るために使われた鎖が。
今度は、仲間を守り。
誰かの暴力だけを止める武器へ変わる。
二つの素材を拾い上げる。
――軽い。
だが、その中に込められたものは、あまりにも重かった。
俺は、崩れた祭壇から大きな石を一つ切り出した。
フィーアを使い、表面を平らに削る。
ゲームだった頃、ボスを倒したあと墓を作ったことなんて一度もない。
討伐ログが流れ、素材が落ち、次の周回へ向かう。
それだけだった。
今回は違う。
石へ、ゆっくりと文字を刻む。
『聖女ヘレナ』
『数多の命と自由を守り、ここに眠る』
そして。
最後に、もう一行を加えた。
『もう、誰にも命じられなくていい』
祭壇の周囲に咲いていた、枯れない白い花。
そのうちの一輪を摘み、墓標の前へ置く。
ゲームだった頃。
俺が残したのは、討伐記録だけだった。
何分で倒したのか。
どんな素材が落ちたのか。
誰より早く攻略したのか。
そんな数字だけだ。
だから今回は、ヘレナの名前を刻んだ。
彼女が何を成し。
何を奪われ。
最後まで、何を守ろうとしたのか。
もう二度と、読み飛ばさないために。
俺は墓標の前で、静かに手を合わせた。
人を縛るために使われた聖女の奇跡を。
今度こそ、人を自由にするための刃へ変える。
それが――。
彼女の物語を知った俺にできる、せめてもの礼だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、鎖の聖女ヘレナが背負ってきた物語と、七本目の戒鎖を解くまでを描きました。
命令され続けてきたヘレナに対し、リンドウが最後に選んだのは、何かを命じることではありません。
「お前は、どうしたい?」
その問いによって、ヘレナはようやく、自分の意思で眠ることを選びました。
しかし、ヘレナから託された物語は、まだ終わっていません。
人を縛るために歪められた奇跡を『破邪の短剣』へ変え、アルセディアに残る奴隷紋をすべて解放するまでが、リンドウの役目です。
次話、ヘレナの奇跡が人を自由にする刃へと生まれ変わります。
次話もよろしくお願いいたします。




