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REMNANT RECORD~ストーリー未読の世界一位の廃ゲーマーは、倒した敵の物語を知らない~  作者: 霜月ルイ
第二章:鎖の聖女『ヘレナ』編

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44:覇王、何も命じない

「次は――誰を縛ればいいのですか?」


 七本目の戒鎖が、俺とヘレナの魂をつないだ。

 銀色の鎖が胸の奥へ食い込む。


 痛みはなかった。

 それでも、自分の内側へ他人の指を差し込まれたような、言いようのない不快感がある。


 右手には、まだフィーアを握っていた。

 腰には双剣『ツヴァイ』。


 鎖を断ち切ろうと思えば、今すぐにでも刃を振るえる。

 だが、七本目へ攻撃を加えれば、砕いた六本の戒鎖がすべて復活する。


 ――特殊勝利条件。


 すべての武器を解除し。

 七本目の契約を拒まず。

 最後まで、ヘレナへ一度も命令しない。


 攻略サイトに書かれていたのは、ただそれだけだった。


「……分かったよ」


 フィーアから手を離す。

 巨投剣が、重い音を立てて石床へ落ちた。


 続いて、腰から双剣を外す。

 望めばいつでも呼び戻せる。


 だが、それすらしないと決め、二振りの剣を床へ置いた。


 防具に仕込んだ暗器。

 投擲用の小刀。

 予備の魔導具。

 武器として扱われるものを、一つずつ解除していく。


 最後の短剣を手放した瞬間。

 銀色の鎖が、俺の魂へ深く沈み込んだ。


 視界が白く染まる。


 礼拝堂も。祭壇も。腕の中にいるヘレナの姿も消えた。


 代わりに流れ込んできたのは、報告書の文字では分からなかった――彼女自身の記憶だった。


 ♢


 そこは、戦場だった。


 焼けた草の匂い。

 血に濡れた地面。

 怒号を上げながら、敵味方の兵士たちが互いへ刃を振り下ろしている。


 その真ん中に、まだ幼さの残る少女が一人で立っていた。


 今よりも短い銀金色の髪。

 簡素な白い衣。

 震える両手を胸の前で組み、少女は祈っていた。


『お願い……』


 泣いている。


 怖くて、足が震えて、きっと今にも逃げ出したいはずなのに。


『もう、誰も殺さないで』


 少女が両手を広げた。


 光が弾ける。

 無数の鎖が戦場を駆け抜けた。


 だが、人の身体には巻きつかない。


 剣を縛り、槍を絡め取り、弓の弦を断ち、魔術を放とうとした腕をその直前で止める。

 

 敵も味方も関係なかった。

 ただ、誰かが誰かを殺すための力だけを、少女は封じた。


 やがて、戦場から音が消えた。

 兵士たちは呆然と、自分たちの手元を見下ろしている。

 死者は、一人も出なかった。


『……よかった』


 少女が、崩れるように膝をつく。

 本当に嬉しそうに。

 涙を流しながら笑った。


 そこへ、一人の兵士が近づく。

 少女は怯えたように身体を縮めた。


 だが、男は武器を捨て。

 彼女の前へ膝をついた。


『ありがとう』


 男の声も震えていた。


『あなたのおかげで、娘のところへ帰れる』


 男が胸元から、小さな木彫りの人形を取り出す。

 幼い娘が作ったものなのだろう。

 歪な形の人形を、男は何より大切そうに握っていた。


『帰ったら、もう剣は捨てる』


『畑を耕して、娘と暮らす』


『本当に……ありがとう』


 少女は、その言葉を何度も心の中で繰り返した。


 娘のところへ帰れる。


 誰かが、誰かのもとへ帰れる。

 そのために、自分の力が使える。


 それが、嬉しかった。


 ただ、それだけだった。


 ♢


 景色が変わる。


 戦争が終わったあとの街。

 家を焼かれた者。

 国境を追われた者。

 親を失った子どもたち。

 帰る場所のない人間が、通りに溢れていた。


 彼らの多くは、食事と寝床を求め、騎士や商人、領主のもとで働くことを望んだ。

 だが、庇護を与えるという名目で、人を所有しようとする者もいた。

 少女は、それを止めるために一つの誓約を作った。


 随行誓約。


 従う者だけではなく。

 守る者もまた、その責任に縛られる契約。


『本当に、この方のもとで働きたいのですか?』


 ヘレナが、痩せた少年へ尋ねる。

 少年の隣には、一人の老騎士が立っていた。

 戦争で家族を失った少年は、老騎士の従者になることを選んだ。


『はい』


『食事を与えていただきました』


『剣も教えてくださるそうです』


『いつか俺も、この人みたいな騎士になりたいんです』


 ヘレナは、すぐには契約しなかった。


『嫌になったら、いつでもやめていいのですよ』


『はい』


『命じられたことが怖ければ、断ってもいいのです』


『はい』


『この方があなたを守らなかったときも、誓約を解いて構いません』


『分かっています』


 何度も、何度も確認した。

 老騎士にも、同じだけの言葉を投げかけた。


『この子を、あなたの所有物にしてはいけません』


『分かっている』


『命じる以上、あなたにも責任があります』


『承知している』


『この子が去ることを選んだとき、妨げてはいけません』


『誓おう』


 二人が同意したのを確認して。

 初めて、ヘレナは契約を結んだ。


 淡い光が、少年と老騎士をつなぐ。

 少年は胸元に浮かんだ紋章を見て、嬉しそうに笑った。


『これで、俺も従者ですね!』


『そうですね』


 ヘレナも笑った。


『ですが、あなたはあなたのままです』


『誰かのものになったわけではありません』


 その言葉が。

 後に、すべて消されることになるとも知らずに。


 ♢


 契約書が、机の上へ置かれていた。


 見慣れた随行誓約。

 だが、その文章には赤い線が引かれている。


 従者側の解除権。

 主側の保護義務。

 契約外の命令を拒否する権利。


 それらが、一つずつ削られていた。


『この変更は認められません』


 ヘレナが、教会の高位聖職者たちへ訴える。


『戦争捕虜や犯罪者に、自由な解除権など与えられません』


『ですが、誤って捕らえられた者がいたらどうするのですか』


『審問の結果を疑うのですか?』


『人は間違えます』


 その言葉に、聖職者たちの顔から笑みが消えた。


『聖女ヘレナ』


『あなたは奇跡を与える者です』


『制度を決めるのは、我々の役目です』


『この誓約を作ったのは私です』


『いいえ』


 男は、静かに首を横へ振った。


『この術式は、女神が教会へ与えたものです』


『あなたは、それを形にしたにすぎません』


 机の上へ、新しい契約書が置かれる。


 随行誓約ではない。

 従者契約。


 その下には、ヘレナの名前さえ記されていなかった。


 彼女の許可なく。

 彼女の願いとは関係なく。

 人を守るための鎖は、少しずつ人を縛るための道具へ作り変えられていった。


 ♢


 暗い地下室。

 泣き声が響いている。


 小さな少女が、祭壇へ縛りつけられていた。


 十歳にも届いていない。


 胸元へ焼きつけられようとしているのは、ヘレナが作ったものと同じ契約紋。


 だが、そこには相互の誓約などない。


 あるのは、命令への絶対服従だけだった。


『嫌だと言ったら……』


 少女が、震える声で尋ねる。


『また、痛いことをされますか?』


 その言葉を聞いた瞬間、ヘレナの中で何かが壊れた。


『その子から離れてください!』


 聖職者たちが振り返る。


『これは教会の決定です』


『その子は罪人の娘です』


『だから何ですか……』


『将来、教会へ反逆する可能性があります』


『まだ、何もしていない子どもです!』


『罪の芽を摘むことも、秩序を守るために必要なのです』


『そんなものを、秩序とは呼びません!』


 ヘレナの足元から、鎖が伸びる。

 兵士たちの武器を絡め取り。

 聖職者たちの腕を壁へ縫い止めた。


 誰も殺さない。


 それでも、今度の鎖には確かな怒りが込められていた。


 少女の胸へ刻みかけられていた術式を消し。

 地下牢に捕らえられていた人々の契約を、一人ずつ解いていく。


『外へ出てください』


『もう、誰の命令にも従わなくていいのです』


『逃げて』


 扉を開き、人々を外へ送り出す。


 自分の奇跡が生んだものを――自分の手で、すべて壊そうとした。


 ♢


 大聖堂の前。


 大勢の人々が集まっていた。

 ヘレナは階段の上へ立ち。

 教会が行ってきたことを、すべて話そうとしていた。


『随行誓約は、教会の所有物ではありません』


『人を支配するためのものでもありません』


『教会は――』


 声が消えた。


 首へ青い鎖が巻きついている。

 聖職者たちが、彼女の声を封じた。


 兵士が両腕を拘束し。

 黒い鎖が逃げ道を塞ぐ。


『聖女様は、長年の祈りによってお疲れなのです』


 群衆へ向けて。

 司祭が、穏やかな声で嘘をつく。


『皆様の罪を背負い、心を痛めておられます』


『これより聖女様は、永遠の祈りへ入られます』


 ヘレナは首を横へ振った。


 違う!

 そんなことは望んでいない!


 だが、声が出ない。


 誰にも届かない。


 その日から、一人の少女としてのヘレナは記録から消された。


 残されたのは――。

 自ら永遠の祈りを選んだ、都合のいい聖女だけだった。


 ♢


 森の中。


 逃がした人々と、ヘレナは身を隠していた。

 数日の間だけ、初めて教会から自由になれた。


 だが、そこへ。

 一人の若い司祭が駆け込んでくる。


『ヘレナ様!』


 黒い髪。まだ若い顔。

 大聖堂の最深部でリッチとなっていた、あの聖職者だった。


『エルド』


 ヘレナが、その名前を呼ぶ。


『教会が、逃亡者たちの家族を捕らえました』


 司祭エルドの声が震える。


『あなたが戻らなければ、全員を処刑すると』


 周囲の者たちが息を呑む。


『私たちは大丈夫です……』


 逃がされた少女の母親が言う。


『戻ってはいけません』


『ですが、皆さんの家族が!』


『あなたが犠牲になる必要はありません!』


 何人もの人が、ヘレナを止める。

 それでも、ヘレナは戻ることを選んだ。


『私が戻れば、皆さんは助かるのですね……?』


『教会が約束を守る保証はありません!』


『それでも』


 ヘレナは笑った。


 怖くないはずがない。


 戻れば、何をされるのか分かっていた。


 それでも――。


『私が戻らなければ、きっと後悔します』


 それが。


 誰かのために選んだ、彼女自身の最後の自由だった。


 ♢


 冷たい石の祭壇。


 両手を赤い鎖で縛られ。


 声を青い鎖で奪われ。


 力を白い鎖で封じられ。


 逃げ道を黒い鎖で閉ざされ。


 名前と記憶を金の鎖で削られ。


 死ぬことさえ、透明の鎖で禁じられた。


『随行誓約の根幹術式を抽出しろ』


『被験者の意識が落ちています』


『起こせ』


『肉体の損傷が限界です』


『再生させろ』


魂核(こんかく)の固定を強めろ』


 人の声がする。


 まるで、目の前にいるものが人間ではないように。


 ヘレナは、何度も訴えた。


『私は、誰も縛りたくありません!』


 聞き入れられなかった。


『この力を使わないでください!』


 無視された。


『もう、やめて……!』


 やがて、声を出すことすら許されなくなった。


 それから、どれだけの時間が流れたのか。


 教会は滅びた。

 祈りを捧げる者もいなくなった。


 それでも、ヘレナは死ねなかった。


 ときおり、大聖堂へ人がやってきた。


 王。貴族。奴隷商。冒険者。


 皆、同じ目をしていた。


『聖女の力が欲しい』


『この国の秩序を守るためだ』


『反逆者を従わせるために必要なのだ』


『争いをなくすために使う』


 誰一人として、鎖につながれた少女へ何を望んでいるのか尋ねなかった。

 誰も、彼女を解放しようとはしなかった。


 そしてヘレナは、自分の力を守るために、自分自身へ最後の鎖を巻いた。


『もう、誰にも渡しません』


 銀色の鎖が、魂へ沈んでいく。


『私がここで止め続ければ』


『誰も、この力で人を縛れない』


 それが――七本目の戒鎖。


 誰かに巻きつけられたものではない。


 ヘレナが自分の意思で作った。


 自分と、自分の奇跡を、永遠に閉じ込めるための鎖だった。


 ♢


 視界が戻る。

 俺は礼拝堂の床へ片膝をついていた。

 銀色の鎖が、今も俺とヘレナをつないでいる。


「……そういうことだったのか」


 報告書で読んだのは、出来事だけだった。


 誰が何をしたのか。

 どんな術式が使われたのか。


 それしか書かれていなかった。


 そこに、ヘレナが何を感じていたのかは残っていない。


 誰も死ななかったことが嬉しかった。

 誰かが家族のもとへ帰れることを喜んだ。

 自分の作った誓約が誰かを守ると信じていた。


 それを奪われ、歪められ、自分の奇跡で泣いている子どもを見た。


 そして――。


 最後には、自分の力を二度と使わせないため、自分自身を縛った。


「俺も、お前のことを知らなかった」


 ヘレナは、何も答えない。


 俺の胸元へ伸びた銀の鎖だけが、淡く光っている。


「この世界がゲームだった頃」


「従者NPCって表示を、俺は何度も見てきた」


「自分から仕えた奴も」


「脅されて、無理やり契約された奴も」


「画面の中じゃ、全部同じ名前だった」


 ヘレナが、ゆっくりと俺を見る。


「俺は、それを疑わなかった」


「奴隷なんて、この世界にはいないと思ってた」


 だがそれは違った。いなかったんじゃない。


「……俺が、その向こうを見なかっただけだ」


 ゲームの頃。


 俺は、ヘレナを何度も倒した。


 効率よく、攻略手順どおりに。

 特殊勝利条件を満たし、素材を拾って帰った。


 彼女が何者なのか、なぜ鎖につながれているのか、考えもしなかった。


「前の俺は、お前が誰かも知らずに倒した」


「攻略情報どおり鎖を壊して、報酬だけ持って帰った」


「……報酬」


「ああ」


「お前の力を、欲しがった奴らと同じだ」


 ヘレナの瞳から、わずかな光が消える。


「やはり、あなたも……」


「だから俺を信用しろとは言わねぇよ」


 言葉を遮る。


「何を言っても、今までお前を利用した奴らと同じに聞こえるだろうからな」


「……」


「ただな……」


 俺は、銀色の鎖へ手を添えた。


「今度は、同じことをしたくねぇ……」


「お前が何を望んでるのかも知らずに」


「勝手に倒して、勝手に力だけ持って帰る」


「そんなことは、もうやめたい」


 ヘレナが、悲しそうに首を横へ振った。


「自由にすれば、また人は争います」


「ああ……」


「誰かが、誰かを傷つけます」


「そうだな……」


「強い者が、弱い者から奪います」


「そういう奴はごまんといる」


 ヘレナが、目を見開く。


「……否定しないのですか?」


「……できるわけ、ねぇだろ」


 アルセディアを見れば分かる。


 王家が滅びても。

 制度を変えても。

 すべてが正しくなるわけじゃない。


「人は争うし、間違える。それに、自由を悪用して、誰かを傷つける奴も出てくる」


「なら――」


 ヘレナの鎖が、わずかに強く締まる。


「なら、縛るべきです」


「違う」


「傷つける前に止めるべきです」


「間違えるかもしれねぇからって、最初から選ぶ権利を奪っていい理由にはならねぇ」


「ですが、自由にすれば――」


「大丈夫じゃないかもしれない」


 あえて、そう答えた。


「何も起きないなんて言えねぇ」


「全員が正しい選択をするとも言えねぇ」


「それでも」


 俺は、銀色の鎖を握る。


「大丈夫にするのは、もうお前一人の仕事じゃねぇんだ」


「……私、一人の?」


「誰かが間違えたら、周りの奴が止める」


「倒れたら、隣にいる奴が起こす」


「それでも無理なら、俺がぶっ飛ばす」


 昨日まで、アルセディアでは誰もが王の命令に従わされていた。


 王がすべてを決め。

 逆らう者は消された。


 それを終わらせるために、俺は王にならなかった。


 裁判の判決も、一人では決めなかった。


「俺は、安全だから自由にするんじゃねぇ」


「危険があっても、誰か一人が全員の人生を決めるよりマシだと思ってる」


「傷つかないために全部を縛るなんて、それこそ生きてるとは言えねぇだろ」


「でも……」


「お前一人が、全員の自由を背負う必要はねぇ」


 ヘレナの唇が、震える。


「私が縛らなければ……」


「ああ」


「また、この力が使われるかもしれません」


「それは、俺たちが止める」


「あなたがいなくなったあとも?」


 言葉に詰まる。


 俺だって、永遠には生きられない。


 この先のすべてを保証することなんてできない。


「分からねぇ」


「……」


「俺がいなくなったあとのことまでは、約束できねぇよ」


 嘘は言えない。


 ここで大丈夫だと笑うのは簡単だ。


 だが、それでは。


 自分たちなら絶対に間違えないと言った、教会の奴らと同じになる。


「だから」


 俺は、ヘレナをまっすぐ見る。


「俺たちは、次の奴らへ伝える」


「お前が何をされて、その力が何に使われたのかを隠さねぇ」


「都合よく書き換えたりもしねぇ」


「誰かがまた同じことをしようとしたとき、お前の物語を知ってる奴が止められるようにする」


 完璧な保証なんてない。


 それでも、忘れないことならできる。

 語り継ぐことならできる。


「だから、もう休め」


 そこまで言いかけて、口を閉じた。


 ……違うな。

 これじゃ、命令になっちまう。


 休めと命じ。

 眠れと決める。


 それでは、今までの奴らと変わらない。


「……ヘレナ」


「はい」


「お前は、どうしたい?」


 ヘレナが目を見開いた。

 鎖が、初めて動きを止める。


「私、が?」


「ああ」


「俺がどうしてほしいかじゃねぇ。誰かを守るために、何をすべきかでもねぇ」


「お前自身が、どうしたい?」


 誰かに命令されるのではなく。

 誰かのために選ぶのでもなく。

 自分の望みを尋ねられる。


 そんなことはきっと、何百年もなかった。


「私、は……」


 声が震える。


 ヘレナは、すぐに答えられなかった。


 唇を開いては閉じ。

 何度も迷う。


 望むことすら、罪だと思っているように。


「言っていいんだぞ」


「ですが……」


「何を選んでも、お前の自由だ」


 長い沈黙のあと。


 ヘレナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「もう……」


 小さな声だった。


「もう、誰も縛りたくありません」


「ああ」


「誰にも、命じられたくありません」


「ああ」


「それから……」


 銀色の鎖が、かすかに震える。


「眠りたいです」


 ヘレナの涙が、次々と頬を伝っていく。


「今度こそ」


「誰かに起こされることもなく」


「誰かのために力を使わされることもなく」


「ただ……眠りたいです」


「なら、そうしろ」


「……いいのですか?」


「それを決めるのは、俺じゃねぇ」


 俺は、七本目の鎖へ手を添えた。


「お前だ、ヘレナ」


 ヘレナは、泣きながら笑った。


 初めて戦争を止めた日のように。

 誰かのためではなく。

 今度は、自分の願いが認められたことを喜ぶように。


「私は……眠ります」


「ああ」


「私が、決めました」


「ああ」


「誰にも、命じられていません」


「そうだ」


 ヘレナが、胸元の鎖へ手を添える。


 七本目の戒鎖が、音もなくほどけ始めた。


 砕けるのではない。

 誰かに壊されるのでもない。


 彼女自身が結んだ鎖を。

 彼女自身の意思で解いていく。


 銀色の光が、礼拝堂へ広がった。


 俺の身体へ絡みついていた鎖も消えていく。

 同時に、ヘレナの指先が淡い光へ変わり始めた。


「……消えるのか」


「はい」


 ヘレナは、不思議なくらい穏やかな顔をしていた。


「長いあいだ、魂をこの場所へ固定していましたから……。鎖がなくなれば、もうここにはいられません」


「怖くないのか?」


「少しだけ」


 ヘレナが、正直に答える。


「ですが、それ以上に……ほっとしています」


 光になった指先を見つめ。


 静かに息を吐いた。


「もう、頑張らなくてもいいのですね」


「ああ、もういいんだ……」


 命令ではなく。


 彼女が選んだことを、肯定する。


 それだけでいい。


「私の力を、どうするのですか?」


 ヘレナが尋ねる。


 俺は正直に答えた。


「持って帰る」


 青い瞳が、わずかに揺れる。


「やはり……」


「人を縛るためには使わねぇよ」


 最後まで聞けと、目で伝える。


「奴隷紋を消すための刃に変える」


「縛られた奴を自由にするために使う」


「お前の奇跡を――今度こそ、人を解放するものに作り直す」


 ヘレナは、しばらく何も言わなかった。


 やがて。


 ほんの少しだけ、寂しそうに笑う。


「それなら……」


 消えかけた手を胸へ当てる。


「私の間違いにも、少しだけ意味があったのでしょうか」


「違うな」


 すぐに否定した。


「お前は間違えてねぇよ」


「でも、私が作った誓約が――」


「お前は、人を守るために作った」


「拒む権利も、契約を解く権利も、守る側の責任も、全部残した」


「それを壊したのは、お前じゃねぇ」


「お前の願いを利用した奴らが間違えたんだ」


 ヘレナの青い瞳が、大きく見開かれる。


「だから、お前が背負う必要はねぇよ」


「お前が作った奴隷紋じゃない」


「あなたは……」


 ヘレナが声を詰まらせる。


「私を、許してくださるのですか?」


「許すも何も、最初からお前の罪じゃねぇ」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ヘレナの顔が、くしゃりと歪んだ。


 静かに流していた涙が、止まらなくなる。


「私……ずっと、自分のせいだと思っていました」


「ああ」


「私が、あの術式を作らなければ」


「私が、奇跡を使わなければ」


「あの子たちは……」


「違う」


 肩へ手を置く。


 触れている感覚は、もうほとんどない。


「お前の優しさを悪用した奴らが悪い」


「お前は誰かを守ろうとした」


「そのことまで……間違いにすんじゃねぇよ」


 ヘレナは何度も頷いた。


 子どものように泣きながら。


「……はい」


 それでも。


 最後には、笑っていた。


「ありがとうございます」


 身体の半分以上が、光へ変わっている。


「騎士様」


「なんだ?」


「エルドは……」


 ボス部屋の前で消えた、あのリッチ。


 記憶の中で、ヘレナを逃がそうとしていた若い司祭。


「司祭エルドは、まだ大聖堂にいますか?」


「さっき会ったよ」


「そう……ですか」


「あいつも、最後までお前のことを心配してたぞ」


 ヘレナが、泣きそうな顔で笑う。


「……なんと?」


「ヘレナ様を、どうか安らかにって」


 それを聞き。


 ヘレナは、ゆっくりと目を閉じた。


「エルドらしいですね」


「あいつも、もう消えた」


「そうですか……」


 寂しそうに。


 それでも、どこか安心したように呟く。


「それなら、寂しくありませんね」


「ああ、先に行って待ってんじゃねぇか?」


「ずいぶんと待たせてしまいました」


「文句の一つくらい言われるかもな」


「では、謝らなければなりませんね……」


 ヘレナが微笑む。


 その姿が、完全に光へ溶けていく。


「騎士様」


「なんだ?」


「最後に一つだけ」


「ああ」


「私は……聖女でいられたでしょうか?」


 少しだけ考える。


 教会が作り上げた、都合のいい聖女じゃない。


 誰にも迷わず。

 弱音を吐かず。

 すべてを赦し続ける、そんな作り物でもない。


「知らねぇよ」


 ヘレナが目を丸くする。


「俺が知ってんのは――」


「怖くても戦場へ出て」


「誰も死なせたくないって願って」


「最後まで、誰かの自由を守ろうとした一人の女だ」


「それで十分だろ?」


 聖女なんて肩書きがなくても。

 彼女が成したことは消えない。


 ヘレナは、少しだけ困ったように。


 それから。


 心の底から嬉しそうに笑った。


「……はい」


 その一言を残し。

 鎖の聖女ヘレナは、光となって消えた。


 視界の端に、見慣れた文字が浮かぶ。


『ユニークボス『鎖の聖女ヘレナ』』


『特殊勝利条件を達成しました』


 昔の俺なら。


 真っ先に報酬欄を確認していただろう。


 獲得経験値。討伐時間。希少素材。


 だが、今はどうでもよかった。


 最後の光が消えるまで。

 俺は、何もない空間を見つめ続けた。


 ♢


 祭壇の上に、二つの結晶が残されていた。


 一つは透明な刃のような形をした、白銀の結晶。


『解戒の聖核』


 奴隷紋や強制契約を解除する術式の核。


 破邪の短剣(スペルブレイカー)を作るための素材だ。


 もう一つは、小さな銀色の鎖が幾重にも絡み合った結晶。


『七戒の鎖核』


 武器『ズィーヴェン』――別名、天理の鎖を作るための核。


 人を縛るために使われた鎖が。

 今度は、仲間を守り。

 誰かの暴力だけを止める武器へ変わる。


 二つの素材を拾い上げる。


 ――軽い。


 だが、その中に込められたものは、あまりにも重かった。


 俺は、崩れた祭壇から大きな石を一つ切り出した。

 フィーアを使い、表面を平らに削る。


 ゲームだった頃、ボスを倒したあと墓を作ったことなんて一度もない。


 討伐ログが流れ、素材が落ち、次の周回へ向かう。

 それだけだった。


 今回は違う。


 石へ、ゆっくりと文字を刻む。


『聖女ヘレナ』


『数多の命と自由を守り、ここに眠る』


 そして。


 最後に、もう一行を加えた。


『もう、誰にも命じられなくていい』


 祭壇の周囲に咲いていた、枯れない白い花。

 そのうちの一輪を摘み、墓標の前へ置く。


 ゲームだった頃。

 俺が残したのは、討伐記録だけだった。


 何分で倒したのか。

 どんな素材が落ちたのか。

 誰より早く攻略したのか。

 そんな数字だけだ。


 だから今回は、ヘレナの名前を刻んだ。


 彼女が何を成し。

 何を奪われ。

 最後まで、何を守ろうとしたのか。


 もう二度と、読み飛ばさないために。


 俺は墓標の前で、静かに手を合わせた。


 人を縛るために使われた聖女の奇跡を。

 今度こそ、人を自由にするための刃へ変える。


 それが――。


 彼女の物語を知った俺にできる、せめてもの礼だった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、鎖の聖女ヘレナが背負ってきた物語と、七本目の戒鎖を解くまでを描きました。

命令され続けてきたヘレナに対し、リンドウが最後に選んだのは、何かを命じることではありません。


「お前は、どうしたい?」


その問いによって、ヘレナはようやく、自分の意思で眠ることを選びました。

しかし、ヘレナから託された物語は、まだ終わっていません。


人を縛るために歪められた奇跡を『破邪の短剣』へ変え、アルセディアに残る奴隷紋をすべて解放するまでが、リンドウの役目です。

次話、ヘレナの奇跡が人を自由にする刃へと生まれ変わります。


次話もよろしくお願いいたします。

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