43:覇王、聖女の物語を読む
振り下ろされた鎖が、礼拝堂を引き裂いた。
石床が爆ぜる寸前、俺は横へ跳ぶ。
砕けた石片が頬をかすめた。
宙をうねる六本の鎖は、それぞれ色も輝きも違っている。
赤。青。白。黒。金。
そして、輪郭すら曖昧な透明の鎖。
ゲーム時代に見慣れた攻略順と同じだ。
ヘレナ本人への直接攻撃は禁止。
鎖は、赤、青、白、黒、金、透明の順で破壊する。
最終段階では、装備している武器をすべて解除。
七本目の鎖による契約を受け入れ。
最後まで、ヘレナへ命令してはいけない。
攻略サイトに書かれていたのは、それだけだった。
なぜそうする必要があるのかなんて、考えたこともなかった。
「従ってください」
ヘレナが、祈るように両手を組む。
「命令に従えば、痛くありません」
赤い鎖が床へ突き刺さった。
瞬間――礼拝堂全体が、上から押し潰された。
「ぐっ……!」
両足が石床へ沈む。
背中へ山でも載せられたような圧力。
膝が折れかける。
第一戒鎖――『圧跪』。
強制跪拝と重力操作。
ゲームなら、耐性装備で無効化して終わりだった。
だが今は、この鎖が何を捻じ曲げられたものなのかを知っている。
ミラの報告書に残されていた、ヘレナ最初の記録。
戦争のまっただ中。
敵味方三百人以上が入り乱れる戦場へ、十四歳の少女が一人で踏み込んだ。
彼女が縛ったのは、人間ではない。
剣。槍。弓。魔術を放つ腕。
誰かが誰かを殺すために振るうものだけを、鎖で止めた。
『私は、誰かを従わせたいのではありません』
報告書に残された、彼女の言葉。
『ただ、誰にも誰かを殺してほしくないのです』
最初の鎖は、服従のための鎖じゃなかった。
争いを止めるための鎖だった。
「悪いな」
俺はフィーアを両手で握り直す。
「俺は、跪く趣味はねぇんだ」
圧力へ逆らい、一歩踏み出す。
二歩目、赤い鎖が俺を押し潰そうと、さらに魔力を増した。
それでも進む。
フィーアを振り上げ、鎖の接続核へ叩きつけた。
――轟音。
赤い戒鎖が砕け散る。
ヘレナの身体が、小さく跳ねた。
「……どうして」
悲しそうな声が漏れる。
答える暇はなかった。
次は青い鎖が震える。
「黙ってください」
第二戒鎖――『沈黙』。
音が消えた。
鎖の音も。風も。自分の呼吸さえ聞こえない。
口を開いても、声が出ない。
スキル名も、詠唱も。
意思を音へ変えることすら封じられる。
青い鎖が、槍のように飛来した。
俺は身をひねってかわし、石柱を蹴る。
空中でフィーアを回転させ、二撃目を受け流した。
声なんてなくても、戦える。
だが、ヘレナは違った。
報告書に残っていた、随行誓約の原文。
『従う者には、拒む権利がある』
『守る者には、命じた責任がある』
『いずれかが望めば、誓約は解かれる』
帰る場所を失った戦争孤児。
国境を追われた流民。
雇い主に使い潰される傭兵。
誰かの庇護を必要とする者たちが、一方的に所有されないよう作られた契約。
それが、随行誓約だった。
ゲーム時代の『従者登録』。
あのシステムの原型。
俺が見ていたのは、能力値と配置先だけ。
だが、その始まりには。
拒む権利を守ろうとした少女がいた。
青い鎖が、再び迫る。
俺はフィーアを逆手に持ち替え、滑るように懐へ入った。
そのまま、接続核を斬り上げる。
音のない世界で、青い鎖が砕けた。
次の瞬間、すべての音が戻る。
鎖の破片が床へ落ちる音。
荒い自分の息。
そして――。
「……どうして、逆らうのですか」
ヘレナの声。
白い鎖が、淡く光った。
第三戒鎖――『剥奪』。
フィーアが、俺の手から強引に引き剥がされる。
「おっと」
床へ落ちる前に掴み直そうとするが、白い鎖が柄へ巻きつき、遠くへ放り投げた。
続いて、腰の双剣『ツヴァイ』まで抜き取られる。
二つの武器は、礼拝堂の壁へ縫い止められた。
「武器を捨ててください」
「今はまだ、その段階じゃねぇよ」
特殊勝利の最後には、自分から武器を手放す必要がある。
だが、ここで奪われるのは違う。
俺は飛来する鎖を素手でかわし、壁へ駆け上がる。
白い戒鎖の接続核は天井近く。
武器がないなら、取り戻せばいい!!
空中で手を伸ばす。
「来い、フィーア!」
床へ固定されていた巨投剣が震えた。
白い鎖を引きちぎり、俺の手へ飛び戻る。
その瞬間――報告書の改訂記録が、頭をよぎった。
最初は、犯罪者と戦争捕虜だけだった。
次に、借金を返せない者。
異端者。孤児。そして、ただ教会へ逆らった者。
契約文から、一行ずつ権利が消された。
契約外命令への拒否権。
契約解除権。
主側の保護義務。
最後に残ったのは。
『従者は、契約主の命令に従う』
ただ、それだけ。
「捨てたのは、こいつらの権利か」
フィーアを振り抜く。
白い鎖が、真っ二つに断たれた。
砕けた破片が、雪のように舞う。
ヘレナの顔が苦痛に歪んだ。
「……逃がしません」
黒い鎖が床を這う。
第四戒鎖――『束縛』。
礼拝堂の空間がねじれた。
俺は横へ跳んだはずなのに、次の瞬間には元いた場所へ戻されている。
前へ進んでも、後ろへ下がっても、同じ地点へ戻る。
黒い鎖が、何度も俺の身体をかすめた。
回避だけじゃ、永遠に届かない。
「嫌だと言ったら……」
不意に、ヘレナの唇から知らない声が漏れた。
「また、痛いことをされますか?」
子どもの声だった。
ヘレナ本人のものではない。
鎖に残された記憶。
教会の地下。
幼い少女が祭壇へ縛られ。
泣きながら、聖職者へ尋ねている。
その胸には、ヘレナが作ったものと同じ契約紋。
ただし――そこに、同意を示す署名はなかった。
ヘレナは、その光景を見た。
自分の奇跡が。
誰かを守るために作った誓約が。
子どもから拒む権利を奪う道具になっていることを知った。
『その子を放してください』
『これは誓約ではありません』
『ただの支配です』
彼女は地下にいた者たちの契約を解除した。
拘束された人々を逃がした。
教会の兵士を縛りながら、一人も殺さずに。
「逃がさねぇんじゃない」
俺は黒い鎖の動きを読む。
「お前は、逃がそうとしたんだろ」
一度戻される。二度、三度、戻される位置は同じ。
なら――。空間を戻される直前に、フィーアを投げる。
巨投剣が歪みを越え、黒い鎖の接続核へ突き刺さった。
俺の身体は元の場所へ戻る。
だが、投げた武器までは戻らない。
接続核が砕け、歪んだ空間が正常へ戻った。
これで、四本目。
残りは二本。
金色の鎖が、静かに持ち上がる。
「忘れてください」
第五戒鎖――『忘却』。
何かが、頭の奥へ入り込んだ。
「俺は……」
名前が出てこない。
握っている武器が、何だったのか分からない。
どうしてここにいる。
この少女は誰だ。
俺は、何をしに来た?
記憶が、薄い紙を剥がすように一枚ずつ消えていく。
足が止まる。
武器が重い。
戦う理由が分からない。
だったら。
もう、やめても――
『リンドウ様。今度は、きちんと読んでください』
――声が聞こえた。
一体、誰の声だ……。
『絶対に帰ってきて』
黒い耳、金色の瞳、足へ絡む尻尾。
「……ザフィラ」
名前を口にした瞬間、霧が少し晴れる。
俺は鞄へ手を伸ばした。
報告書。
何のために持ってきたんだ……!
読み飛ばさないためだろ!
知らないまま、終わらせないためだろ!
「俺は……リンドウだ」
自分へ言い聞かせる。
「鎖の聖女ヘレナを、解放するために来た」
記憶が戻る。
同時に、報告書に残っていた教会の隠蔽記録が脳裏へ蘇った。
ヘレナは、大聖堂の前で真実を話そうとした。
だが、声を封じられた。
名前を公式記録から消され。
随行誓約は、教会が生み出した奇跡として書き換えられた。
『聖女ヘレナは、自ら永遠の祈りを望んだ』
そんな嘘だけが残った。
一人の少女としての記憶を奪われ。
都合のいい聖女像へ塗り替えられた。
「忘れねぇよ……」
俺は駆ける。
「お前の名前も、お前が何をしたのかも――今度は、俺が覚えて帰る!」
フィーアの切っ先が、第五戒鎖の核を貫いた。
金属の悲鳴。金色の鎖が崩れ落ちる。
残るのは、透明の鎖だけ。
目を凝らさなければ、そこにあることさえ分からない。
だが、その魔力だけは、六本の中で最も強い。
「死なないでください」
ヘレナが微笑む。
「死ぬことは、許されていません」
第六戒鎖――『拒絶』。
透明の鎖が、ヘレナの胸を貫いた。
次の瞬間、砕いたはずの五本の鎖が再生を始める。
赤い破片が集まり。
青い鎖が形を取り戻し。
白と黒の断面がつながっていく。
ゲームでは、再生が終わる前に透明の鎖を破壊しなければ、最初からやり直しだった。
だが今は、その意味が分かる。
ヘレナは、死ねなかったんだ……。
意識を失えば、無理やり起こされ。
身体が壊れれば、再生され。
魂を戒壇へ固定され。
契約術式を生み続ける、生きた魔導炉にされた。
彼女が逃がした者たちは、人質に取られた。
『戻れば、彼らの命は助ける』
そう言われて、ヘレナは自ら教会へ戻った。
だが、約束が守られたかどうかは、どの記録にも残っていない。
拘束の処置へ加担させられた司祭が一人。
最後までヘレナを逃がそうとし、失敗した。
そして、死後もリッチとなって、この扉を守り続けた。
『ヘレナ様を、どうか安らかに……』
「そういうことかよ」
あいつは、俺を止めたかったんじゃない。
また誰かに利用されるくらいなら。
誰もヘレナへ近づけたくなかったんだ。
透明の鎖が、再生を加速させる。
赤が戻る。青も。白も。
――あと数秒。
「悪いな、司祭様よぉ」
俺はフィーアを構える。
「約束はできねぇけど……」
床を蹴る。
再生した鎖が一斉に襲いかかる。
赤の重力を跳び越え。
青の沈黙を刃で逸らし。
白に武器を奪われる前に、柄を握り込む。
黒の空間歪曲が閉じる寸前。
その隙間へ身体をねじ込んだ。
「少なくとも」
ヘレナの目の前、透明の接続核へフィーアを振り下ろす。
「また利用させるつもりはねぇ!」
巨投剣が、透明の鎖を断ち切った。
耳をつんざく金属音。
六本すべての戒鎖が、今度こそ完全に砕け散った。
ヘレナの身体が、祭壇へ落ちる。
俺はフィーアを床へ突き立て、片腕で受け止めた。
軽い……あまりにも軽い。
長い銀金色の髪が、俺の腕からこぼれ落ちる。
「終わった……か?」
違う……戦闘終了の感覚がない。
礼拝堂を満たす魔力も、消えていない。
ヘレナの胸元。
幾重にも刻まれた契約紋の奥で、何かが脈打った。
一本の鎖が、ゆっくりと姿を現す。
赤でも、青でも、白でもない。
――深い銀色。
それは礼拝堂の壁へつながっていなかった。
ヘレナの胸から伸び、彼女自身の魂へ巻きついている。
「七本目……」
フィーアを振るう。
刃が触れた瞬間、砕いたはずの六本の鎖が再び光を放った。
「くそっ」
攻撃すれば、すべてが戻る。
攻略情報どおり、七本目は武器では壊せない。
ヘレナの瞼が、再び開く。
「どうして……」
濁っていた青い瞳が、かすかに揺れた。
「どうして、鎖を壊すのですか……?」
「人を自由にするためだ」
「嘘です」
銀色の鎖が、俺の腕へ絡みついた。
次に、胴、両足。
逃げる隙間もなく、身体を締め上げていく。
「皆、同じことを言いました」
「人々を守るため」
「秩序を作るため」
「争いを止めるため」
「そう言って――」
鎖が深く食い込む。
「私の力で、誰かを縛りました」
片膝が床へ落ちた。
フィーアを握る手に、力を込める。
だが、振るえば六本すべてが復活する。
「あなたも、同じなのでしょう?」
ヘレナが微笑んだ。
悲しいとも、苦しいとも言わない。
何も期待していない者の顔だった。
「私の力が、欲しいのでしょう?」
銀の鎖が、胸へ触れる。
肉体ではなく、もっと深い場所――魂へ食い込んでくる。
「さあ、ご命令を」
ヘレナは、静かに目を閉じた。
「次は――」
七本目の戒鎖が、俺と彼女の魂をつないだ。
「誰を縛ればいいのですか?」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、鎖の聖女ヘレナが操る六本の戒鎖との戦いでした。
ゲームだった頃のリンドウが知っていたのは、鎖を破壊する順番と、特殊勝利を達成するための手順だけ。
赤、青、白、黒、金、透明。
当時はただの攻略ギミックだった六本の鎖には、それぞれヘレナから奪われたものと、歪められた彼女の願いが込められていました。
誰かを跪かせるためではなく、争いを止めるために生まれた力。
声を奪うためではなく、拒む権利を守るために作られた誓約。
人を守るはずだった鎖は、少しずつ形を変え、やがて人の意思と自由を奪う奴隷紋へと変えられていきました。
ゲームの中では、すべて『従者NPC』という同じ名前で表示されていたもの。
けれど、その表示の向こうには、自ら仕えることを選んだ者も、拒む権利を奪われた者も存在していました。
リンドウは今回、攻略方法ではなく、そこに隠されていた一人の少女の物語を知りながら戦っています。
六本の戒鎖は、すべて破壊されました。
しかし、最後に現れた七本目だけは、教会によって取りつけられた鎖ではありません。
ヘレナ自身が、自らの魂へ巻きつけた鎖。
そして彼女は、リンドウへ問いかけます。
「次は、誰を縛ればいいのですか?」
と。
次話もお楽しみにお待ちください。




