42:覇王、鎖の戒壇へ
次の日の朝も、王都中央広場では公開裁判が続いていた。
昨日、死刑判決が下されたのは、ラングレイ王家と悪政の中枢にいた十八名だけだ。
今日から裁かれるのは、その命令を現場で実行した兵士や役人。
奴隷商へ協力した商人。
違法な徴税によって利益を得ていた地方官たちだった。
自ら進んで罪へ手を染めた者もいれば。
家族を人質に取られ、従わざるを得なかった者もいる。
全員を同じ罪で裁くことはできない。
一人ずつ証拠を確認し。
証言を聞き。
何をしたのかを明らかにしていく。
裁判は、今日だけでは終わらないだろう。
だが、それはミラと臨時評議会に任せるべき仕事だ。
俺たちは、俺たちのやるべきことを始める。
俺は広場から王城へ戻り、旧会議室の扉を開いた。
かつて王と貴族たちが密談に使っていた部屋には、もう豪華な椅子も長机も残っていない。
代わりに置かれているのは、昨日俺が運び込んだ円卓だ。
その上へ、分厚い書類の束が三つ並べられていた。
「遅いですよ、リンドウ様」
書類の向こう側に座るミラが、疲れた目を俺へ向ける。
「まだ約束の時間前だろ」
「私は一刻ほど前から待っていました」
「それはお前が早すぎるだけだろ」
「徹夜明けの人間を待たせておいて、随分な言い草ですね」
「もしかして……寝てねぇの?」
「誰かさんが、昨日の朝になって大量の調査を依頼されましたので」
ミラの隣には、空になったカップが三つ。
積み上がった紙の横には、書き損じた羊皮紙まで山になっている。
どう見ても一睡もしていない。
「悪かったって、いや、ほんと、マジで」
「謝罪を口にするだけで済むなら、世の中から過労という言葉は消えています」
「本当に悪かったよ。裁判が終わったら寝ろ」
「その裁判が終わらないのですが」
「なら、議長代理を置け」
「それを決める書類にも、あなたの署名が必要です」
「結局、俺の仕事が増えるのかよ……」
「国を取り戻した覇王様ですから」
嫌味たっぷりに言いながら、ミラは一番上の資料を俺の前へ差し出した。
「鎖の聖女ヘレナについて、現時点で確認できた記録です」
「早かったな」
「王城の書庫と、王都にある大聖堂の封印書庫を同時に調べさせました」
ミラが、円卓に並べられた三つの束を順番に指し示す。
「一つ目は、教会が公表していた『聖女ヘレナ伝』。二つ目は、契約術式に関する研究記録。――そして三つ目が、当時の聖職者たちによって隠されていた日記と告解録です」
俺は最初の束を手に取った。
表紙には、鎖を手にした聖女の姿が描かれている。
穏やかに微笑み。
頭上から差し込む光を浴び。
その足元では、多くの信者たちが祈りを捧げていた。
「随分と立派な聖女様じゃねぇか」
「表向きは、そうだったのでしょう」
最初のページを開く。
古い文字ではあるが、読むことに問題はない。
そこには、聖女ヘレナが戦場で多くの命を救い。
数多の罪人を改心させ。
最後には自ら永遠の戒壇へ入り、人々の罪を封じ続けることを選んだと書かれていた。
「自分の意思で、ねぇ……」
「次をご覧ください」
ミラに促され、二つ目の束へ手を伸ばす。
こちらは聖女伝とは違い、文章が事務的だった。
拘束術式の強度。
対象の魔力抵抗値。
記憶封印を行う際の必要人数。
意識を失った際の強制覚醒。
肉体の損壊に伴う魂核の再固定。
術式抽出中に被験者が抵抗した場合の処罰。
そこに書かれている内容は、祈りや奇跡なんて言葉からは程遠い。
「……被験者?」
「ヘレナ本人を指していると考えられます」
「これのどこが、自分の意思で戒壇へ入った聖女なんだよ……」
「教会にとって、記録とは真実を残すためのものではなかったのでしょう」
「都合の悪い事実を隠すためのものか」
「ええ」
ミラが三つ目の束から、一冊の古びた手記を取り出した。
革の表紙は黒ずみ、端には焼け焦げた跡がある。
「こちらは、当時の高位聖職者が残した告解録です」
開かれたページには、震えるような文字が並んでいた。
『我々は、聖女を守ったのではない』
『その奇跡を、我々だけのものにしたかった』
『彼女の慈悲を称えながら、その慈悲が我々へ向けられなくなったとき、我々は彼女を鎖で縛った』
その先は、何者かに破り取られている。
「鎖の聖女が特殊勝利でしか完全に倒せない理由も、これが関係してるんだろうな」
「おそらくは」
「で、契約術式については?」
ミラが一枚の羊皮紙を取り出した。
経年劣化で黄ばんでいるが、保存状態は悪くない。
中央には、二人の人間を結ぶような複雑な術式が描かれている。
その上に記された名称は――
「随行誓約?」
「現在確認できる中では、最も古い契約術式です」
ミラが術式の下に書かれた条項を指でなぞった。
「戦争孤児、流民、傭兵などが、騎士や領主の庇護下へ入る際に用いられていたと記録されています」
「主従契約みたいなもんか」
「形式上は、そうです。ただし、現在の奴隷紋とは根本的に異なります」
俺も条項へ目を通す。
契約を結ぶためには、双方の明確な同意が必要。
契約内容は、事前にすべて開示される。
定められた範囲を越える命令は拒否できる。
従う側にも、誓約を解除する権利がある。
主となる側には、従者の生命と生活を守る義務がある。
自傷や死を命じることはできない。
「従う側にも、ちゃんと権利があるんだな」
「所有ではなく、相互の責任を明確にするための誓約だったのでしょう」
「これをヘレナが作ったのか?」
「術式の考案者として、彼女の名が残っています」
ミラが別の記録を並べる。
随行誓約。
その数十年後に作られた、従者契約。
さらに改訂された、従属契約。
そして。
現在アルセディアで使われている奴隷紋。
四つの術式は、一見すると別物だ。
だが、根幹部分に刻まれた魔力回路は、ほとんど同じだった。
「少しずつ削られてんのか」
「はい」
最初に消えたのは、主側の保護義務。
次に、契約外の命令を拒否する権利。
その次に、従者側からの解除権。
最後に、本人の同意まで必要なくなった。
残ったのは、命令への絶対服従だけ。
「随行誓約が、従者契約になって」
「それが従属契約へ変わり」
「最終的に、奴隷紋となりました」
「随分とまあ、分かりやすく腐らせたもんだな」
俺は四枚の術式を見比べた。
そこで、従者契約の欄に書かれた一文が目に入る。
『契約を結んだ者は、従者として登録される』
その文字を見た瞬間。
俺の頭に、見慣れた画面が浮かんだ。
従者NPC。
ゲームだった頃、俺は何度もその文字を見てきた。
屋敷で働く使用人。
領地へ配置する職人。
戦闘へ同行する兵士。
俺にとっては、それだけだった。
契約画面に表示されていたのは、能力値と配置可能な施設。
好感度。
得意な作業。
装備できる武器。
そいつがどうして従者になったのか。
本当に、自分の意思で契約したのか。
そんな項目は、どこにもなかった。
いや――正確には、ストーリーの中にはあったのかもしれない。
俺が読まなかっただけだ。
「奴隷なんて、この世界にはいなかったはずなのにな……」
口から、言葉が漏れた。
「そう認識されていたのですか?」
「ああ」
少なくとも、俺が従者として登録したNPCは、全員が個別クエストを終えたあと、自分から仲間になりたいと言ってきた奴らだった。
領地の工房で働きたいと言った職人。
俺の戦いを見て、ついていきたいと言った兵士。
国を作るのを手伝わせてほしいと申し出た商人。
だから、考えもしなかった。
同じ『従者NPC』という分類の中に、拒否する権利を奪われた奴がいたかもしれないなんて。
いなかったんじゃない。
俺の画面に、そう表示されていなかっただけだった。
「俺は、こいつらの能力値しか見てなかった」
羊皮紙に書かれた契約術式へ目を落とす。
「どういう人生を送って、どういう理由でそこにいたのかなんて、考えたこともなかった」
「……それを、私に告白してどうするのですか?」
「なんでだろうな……。口から出ただけだ」
「そうですか」
ミラは、それ以上を追及しなかった。
俺が何を見ていたのか。
どうして、こんなことを知らずにいたのか。
こいつは何も知らない。
「仕方なかったと思うか?」
「私には判断できません」
ミラは淡々と答えた。
「当時のあなたが何を知り、何を知らなかったのか。私は存じませんから」
「……だよな」
「ただし」
ミラが、三つの資料をまとめて俺の前へ置く。
「今のあなたには、知ろうとすることができます」
「……ああ」
「知らなかった過去は変えられません。ですが、知ろうとしないままでいるかどうかは、今からでも選べます」
まっすぐな言葉だった。
「今度こそ、きちんと読んでください」
「分かってるよ」
「あなたは『分かった』と言いながら、三行ほどで読み飛ばしそうなので」
「俺への信用がねぇな」
「これまでの実績を考慮した、公平な評価です」
反論できない。
俺は三つの資料をすべて鞄へ入れた。
「ヘレナが契約の改造に反対したっていう記録は?」
「残っています」
ミラが、最後に一枚の紙を差し出す。
「ただし、途中から彼女自身の言葉は消されています」
初期の記録には、ヘレナの発言が残されていた。
『契約は、守る者と守られる者の両方を縛るものでなければなりません』
『一方だけが命令し、もう一方が拒めないものは誓約ではありません』
『それは、人を物に変える術式です』
だが、ある時期を境に、彼女の発言は一切記録されなくなる。
随行誓約を作った一人の少女としてのヘレナは消され。
教会にとって都合のいい『聖女ヘレナ』だけが、歴史へ残された。
「そのあと、鎖の戒壇へ封じられたわけか」
「記録上では、そうなっています」
「なぜ捕まったのかは?」
「不明です」
「何をしようとしたのかも?」
「現時点では」
「七本目の鎖については?」
「それらしい記述すらありません」
分からないことばかりだ。
だが、それでいい。
少なくとも今回は、知らないまま倒しに行くわけじゃない。
「鎖の戒壇までは?」
「アルセディアから北へ、旧巡礼路を三日ほどです」
「なら、今から出る」
「お一人で?」
「ああ」
円卓の反対側で、椅子が音を立てた。
「駄目だ」
窓際で黙って話を聞いていたザフィラが、俺を睨んでいる。
「お前、いたのかよ」
「最初からいた」
「静かだったから気づかなかった」
「今すぐ爪を立てられたいか?」
「冗談だって」
ザフィラの耳は、機嫌が悪そうに横へ伏せられている。
「私も行く」
「駄目だ」
「どうしてだ?」
「王都の復旧を指揮できる奴がいなくなる」
「クライブがいるだろう?」
「地方への新制度の通達で手が回ってねぇ。お前が抜けたら、街の指揮系統が止まる」
「それならアウラを――」
「避難所と炊き出し。ついでに警備兵の再編もやってる」
「テオは?」
「残党と逃げた奴隷商の捜索中」
「ノア」
「奴隷紋の解析と、被害者の治療」
「カレンは?」
「裁判所と地下牢の警備だな」
ザフィラの尻尾が、苛立たしそうに床を叩いた。
「俺たちは、国を取り戻したばかりだ」
「分かっている……だが」
「全員連れてって、王都を空にするほうが無責任だろ」
「だからといって、お前が一人で行く理由にはならないだろう?」
「特殊勝利条件がある」
ザフィラが眉を寄せる。
「ヘレナ本人へ攻撃を当てたら、その時点で失敗だ。人数が増えれば、事故が起きる可能性も上がる」
「私がそんな失敗をするとでも?」
「お前がじゃねぇよ」
「なら、私一人だけでも連れていけ」
「お前が今、街を離れられないって話をしてんだろ」
「だが……」
ザフィラの声が弱くなる。
「一人で全部背負わないって、約束しただろう……?」
昨夜。
俺が無茶をして、手の届かない場所へ行くのが怖いと。
こいつは、そう言っていた。
「黙っていなくならねぇとも約束した」
「……あぁ」
「だから、ちゃんと話してる」
「屁理屈だな……」
「否定はしねぇ」
「リンドウ」
「攻略方法は分かってる。三日で着くし、終わったら必ず連絡する」
「攻略方法しか知らないのだろう?」
痛いところを突かれた。
「お前、そこを突くか」
「今までのお前なら、それだけで向かった」
「ああ、そうだな」
俺は、ミラから受け取った報告書を掲げる。
「だから、これを持っていくんだよ」
「……読めるのか?」
「俺を何だと思ってんだ」
「説明は聞かずに突っ込む男」
「ミラと同じような評価すんなよ……」
「事実だろう?」
「今回は読むって」
ザフィラは、しばらく報告書と俺の顔を見比べていた。
やがて諦めたように、長く息を吐く。
「三日で着くんだな?」
「ああ」
「戦いが終わったら、すぐに連絡するんだな?」
「する」
「怪我を隠さないだろうな?」
「善処しよう」
「善処じゃだめ、約束して」
「……約束する。ってお前、口調……」
ザフィラが俺の前まで来る。
人前だというのに構わず胸元の服を掴み、金色の瞳でまっすぐ見上げてきた。
「絶対に帰ってきて……リンドウ」
「昨日も言っただろ」
伏せられた耳の間へ手を置く。
「帰ってくるよ、心配すんな」
「……なら、信じる」
その言葉とは裏腹に、尻尾は俺の足へ巻きついたままだった。
「そろそろ離してくれないと、出発できねぇんだけど」
「あと少し」
「三日後に戻ってくるって」
「三日も会えないのよ?」
「いや、昨日までのお前なら、そんな顔しなかっただろ」
「うるさい」
「あの、すみません。私もいるのでイチャイチャしないでもらえます?若干キレそうです」
「あ、悪い」
しまった、忘れてた……。
徹夜明けのやつの前ですることじゃなかったな。
結局、ザフィラの尻尾が離れるまで、そこからしばらくかかった。
♢
アルセディアを出たのは、昼前だった。
鎖の戒壇は、王都から北へ伸びる旧巡礼路の終着点にある。
ゲームだった頃なら、転移門を使って一瞬で移動できた場所だ。
だが、百二十年が経った今。
近隣にあった転移門はすべて壊れ、地図上からも消えている。
残っているのは、山と森を抜ける古い石畳だけだった。
一日目。
王都を離れて半日もすると、道の両脇に崩れた石柱が現れ始めた。
かつては大勢の信者が行き交ったのだろう。
道の途中には、一定の間隔で聖女像が置かれている。
どれも両手に鎖を持ち、穏やかな笑みを浮かべていた。
ただし。
すべての像から、顔だけが削り取られている。
「聖女として祀ったくせに、顔は残したくなかったのかよ」
俺は最初の資料、『聖女ヘレナ伝』を開きながら歩いた。
そこに書かれているヘレナは、最初から最後まで迷わない。
誰かのために奇跡を使い。
命令に従わない罪人を縛り。
最後には自ら永遠の祈りを選んだ、完璧な聖女だ。
弱音も、怒りも、迷いもない。
人間らしい感情が、何一つ書かれていなかった。
巡礼路の脇には、何度も同じ言葉が刻まれている。
『罪を聖女へ預けよ』
『聖女はすべてを赦し、すべてを縛る』
『従う者に、安寧は与えられる』
「随分と都合のいい教えだな」
誰かに従っていれば、何も考えなくていい。
逆らう者は、聖女が縛ってくれる。
教会にとっては、さぞ使いやすい教義だっただろう。
日が落ちる前に、巡礼者用だったらしい宿泊所を見つけた。
屋根は半分落ちていたが、雨風くらいは防げる。
焚き火を起こし。
適当な保存食を口へ放り込みながら、俺は聖女伝を最後まで読んだ。
そこに、一人の少女としてのヘレナはいなかった。
二日目。
巡礼路の周囲から人の気配が完全に消えた。
途中で通りかかった廃村には、朽ちた家と倒れた柵だけが残っている。
村の中心には、小さな礼拝堂があった。
扉を開けると。
祭壇の奥に、古い契約紋が刻まれていた。
「これ……」
見覚えがある。
俺は二つ目の資料を取り出し、礼拝堂の術式と見比べた。
従者契約。
ゲームの拠点画面で何度も見た、従者登録の紋章と同じ形だった。
欠けた祭壇の横には、契約者の名簿が残されている。
契約主、従者、契約期間、与えられる住居と食料、行う仕事。
そして、双方からの解除条件。
ただし、最初の数ページまでは、だ。
だが、時代が下るにつれ。
契約解除の条件が消え。
報酬の欄が消え。
最後には、従者の名前と所有者の名前しか残らなくなっていた。
「同じ言葉のまま、中身だけ変えたのか」
表向きは、従者。
だが、そこに本人の意思はない。
ゲーム画面に表示される名前は同じ。
能力値も。
配置できる施設も。
使える技能も。
契約の理由なんて、性能には関係ない。
だから、俺は見なかった。
強制契約されたNPCも。
自分から仕えることを選んだNPCも。
同じ『従者NPC』として扱われることを、疑いもしなかった。
「本当に、何も見てなかったんだな……」
返事をする者はいない。
放棄された礼拝堂に、自分の声だけが響いた。
その夜は、廃村の外れで野営した。
報告書を閉じても、従者登録の画面が頭から離れなかった。
三日目。
巡礼路は山の斜面へ入り、石畳の大半が崩れていた。
谷を越える場所ではフィーアを投げ、空間を蹴って向こう岸へ渡る。
崖を登り、黒い霧に包まれた森を抜けた。
昼を過ぎた頃、最後の資料を開いた。
それは、ヘレナと同じ時代を生きた聖職者たちの告解録だった。
『聖女は、随行誓約の改変を拒んだ』
『彼女は、誓約から拒否権を奪えば、それは人を守る鎖ではなく、人を所有する鎖になると訴えた』
『我々は聞かなかった』
『我々は彼女に、秩序のためだと言った』
『多くの命を守るためだと言った』
『そして、従わない彼女こそが罪人であると断じた』
その先には、別の筆跡で一文だけが加えられている。
『我々は聖女を守ったのではない』
『彼女の奇跡を所有したかったのだ』
森を抜けた先、俺は足を止めた。
灰色の空の下に、巨大な建物が見えている。
かつては白亜だったであろう大聖堂。
だが今は、壁も尖塔も、無数の黒い鎖に覆われていた。
風はない。それなのに、尖塔の鐘が低い音を響かせている。
『鎖の戒壇』。
鎖の聖女ヘレナが眠る、ダンジョン化した大聖堂だ。
♢
正面の大扉へ近づく。
その表面には、巨大な聖女像が彫られていた。
両腕。両足。首。腰。
すべてに鎖が巻きついている。
「自ら戒壇へ入った聖女、ねぇ……」
どう見ても、祈りを捧げる姿じゃない。
拘束されている人間の姿だ。
フィーアを背から抜き、大扉を押し開ける。
中から流れ出した冷気が、肌を刺した。
礼拝堂には、無数の白骨が並んでいる。
全員が椅子へ腰掛け、祭壇へ祈りを捧げる姿勢のまま死んでいた。
床の下から、微かな声が聞こえる。
『契約を受け入れよ』
『命令に従え』
『拒むことは許されない』
同じ文言を、何百もの声が繰り返している。
「随分と悪趣味なダンジョンになったな」
ゲームの頃も、雰囲気の悪い場所ではあった。
だが、そのときは背景の演出くらいにしか思っていなかった。
礼拝堂の奥へ進むと、白骨たちが一斉に顔を上げた。
眼窩の奥に、青白い炎が灯る。
元聖騎士。
鎖に操られた信徒。
契約文を唱え続ける亡霊。
ゲーム時代と、出現する敵は変わっていない。
それでも、今は見え方がまるで違った。
聖騎士は剣を振るいながら、何度も俺の進路へ身体を滑り込ませる。
亡霊たちは攻撃魔術ではなく、扉を封じる術式を優先する。
鎖に操られた信徒は、自分の身体が砕けてもなお、奥へ続く通路を塞ごうとした。
俺を殺そうとしているんじゃない。
「進ませたくねぇのか」
返事の代わりに、聖騎士の剣が振り下ろされる。
フィーアで受け止め、そのまま剣ごと身体を吹き飛ばした。
道中の敵は、今の俺にとって脅威にならない。
スキルを使うまでもない。
攻撃をかわし、鎖を切り、魔力核だけを正確に砕いていく。
それでも、敵の数は多かった。
礼拝堂。告解室。地下納骨堂。
大聖堂の中を進むたびに、祈りを続ける亡者たちが現れる。
何度倒しても、何体消えても。
全員が、ただ奥へ行かせまいと立ちはだかった。
そして――大聖堂の最深部。
巨大な扉の前で、一人の聖職者が俺を待っていた。
黒い法衣。
骨だけになった身体。
宝玉の埋め込まれた長杖。
頭上には、歪んだ光輪が浮かんでいる。
かつて高位聖職者だったのだろう。
『……戻りなさい』
リッチが、杖を構えた。
『ここから先へ、進んではなりません』
「断る」
『彼女は、もう十分に苦しみました』
「だったら、なおさら終わらせる」
『それでも……』
リッチの周囲に、数十本の鎖が現れる。
『彼女を、また利用しようとする者を通すわけにはいかない』
「俺は利用しに来た」
リッチの魔力が膨れ上がる。
「人を縛る奴隷紋を壊すために、ヘレナの素材が必要だ」
『やはり……同じではありませんか』
「同じかどうかは、あいつ自身に決めてもらう」
フィーアを構える。
「お前じゃねぇ」
戦闘は、長く続かなかった。
飛来する鎖を切り払い。
足元に展開された拘束陣を踏み砕き。
リッチの放った死霊魔術を、フィーアの腹で打ち返す。
最後に残った結界を貫き。
魔力核の手前で、剣を止めた。
「退け」
『……できません』
「なら、悪いな」
フィーアを振り抜く。
魔力核が砕け、リッチの杖が石床へ転がった。
骨だけになった聖職者が、その場へ膝をつく。
身体を形作っていた魔力が、足元から崩れていった。
『……ようやく』
空洞になった眼窩が、閉ざされた大扉へ向けられる。
『ようやく、終わるのですね……』
「お前らは、あいつを守ってたのか?」
リッチは答えなかった。
ただ、祈るように両手を組む。
『ヘレナ様を――』
崩れていく声が、震えた。
『どうか、安らかに……』
その身体が、白い灰となって消えた。
あとには、杖と。
祈るように組まれた指の骨だけが残った。
「……約束はできねぇよ」
閉ざされた扉へ目を向ける。
「まだ、何も知らねぇからな」
巨大な扉へ手を触れる。
重い音を立てながら、左右へ開いていった。
♢
扉の先には、円形の大礼拝堂が広がっていた。
天井は見えないほど高く、壁一面を黒い鎖と契約紋が覆っている。
色褪せた聖画。
砕けた女神像。
朽ちた祭具。
そして、中央にある巨大な祭壇。
そこへ――。
一人の少女が、六本の鎖で吊るされていた。
外見は、十六歳ほど。
淡い銀金色の髪が、床へ届きそうなほど長く伸びている。
身にまとっているのは、かつて白かったであろう聖女服。
布は裂け、血と煤で汚れ、胸元には幾重もの契約紋が焼きついていた。
両手首。両足首。首。腰。そして背中。
六本の鎖が少女の身体を支え、礼拝堂の壁へつながっている。
手足には、何度傷が塞がっても消えなかったらしい拘束痕が残っていた。
祭壇の周囲には、白い花が咲いている。
陽の光も、水も、土さえない場所で。
その花だけが、枯れることなく少女を囲んでいた。
「鎖の聖女、ヘレナ……」
ゲームでは何度も見た。
素材を集めるため。
特殊勝利の報酬を狙うため。
効率のいい攻略手順を検証するため。
倒して、復活を待ち、また倒した。
それなのに――。
目の前の少女を見ても、知っていることはほとんどない。
祭壇の前には、石床を横切る一本の亀裂が走っている。
戦闘領域の境界線。
一歩でも越えれば、ヘレナは目を覚ます。
ゲームだった頃なら、迷う理由はなかった。
装備を確認し。
強化効果をかけ。
攻略手順どおりに鎖を破壊するだけだ。
だが、今は違う。
俺は鞄から報告書を取り出した。
最後のページまで目を通し、静かに閉じる。
「お前が何者だったのか」
鎖につながれた少女へ向けて呟く。
「何を守ろうとして、何を奪われたのか」
まだ、すべては分からない。
それでも――。
「今度は、ちゃんと知ってから終わらせる」
報告書を鞄へ戻す。
フィーアを握り。
一歩、踏み出した。
境界線を越えた瞬間。
静まり返っていた礼拝堂に、金属の擦れる音が響く。
一つ、また一つと、祭壇へつながる六本の鎖が、ゆっくりと持ち上がっていく。
白い花が、吹き荒れる魔力に揺れた。
少女の指が動く。
伏せられていた瞼が、ゆっくりと開いた。
濁った青い瞳が、まっすぐに俺を捉える。
「……次の」
ひび割れた唇が動いた。
「次の、罪人ですか?」
少女は、悲しそうに微笑んだ。
「大丈夫です」
鎖が、激しく鳴り響く。
「もう誰も傷つけられないように――」
六本の戒鎖が、宙へと舞い上がった。
「私が、あなたを縛りますから」
直後――。
振り下ろされた鎖が、礼拝堂を引き裂いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回から、新たなユニークボス――『鎖の聖女ヘレナ』編が始まります。
ゲームだった頃、リンドウが何度も目にしてきた『従者NPC』という言葉。
自ら望んで誰かに仕えた者も。
拒否する権利を奪われ、強制的に従わされた者も。
システム上では、すべて同じ名称で表示されていました。
奴隷が存在しなかったのではなく、リンドウの見ていた画面には、そう表示されていなかっただけ。
そして、その契約術式の始まりにいたのが、鎖の聖女ヘレナでした。
人を守るために作られた誓約は、なぜ人を所有する奴隷紋へ変わってしまったのか。
英雄として語り継がれた聖女は、なぜ鎖につながれているのか。
ゲームだった頃のリンドウは、攻略方法しか知りませんでした。
けれど今回は、報酬だけを見て終わらせるつもりはありません。
次話、六本の戒鎖との戦い。
鎖を一本ずつ断ち切るたび、歴史から消されたヘレナの物語が明らかになっていきます。
次話もよろしくお願いいたします。




