Episode9「冥界と交わりて」②
「と、トップ」
「ええ」
頭の中に、疑問符が次々と現れる。東ユーラシア死神協会のトップと言えば、先月リゼがべた褒めしていたあの人だ。
曰く、すらりと長い手足はまるで芸術品のようで。
曰く、武器を振るうその背中は勇ましく美しい毛並みの獅子のようで。
曰く、どんな末端の平会員すら慈しむ様は天人のようだと。
リゼの熱弁を思い出し、僕はかつて想像していた「会長」像を目の前の蓮花に重ねる。確かに、長い手足は手入れが行き届いていて肌荒れしらずの真珠のようだし、彼女から放たれる威圧感は、きっと葬送の際には獅子のような頼もしさと美しさを醸し出す。そして、「天人」というのも――わざわざ東京支部の出張所まで気に掛けている優しさは持ち合わせているのだろう。
ルカの上にのしかかり襲いかかってはいたけれど。
「なに、何か思うことでも?」
「い、いえ。そういうのではないです」
「第一印象がアレだからね」
「ルカ」
美人の笑顔は怖いと言うのは、確かにそのとおりらしい。蓮花に笑っていない笑顔を向けられて、ルカはさっと視線を逸らした。だが、蓮花はすぐにその表情を曇らせる。それはまるで何かを憂うようで、天を向いてすらりと伸びた睫を伏せる様は、彼女の顔立ちの美しさをより一層際立たせていた。
「まあ、そうね。私もまだ威厳が足りないのは理解してる。私が調停者にふさわしいのなら、議会の連中が糾弾の準備なんてしないはずだもの」
ため息交じりに漏らした不安が、彼女の手にする紅茶に溶ける。議会、というのがどのようなものかは知らないけれど、どうやら何か思い悩むことあるらしい。
「そういえば。リゼから解任の危機にあると聞いたが、その件はどうなっているんだ」
覡が僕の隣に腰掛けて、蓮花に質問を投げかけた。相変わらず表情筋は仕事をしていないように見えるものの、その深紅にはリーダーへの憂慮が宿っている。
「……良い状況とは言えないわ。もっとも、そう簡単に倒れてやるつもりはないけれど。まあうまいこと納得させてみせるから、心配せずに待っていなさい」
蓮花はきっぱりとそう言い放った。しかし、その瞳は僅かに揺れている。それはきっと、大丈夫と言い切れない不安要素があるからなのだろう。覡もルカもそれを感じ取ったのか、珍しく言葉を飲み下し、静かに会長の姿を見つめていた。
室内が嫌な静寂に包まれる。その空気を感じ取ったのか、クロトが所在なさげにきょろきょろと僕たちの顔を見つめ、そして蓮花の膝元に駆け寄った。目の前に現れた桃色の小さな死神に、蓮花はふわりと笑顔を浮かべる。
「それにしても、クロトがこんなに可愛くなっていたなんて。リゼが見たら、きっと嬉々としてファッションショーを始めるでしょうね。子どもの死神なんて珍しいもの」
「蓮花さんは、クロトのことを知っているんですか」
「そりゃあね。東ユーラシアの代表として、何度か顔を合わせたことがあるのよ。彼女は甘い物が好きで、よく私に良い店がないか聞いてきたわ」
クロトの甘い物好きは、昔からのものなのだろう。クロトを見つめる蓮花の瞳は、ドーナツ屋の前で懐かしそうに語るラケシスのものとよく似ている。
「深月」
彼女の瞳が、僕を捉えた。その射貫くような視線に、僕の背筋は自然と伸びる。
「私のこともそうだけれど……冥界は今、少し様子がおかしいの。各地で悪霊が増えているし、クロトのこともある。だから、充分に気を付けなさい。まあ、紅夜がいれば心配ないでしょうけど」
そう言って、蓮花はカップに残った紅茶を飲み干した。陰鬱とした空気を吹き飛ばすようにぱんと勢いよく両手を鳴らし、彼女は反動を付けてソファから立ち上がる。
「さあ。私もやるべきことを終わらせないとね。クロト、今度来るときは甘い物を買ってくるわ。ルカ、あなたはちゃんと反省文とお菓子を私に献上なさい。焼き菓子の詰め合わせと新作ケーキ、それで勘弁してあげる。紅夜は……この場所をよろしく頼むわよ」
蓮花の言葉に、クロトは晴れ渡るような笑顔を浮かべ、ルカは「忘れてなかったのか」と面倒そうに視線を逸らした。覡はと言えば、なにか言いたげにその目を細めている。しかし、蓮花は覡が何かを言う前に、そそくさと帰宅の準備を始めた。
「では、私はこのくらいでお暇するわね。また、近いうちに様子を見に来るから」
そういって、蓮花は引き留める間もなく事務所から出て行ってしまう。閉じてしまった扉を見つめて、僕はまるで全身から力が抜けてしまったかのように息を吐いた。
「凄い人、でしたね」
「まあ、調停者だからね。冥界の死神を纏める一人に名を連ねるためには、『普通の死神』では駄目なんだよ。やっぱり、ある種のカリスマ性が必要だ。でないと、部下がついてこない。特に東ユーラシア死神協会は他の協会に比べて組織的な要素が強いから。各地域の支部長からなる下位議会と、その支部長を纏める取締役による上位議会。その全てに参加し、意見を聞き――最終決定をするのが彼女だ」
ルカの説明を聞いて、僕は思わずピンバッジを握りしめた。
協会全体の運命を左右するような決断を行う。そんな死神が、わざわざ渡界してまでこの場所に来てくれた。それも、僕にこの身分証を渡すために。
僕たちは協会を会社に例えると平社員のようなものだ。そんな平社員の働く現場を視察して、上層部に伝わってくる話だけではない情報を仕入れる。しかも、あれだけフレンドリーで垣根を感じさせない性格には嫌みが無い。リゼが慕う理由が、たった一度の邂逅で分かった気がした。
「それにしても、どうして蓮花さんを批判する人達がいるんですかね」
だからこそ、そんな彼女を解任しようとする動きがあるということに、僕は理解ができなかった。賄賂だとか横暴だとか、やめさせたい上司にあるような欠点は見当たらない。第一印象だけれど、僕にも分かる。彼女は紛れもなくいい人だ。
そんな僕の疑問に答えたのは、蓮花が風のように去ってから一言も言葉を発さなかった覡だった。
「どうして、ではなく――ゆえに、だ」
「どういうこと? 優しい死神は、みんなに好かれるんじゃないの?」
クロトがこてんと首を傾げる。クロトの問いは確かにその通りで、僕の抱えていた疑問と同じだった。部下に優しくしているはずなのに、部下から解任を望まれるなんて、道理にかなっていない。けれど、ルカと覡は――そう思ってはいないらしい。
「クロト、深月。考えてごらん。重要なのは『優しさ』と『親しみやすさ』だよ。確かに『優しい』上司は好かれるけれど、『親しみやすい』上司が好かれるとは限らない。特に――上司に威厳を求める組織ではね」
「ルカの言うとおりだ。東ユーラシアの議会は上司、つまり調停者に威厳を求めている。完全無欠の孤高の王たれ、と。その考え方が、部下に寄り添おうとする蓮花とは相性が悪いんだ。最も、一般会員は彼女のやり方を支持しているが」
覡の指摘に、僕は言葉を失った。
蓮花もできる限り良い統治を行おうとしているはずだ。出張所まで足を運ぶのも、部下の声に耳を傾けるのも、彼女なりの統治方法だろう。それを、議会は「自分たちの理想ではない」と否定しているというのだろうか。例え、末端の部下から支持される方法だったとしても。
「……なら、覡さんはどう見ているんですか。いち支部長として、蓮花さんのこと」
僕は真っ直ぐ、深紅を見つめて覡に問うた。覡が蓮花に対して悪感情を抱いていないことは分かる。でなければ僕のことやクロトのことを任せたりしないだろうし、「簡単に倒れるわけが無い」と信用を見せることもないだろう。けれど、リゼのように圧倒的な支持をしているわけでもないように思えたからだ。
覡は、まるで他人事のように――全てを俯瞰しているようだった。
「そうだな。蓮花は……良い上司だ。分け隔て無く接する彼女の姿勢には好感が持てる。だが、改善すべき点があるのも確かだろう。それは威厳というわけではなく、彼女自身の統治に対する心持ちに関して、だ」
「統治に対する心持ち、ですか?」
「ああ」
頷いた覡は、ソファに深く腰掛けたまま、テーブル上のカップに視線を落とす。蓮花が最後の一滴まで飲み干したそれを、深紅の瞳はじっと見つめていた。
「これは、蓮花にも議会にも言えることだが……東ユーラシアは、過去の亡霊に囚われている。かつての王を最良とし、それが『規律』への正しい解だと信じ切っているんだ」
かつての王。それはつまり、先代の調停者のことだろうか。
先代がいる、ということ自体、僕は初耳だった。だが、もし先代がいて、それを今の議会が「理想」としているのなら、彼女が受け入れられていないことにも納得がいく。
「先代は闇に消え、後継に蓮花が選ばれた。ならば、その玉座は蓮花のものだ。そして、玉座の数だけ王のあり方は存在する。蓮花は自分で統治方法を見定めて、その上で議会を引き入れる必要があるだろう。そのためには、議会も、蓮花自身も、過去の亡霊を捨て去らなければならない」
覡は厳しい人ではあるが、それは無条件にそうというわけでもない。彼が厳しい視線を向けるのには理由があるからだ。彼の意見からしても、恐らく覡も見極めている途中なのだろう。新しい統治者としての蓮花のことを。
「先代調停者は、すごい人だったんですね。居なくなってもなお、部下からそのあり方を理想とされているなんて」
僕の言葉に、覡は否定も肯定もしなかった。ただ、その深紅はどこか遠くを見つめている。それはまるで今は無き大切なものを懐かしむようにも、無くなった全てに安堵しているようにも見えた。
「あの男は、冥界の地で並ぶ者がないほどに信頼を集め、乱世に『規律』という名の治政を広げた。その上で、死神として得た全てを裏切ったんだ。裏切ったというのは俺の勝手な解釈だが、そう感じている者も少なくないだろう。……ふむ。やはり、あの男のことなど全て忘れてしまった方がいい」
先代調停者。
その存在と彼が残した影に対して、覡は思うところがあるようだ。「裏切り」という表現を彼が使ったのは、きっとそれなりの理由がある。僕は冥界のことをよく知らないが、それでも覡が信頼に足る人物であることは分かっていた。
とにかく、僕は覡の部下だ。覡の決定には、それが常識や僕の意志から反しない限り、賛同するつもりでもある。特に、状況のわからない冥界のことについては。
「さあ、おしゃべりはこのくらいにして、今日の業務を始めようか」
わからないことはわからない。なら、僕は分かることだけを考えるべきだ。僕は蓮花のこれからが明るくなることを願って、ルカの提案に頷いた。
日が地平線に隠れ、町に幽霊が跋扈し始めた頃。一般業務を終え、夜のパトロール当番ではなかった僕は早めに帰宅することになった。
帰り際に夕食をご馳走になり、僕の腹は満足げに膨れている。今日のメニューはチキン南蛮だった。からりと上がったきつね色に、刻んだタマネギが混ぜられたタルタルソース。鞄に入ったタッパーの中には、胃袋の中に収められたそれと同じものが入っていた。今から既に、明日の昼食が楽しみで仕方がない。
死神を始めてよかったことは、電気代とガス代を抑えながら、ルカのお手製料理がお腹一杯に食べられることに違いなかった。お陰で筋肉もそれなりについてきたし、体調がすこぶるいい。今のところ夏バテ知らずで、風邪という風邪も引いていないのだから、まかないにしては充分すぎる福利厚生だ。
死神になって後悔したことは、今のところない。
日に日に任される仕事の種類が増えていくことも、自分の身体が自分の思った通りに動くようになっていくのも、僕の自信へと繋がっている。それは確かだ。
ただ「死神になってよかった」とは、まだ言い切れないのも事実だった。
気のせいでは無いはずだ。
だんだん、薄らと見えていただけだったはずの霊の姿が、濃くなってきているように感じられる。声をかけられることも増えたし、僕から声をかけることも増えた。明らかに数か月前の僕と比べると、死者の世界はさらに近付いてきている。
『そういう人ならざるものに、あまり干渉してはいけないよ。自分も仲間にされてしまうって、よく言うだろう?』
ふと、懐かしい言葉を思い出した。あの事故の後、「変なものが見える」と訴えた僕の言葉を聞いた同室の老婆に言われた言葉だ。
――結局、僕は彼女の忠告を無視してしまったけれど。
空を見上げると、東京の明かりにかき消されてなお光り輝く星が点々と、闇の中を瞬いていた。夏の夜の静けさに包まれながら、遠目に見える新宿のビルの明かりが星の代わりに夜の東京を見下ろしている。きっと今頃、ルカとクロトが東京に現れた悪霊を送っていることだろう。
分からなかった。
僕は、死神になってよかったのだろうか。近付いてくる死の音に、少しずつ鈍くなっている。少しずつ、翔との距離が離れていく感覚がある。
彼女の残した言葉は、確かにその通りだったのだ。死神として暮らすうち、僕は少しずつ、彼等の世界に馴染んでいった。生と死の境が曖昧になって、僕の人生に死者が深くその足跡を残している。
僕は、これからも――死神として生きてもいいのだろうか?
一度湧き出てきた憂慮は、僕の思考を瞬く間に支配した。もう既に覚悟を決めて歩いてきた道だというのに、今になってその道に不安が残る。
後悔はない。でも、どうしようもなく不安だった。それはこんな夜道を独りで歩いていたからかもしれないし、どうあっても僕と覡たちが別の存在であることを、蓮花やその言葉によって再認識したからかもしれなかった。
「……でも、僕は、できることをやらないと」
「ええ、そうですよ。貴方には、こんなところで立ち止まって貰っては困ります」
「……ッ、誰ですか!」
その時突然背後から聞こえてきた声に、僕は驚いて振り返る。そこには、夜闇すら眩むほどの白いローブに身を包んだ長身の男が立っていた。その顔は、深く被ったローブのフードに隠されてよく見えない。ただ一つ分かるのは、目の前のその男が「人間でない」ということだけだ。
「夜分に失礼。いや、どうやら何かお悩みのご様子」
「……僕はあなたが誰か、と聞いているんです」
僕の質問に、男は堪えるような笑い声を返す。フードの影から笑みを覗かせ、男はさらに言葉を重ねた。
「私のような黒子のことなど、知らずとも何の支障もないでしょう。貴方が考えるべきは、もっと他のことですよ」
何を言っているのか理解できなかった。男の笑みの真意も、そもそも僕に話しかけてきた意図すら分からず、僕はいつでも武器を作り出せるように構えながら、相手の出方を窺い見る。
「そう警戒なさらないで。別に、取って食おうという訳ではありません。私はただ、貴方に選択肢を与えたい――それだけのためにここにいる、お節介なおじさんです」
フードの影が、僅かに街灯によって光の下にさらされた。そこにあったのは、覡よりも十歳ほどは年老いて見える、無害そうな笑顔を浮かべる男の顔だった。白髪まじりの黒髪はその年齢を想像させるが、決して乱雑に染め分かれているのではなく、綺麗に整えられている。中でも目を惹くのは、彼の眼窩に嵌められた二つの翡翠だ。
「選択肢?」
「ええ、それは選択肢とも、情報とも言えましょう。そのためには、まず『場面転換』を行わなければ」
男はさらに笑みを深める。翡翠がすっと細められ、何かを持った右腕を空へ掲げた。その手に握られていたのは、何処かで見たカンテラだ。
――あれは、リゼが持っていたもの。
嫌な予感がして、僕はすぐにその場から離脱しようと地面を蹴る。しかし、相手の方が早かった。男の手にあるカンテラが、その中に青い炎を宿す。
その瞬間、熱帯夜の虚空を割くように冷気が渦巻き、目の前に大きな穴が現れた。
「門」だ。
それは、冥界に渡るために通る道。本来、僕のような生者には感知できず、通ることすらできない虚。それが、僕を喰らわんと大きな口を開けている。
「いってらっしゃいませ、深月様。此度の公演が貴方にとってよきものでありますよう」
僕の警戒を嘲笑うように、一瞬で僕の背後に回った男は、耳元にそんな言葉を残した。
何のつもりだ。そう叫ぼうとしたけれど、身体は男によって押し出され、伸ばした手も空を切り、僕は為す術もなくその虚に呑み込まれた。




