Episode9「冥界と交わりて」③
風が優しく頬を撫でる。冷たくも暖かくもある不思議な風だ。柔らかな感触が僕の身体を包みこんでいて、僕はその気持ちよさに息を吐いた。
「……こんなところで昼寝なんて。呑気だね、君は」
ふと、頭上からあきれかえった声が降ってくる。僕はゆっくりと瞼を持ち上げ、幾度か瞬きをして、目に飛び込んでくる空の光と光景に目を慣らした。
「あ、起こしちゃったかな」
次第に輪郭を持ち始めた視界は、一点の穢れもない純白を背景に、僕を覗き込む一つの影を浮かび上がらせる。
「おはよう。いや、まだ違うか。まあでも、意識はあるみたいだ」
「……貴方は」
僕の顔を覗き込んでいたその影は、白いコートに身を包んだ一人の男だった。空から降り注ぐ眩しい光のせいで顔は分からないが、それでも僕は目の前の男に心当たりがあった。
以前、夢の中に現れた人だ。結局名前が分からずじまいで、別れることになった人。
「久しぶり、深月。また会えて嬉しいよ」
まるで親しい友人に語りかけるように、男は軽い調子で声を掛けてくる。その仕草や口調から、彼のコミュニケーション力の高さが窺えて、僕はほんの少しだけ身構えた。それでも、彼からは敵意のようなものは感じない。前に出会った彼のまま、ただ目の前に「居る」だけだ。
「僕も……です。また会える、って言われましたけど、なかなか会えなくて」
「夢だからね。お互い、思った通りにはいかないんだ。でも、今回は……君が随分と近付いてくれたみたいだから。ほら、前よりも身体の自由が利くだろう」
そういえば、前回とは違って僕の身体は僕の言うことをちゃんと聞いてくれていた。首も、目も、そして指の先に至るまで、身体が思った通りに反応する。
「うん。ちゃんと動いているね」
手指を動かす僕を見て、男は嬉しそうに微笑んだ。実際には顔が見えているわけではないが、確かに彼は影の向こうで笑っている。
「あの」
「ん?」
「ここは、どこですか」
質問を口に出しながら、僕は辺りを見渡した。一片の穢れも雲もない白い空も、地平線の果てまで続く黒い花畑も、現実ではあり得ない光景だ。息を呑むほど美しくて、けれどどこか単調な世界。そこに、僕たちは立っている。
僕の質問に、男はふむ、と息を吐いた。
「この場所を表現する言葉はいくつかある。あらゆるものが最後に流れ着く場所。あるいは、あらゆるものが始まる場所。そして、本来交わることのないものが出会う場所。その全ては正しいけれど、同時に間違ってもいる」
僕は思わず首を傾げる。男は「難しいよね」と笑いながら、その場に膝をつき、一面に生える漆黒の百合に手を添えた。
「でももし、僕がこの場所に名前を付けるなら――『果ての花園』かな」
男は、百合の細い茎に手を掛ける。その黒い線のような茎に、男は静かに力を込めた。
直後、ぶちん、と繊維が切れる音がする。地面に根強く咲いていたかの花は、瞬きの合間に男の手のひらに収まった。
「この場所は夢の中にありながら、ちゃんと実在もしている。けど、人が現実で至るには些か遠すぎるんだ」
「だから『果て』なんですね」
「うん。『果て』だ。でも、これは僕の中での名称でしかない」
男は黒い百合を空に掲げる。白い空を背景に揺れる黒い百合は、何処までも広い世界を収めた視界の中でも一際目立っていた。白と黒で構成された、この世界の何処かにある「果て」。それを象徴するように、百合は風に撫でられ揺れている。
「ねえ、深月。君は、この場所を見て何を思った?」
黒い百合が、そして影の向こうの彼の瞳が、僕のことを見つめた。フードの向こうから覗くのは、この世界には存在しない色だ。本来は頭上に広がっているべきその色は、男の双眸として目の前で輝いた。
息を呑む。ごくりと唾液が嚥下される音が、耳元で聞こえた気がした。百合の葉先が騒めく音に包まれながら、脳内で彼の質問を反芻する。
「僕は、美しいと思いました」
光を吸い込む黒い百合も、透き通るように白い空も、現実、つまり僕が普段暮らしている場所では見られない。現実離れしたこの風景に、僕は確かに見惚れていた。
「そう」
彼のお眼鏡にかなう回答ができたのだろうか。そんな不安に苛まれながら、僕は突然質問を投げかけてきた男のことを見つめ返した。
僕の言葉を聞き届け、男は僅かに目尻を下げる。温かな夜明けの光のように柔らかに細められる彼の瞳に、僕は思わず呼吸を忘れた。何故かは分からない。ただ、彼の瞳には、吸い込まれるような魅力があった。
「君が美しいと思うなら、きっとこの場所は美しいんだろうね」
風にコートを煽られながら、男は上空に舞い上がる黒い花びらを眺める。彼の言葉は何もない白い空に溶け、風によって遙か遠くへと運ばれていった。
「貴方は、ここのことをどう思うんですか」
先程から、いや、初めてこの場所で出会った時から、男の顔はいつも曇っていた。まるで何かを言いたげに、言いたいことを無理矢理飲み込んでいるような表情で、彼は僕の前に立っている。
「そうだね。僕にとって、この場所は……」
男は周囲を見渡した。黒い百合の丘を、真新なキャンパスのような空を。地平線の果て、あるいは世界の「果て」全てをその双眸に収め、そして、ここではないどこか一点をじっと見つめて、その瞼をゆっくりと閉ざす。それは、まるで目に見えた全てを拒絶するようだった。
「がらんどう、かな」
長い時間を掛けて彼が導き出した一つの言葉に、僕は何も言えなかった。どんな言葉を返すべきか。そんな風に考えているうちに、世界はだんだんと眩い光に塗りつぶされる。
どうやら、時間切れのようだ。
まだ聞きたいことがたくさんあった。話したいことも、知りたいことも、まだ一割も目的を果たせていない。彼の名前だって、まだ分からないままだというのに。
「……また、貴方と会えますか。現実世界のこの場所に、貴方はいますか」
白に染まる世界で、僕は目の前の男に声を掛けた。男は一瞬目を丸くして、そしてふ、と笑みを浮かべる。直後、一際強い風が僕らを吹き抜け、彼のフードを持ち上げた。
彼の細い糸のような髪の毛が、光の下に晒される。
眩い光を反射して。いや、彼の髪の毛は、降り注ぐ光と、そしてこの世界の空と同じ色彩で、ただキラリと風によって揺らめいた。
「ああ。僕はここに居る。それに、必ずまた会えるよ。現実世界の君が僕のことを忘れてしまっても。いつか、君と僕は再会する。その時はもっとちゃんと話をしよう。僕も君のことを知りたいからね」
僕の知る世界と、この「果て」の世界。両方の空の色で身体を染めて、彼は微笑む。
「だって……僕たちは、既に『縁』で結ばれているのだから」
意識が途絶える寸前。そう残された彼の言葉が、僕の思考を震わせた。歓喜とも、ある種の恐怖とも呼べるその感覚は、僕の現状を雄弁に物語る。
僕はもう、引き返せないところにいるのだと。
「――ねえ、起きてる? はあ、なんでこんなところで寝ているの。いくらなんでも、路上で寝られると困るんだけど」
そんな苦言と共に、大きなため息が僕の身体に浴びせられた。その声に、僕の意識が夢から覚める。
「ああ、本当に……でも、協会として見て見ぬフリはできないし」
若い女性の煩わしげな声がぶつけられ、僕は寝ぼけながらも身体を動かそうと身じろいだ。地面は石のように固く、ゴツゴツとしている。どうやら、いつのまにかコンクリートの上で眠ってしまったらしい。
「……さっさと起きなさい。通行人の邪魔になってる」
「ご、ごめんなさい」
女性の言葉に、ハッとして身体を起こす。重い瞼を持ち上げて、僕は慌てて立ち上がった。寝起きだからか身体が上手く動かせず、ふらりと視界が斜めに傾く。僕の身体が地面にぶつかるその前に、身体は何者かに引っ張られて平衡を取り戻した。
「ちょっと、危ないじゃない」
声の主に視線を向けると、そこに立っていたのは僕と同じ位の身長の女性だった。艶やかな亜麻色の長髪を高い位置で一つに結び、スラックススタイルの黒いスーツを身に纏っている。彼女が僕の身体を支えてくれたらしく、僕の二の腕をわしづかみにしていた。
「ありがとうございます。なぜか、身体がうまく動かなくて」
「……渡界ボケ? まあいいわ。ともかく、所属とIDを答えなさい。貴方の家まで送ってあげるから」
「ID、ですか?」
「そう。貴方も死神なんだし、持っているでしょ。それともなに、まだ寝惚けてるの?」
早く出して、と手のひらを向けられて、僕は困惑する。
そんなものは持っていない。というより、今彼女はなんと言った?
聞き間違えであるはずがなかった。彼女は確かに、「死神」と言ったのだ。
僕は突き動かされたように、周辺を見回した。僕と女性を囲う、野次馬の群れ。それはいい。ただ、その奥に広がる景色は、とんと見覚えがないものだった。
黒い木材で組まれた木造建築の数々に、道路にところ狭しと並ぶ屋台。長く続く道の向こう側には、新宿駅近辺にも引けを取らない、いや、それ以上の高層ビルが聳えている。そして、その更に向こうには――空を貫く、巨大な樹が生えていた。その大樹は枝や幹から目が眩むほどの光を放ち、墨を零したような空と大地を煌々と照らしている。その異様な光景に、僕は呆然と立ち尽くした。
ここは、一体何処なのだろう。
僕は東京に居たはずだ。事務所を出て、家に帰る途中だった。そこで、謎の白い男に話しかけられて――。
だんだんと、何が起こったのかを思い出していく。まるで埋められていたものを掘り返すように、あの時の出来事が記憶として明確にその中身を表した。
帰り道、僕はあの白い男に襲われて「門」に入れられたのだ。であるなら、この場所について言えることはただ一つ。
「ここは、冥界?」
「……まだ夢をみているようね。冥界以外のどこがあるのよ」
僕の言葉に、女性はあきれかえって息を吐いた。その瞳はおかしなものを見るように細められ、僕のことを訝しげに見つめている。
けれど、僕の脳内はそれどころではなかった。僕は死んだのか。どうやって戻れば良いのか。そもそも、あの男の目的は一体何だ。訳が分からず、やがて僕の頭はぷすぷすと煙を上げる。
「ちょっと。ねえ、呆けてないで、私の質問に答えなさい。貴方の所属とIDは?」
そんな僕を引き戻したのは、凜とした女性の声だった。僕はハッとして、彼女の方へと向き直る。よく見ると、彼女の襟元には僕が蓮花から貰ったものと同じピンバッジが輝いていた。
「……貴方も、協会に所属しているんですね」
「そうよ。でなければ貴方に話しかけないもの……って、「も」ってことは、貴方も協会の死神なの?」
僕が頷きを返すと、女性は淡い緑の瞳をきっと細める。嫌悪感を隠しもしないその目つきに、僕はごくりと息を呑んだ。
なにか不味いことを言ってしまったのだろうか。
額に汗が伝うのを感じながら、僕は女性の次の行動を窺う。叱られるか、怒られるかは分からないが、女性からはただ事ならぬ雰囲気が漏れ出ていた。
しかし、意外にも女性は僕の予想を裏切って、ため息交じりに「さっさと来なさい」とそのポニーテールを翻す。僕はあっけにとられて、彼女のすらりと伸びた背中を眺めた。
「なに突っ立てるの。本部に戻りましょう」
本部というのは、きっと死神協会の本部のことだろう。そこに行けば何かが分かるかもしれないし、上手くいけば東京支部と連絡が取れるかもしれない。少なくとも、訳の分からない冥界の下町でぼうっとしているよりもマシなのは確かだ。
「早く来ないと置いていくわよ」
「は、はい」
僕は遠ざかっていく彼女の背中を追いかけて、その場から慌てて駆け出した。




