Episode9「冥界と交わりて」①
「なあ、九月の中旬って暇?」
「……突然電話がかかってきたと思ったら。うん、今のところは暇だけど」
八月も末に差し掛かり、去年までであれば「夏休みが終わる!」と宿題に追われていた頃、翔から思い出したように電話がかかってきた。自宅で横になりながら電話を取れば、夏バテなど知らないと言わんばかりの翔の声が聞こえてくる。
「よし。じゃあ、どっか遊びにいこうぜ」
翔はよく電話を使う。メッセージアプリを入れているはずなのに、何故か電話というツールを好む。その理由を聞いたことがあるが、その理由は至って単純だった。
返信を待つのがじれったいから、と。
せっかちで、人との交流を好む翔らしい。一方僕はよくメッセージを溜め込むクセがある。だからこそ、翔の時折強引なところには助けられているのだが。
「いいよ。で、どこに行く?」
「んー、夏を謳歌するか、避暑地に逃げるか……俺は海見に行きたい。まだ免許証持ってないから、電車か飛行機か、交通の便が良いところだな」
――海か。
夏と言えば、やはり山か海になるのだろう。
頭の中で思い浮かべるのは、青い空、白い砂浜。ごった返す人々の群れ。
そして、海辺を所在なさげにぶらつく霊。
山も同じようなモノだが、大自然というのは相当数人間を喰っている。だからだろう、都市部は勿論、自然豊かなところにもそれなりに霊は見かけるものだ。それは仕方のないことではあるけれど、正直気になって遊ぶどころではなくなってしまうのが今までの常だった。
でも、今は違う。
僕には武器があり、それなりに実戦もこなしている。悪霊に襲われたとしても対処できるし、善霊の葬送も大掛かりなものでなければ可能だろう。霊に怯えなくて済むようになったのは、間違いなく死神見習いとして働き始めて実感した恩恵の一つだった。
「どうだ? 深月はどっか行きたいとこある?」
「そうだな……僕も海行きたい。それと、海鮮も食べたいかな」
電話の向こうで、翔が「海鮮!」と喜びの声を上げる。その声を聞いて、僕は思わず笑みが零れた。
せっかく自衛の力を手に入れたわけだ。ほんの少し大学生活を楽しんでもいいだろう。口座の残高にも余裕はあるし、どうせなら行きたいところにいって食べたいものを食べる方が絶対に楽しい。
「九月中旬の海水浴場なら、三浦海岸とかだろうな。ハイシーズンを避けるなら、殆どの海水浴場が閉まるだろうし」
「三浦海岸なら、少し奥まで行って三崎港で鮪食べてもいいと思うんだけど」
「お、いいなそれ」
少しずつ、夏の一大イベントの予定が決まっていく。何処で集まるか、どんな店があるのか、何をするか。その度に、トレーニングと死神業で終わると思っていた僕の夏休みが、大学生らしい色に染まっていくような気がした。
けれど、もう既に僕の日常には世間一般的に非日常と呼ばれるものが染みついている。
翔と電話をしている時、ぴこん、とメッセージアプリからの通知がきた。
――ルカからだ。
そこに並んだ文字列を見て、僕ははっと息を呑む。
「ごめん、翔。詳しい話は後ででもいいかな。ちょっとバイト先から呼ばれてて。良い店見つけたらURL送っとく」
「了解、バイト頑張れよ」
通話終了を知らせる音が鳴ったのを確認して、僕は壁に掛けていた借り物のジャケットをつかみ取った。机の上に置いていた鍵を鞄に突っ込み、慌てて玄関の扉を開ける。強い日射しが眼球に刺さり、湿度の高い空気に包まれて身体からぶわりと汗が吹き出した。けれど、僕は気にせずにアパートの階段を駆け下りる。
改めて手に握ったスマホの画面を見てみれば、そこには更新されたルカとのメッセージ画面が映っていた。
『はやくきてくれ』
その文字が、先程送られてきたメッセージと共に視界に入る。不安と暑さで頭痛と眩暈を覚えながらも、僕は大急ぎで駅に続く道を蹴った。
「大丈夫ですか!」
突き破る勢いで事務所のドアを開け、僕は事務所に飛び込んだ。
そして、目に入ってきた光景に――僕は絶句する。
事務所に置かれた客人用のソファ。そこに、二人の人影があった。一人は、濡鴉色の長髪をサイドに流し、その流線的な肉体を強調するようなピッタリとした黒スーツを身に纏った女性。そしてもう一人は、そんな女性にのしかかられ、あげく襟元のネクタイを引っぱり上げられて、今まで見たことが無いほどに慌てているルカだった。
「全く。勝手に色んな問題を引き起こして。その首のリードは一体誰が握っているのかしら。それとも、貴方は相変わらず野良犬のままなの?」
「反省してる! 反省してるから! だから上に乗らないでくれないか!」
「反省文を書きなさい。そして私に提出しなさい。ついでに仕事を増やしたお詫びにお菓子を献上することね」
「わかった、書く。書いてお菓子も作るから、とにかく早く降りてくれよ。こんなところ見られたら……あ」
その時、ようやくルカの蒼色が女性を挟んで僕を捉える。その目には「まずい」という焦りと「助けて」という懇願が含まれていたが、僕はそれからそっと目を逸らした。
「……職場で何をしてるんですか」
「深月。それは誤解だ。しかもどう見たって俺が襲われてる」
「あら。誰が誰を襲っているって? こうなった原因は一体誰のせいかしら」
女性の一言に、ルカが分かりやすく押し黙る。ここまで追い詰められたルカは初めて見た。恐らく、この女性はただ者ではないのだろう。
――『たすけて』『はやくきてくれ』とルカに泣き言を言わせる位には。
女性は動揺したルカを一瞥して、満足げに笑顔を浮かべた後、その体勢を整えて僕に向かって手を差し出した。唇にひかれた赤い口紅が演出する妖艶な笑みに、僕はごくりと息を呑む。
「初めまして。貴方が日野深月ね。貴方のことは紅夜から聞いているわ」
「ど、どうも」
女性の目は紫色に輝いて、僕のことを見定めるように見つめ回した。その視線にもどかしい気分になりながら、僕も女性のことを観察する。艶やかな黒髪は腰まで伸ばされ、そのヒールは人を射抜けるほど鋭い。豊満な胸はいまにもワイシャツのボタンを弾き飛ばさんとしていて、だというのにその立ち姿にはある種の風格と威厳があった。
彼女を一言で表すなら、きっと「セクシー」なのだろう。けれど、それだけでは終わらない威圧感を彼女は持っていた。
しかも、あの覡を「紅夜」呼びしている。恐らく、協会としての立場も決して低いものではないはずだ。例えば、支部長よりも遙かに上の職位であるとか。
「……へえ。話には聞いていたけれど、実際に目にすると面白いものね。生と死がここまで共存するなんて。生きた死神――紅夜は貴方をそう称したけれど、言い得て妙とはまさにこのことだわ」
ふん、と鼻を鳴らしながら、女性は興味深そうに目を細めた。ヒールをかつん、と馴らしながら、彼女は僕にその顔を近づける。髪からふわりと花のような良い香りがして、そして彼女の身体が自分に触れてしまう気がして――僕は、先程のルカの心情を理解した。
確かにこれは、「たすけて」と言いたくなってしまう。
「あまり深月を困らせるな、蓮花」
その時、救世主の声が僕の背中にぶつかった。どうやら巡回から帰ってきたらしい覡とクロトが、玄関先に立っていたのである。
「ごめんなさい、つい気になってしまったの。あの紅夜が引き入れた新メンバーは一体どんな子なのか、ね。そして、そちらの小さなお嬢さんが……」
「はじめまして、クロトだよ」
「事情は全て話したとおり。早急に深月の分と合わせて協会に登録してくれ」
蓮花と呼ばれた女性は、覡の催促にあからさまに顔を歪めた。そして、大きなため息をつきながら勢いよく上座のソファにもたれかかる。ばふり、とソファを軋ませて、彼女はローテーブルの上のティーカップに指を掛けた。
「簡単にいってくれるわね、紅夜。監査局の上層部とのやりとりも、何もかもを放り出しておいて。ただでさえ『生きた死神』の対応で大変だというのに、次は元『顕界の番犬』なんて……こんなイレギュラー、滅多にないのよ」
「助言はしているはずだが」
「ええ。おかげさまでうまいこといっている。そこの坊やの登録はもう済んだし、クロトも監査局が許可してくれたから思ったよりも早く登録できるでしょう。けれど、最近は本当に議員が五月蠅くて」
どうやら随分とストレスが溜まっているらしい。まるで酒を一気飲みするかのようにティーカップを傾け、蓮花は喉を鳴らしながら紅茶を飲み干した。
「……まあいいわ。とにかく、今日は渡さなければならないものがあってここにきたの。深月、ちょっとこちらにおいで」
蓮花の手招きに、僕は恐る恐る彼女の向かい側のソファに腰掛けた。傍らにはルカと覡、そしてクロトがたっていて、僕たちのことをじっと見つめている。僕が蓮花に向き直ったのを蓮花がみとめると、彼女は懐から手のひらサイズの台座を一つ取り出した。その台座には天秤のような意匠が印刷されている。
「……我が主が定めし『エクオモルス』の名の下に、汝の存在を冥界に証明せん。東ユーラシアの調停者――蓮花が命ずる。日野深月。『規律』を重んじ、死して得たその力をもって、顕界の平穏のために尽力せよ」
蓮花が瞼を閉じて言葉を紡いだ。すると、その台座の上にたちまち黒い光が現れる。その光は次第に強くなり、やがて台座の上で集束して、台座には一つの小さなピンバッジが残された。艶やかに黒光りする、台座の意匠と同じものを刻んだそれは、整えられた黒のマニキュアに彩られた蓮花の指によって摘まみ上げられる。
「さあ、手を出して」
突然の儀式にあっけにとられていた僕は、蓮花の声に正気を取り戻し、慌てて彼女の前に両手を差し出した。蓮花は花が綻ぶような笑みを浮かべながら、僕の手のひらにそのピンバッジを優しく乗せる。僕はその小さなピンバッジを眺め、そして蓮花の柔らかな笑みを湛えた顔を見つめ返した。
「これは」
「貴方が協会の死神である証拠。これがあれば冥界と顕界を行き来することができるし、協会の施設も自由に使用することができる」
「お前はまだ仮契約ではあるが、死神であることには変わりない。協会の承認があるに越したことはないだろう」
「所長が前から言っていた『身分証明書』ってやつだよ。あるのとないのとじゃ、受けられるサービスとかが変わるからね」
「なにそれ、お兄ちゃんかっこいい!」
口々に言葉を並べ立てられ、僕の頭は混乱する。
つまり――僕は今、正式に死神である証拠を得たということだ。目の前に佇む、東ユーラシアの調停者の承諾を受けて。
―――調停者?
「……あの。ちょっと聞きたいんですけど。蓮花さんって」
僕は内心汗をかきながら、ソファで呑気に紅茶のおかわりを注ぐ蓮花に訊ねた。すると、蓮花は思い出したようにはっと顔を上げ、その背中をピンと伸ばす。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。……改めまして。私の名前は蓮花。東ユーラシア死神協会の会長であり、東ユーラシアの調停者。つまりトップよ。よろしくね」
そう言い放った彼女は、自身が言っていることが本当になんでもないことのように、からりとその顔に花が綻ぶような笑顔を浮かべた。




