最終章 盤上の奇跡
「世界ペア・チーム選手権」。日本代表の選考は、ファン投票と、協会長の承認で決まる。
結果発表の日、会議室はざわついた。
ファン投票、堂々の一位。凪野静九段。
実力主義の観点から、会長が承認しなければ無効という規定がある。幹部たちは、祈った。
荒木会長は、紙を掲げて立ち上がった。
「無効にするわけねえだろ! 俺の直感が言ってる。彼女こそ、世界をひっくり返す秘密兵器だ! 大将に据える!」
幹部たちは、そろって崩れ落ちた。
周囲は、こう解釈した。大将戦は捨てる作戦だ。世界の強豪が大将に集まる以上、静先生に当てて、他の席で勝つ。冷静な戦略である。静本人も、そう思った。お茶を淹れる係かしら。水筒を二本、持っていくことにした。
日本代表の五人。先鋒、倉橋みやび初段、十六歳。次鋒、金子八段。中堅、氷室蓮名人。副将、小林健吾九段。大将、凪野静九段。
決勝の相手は、大陸の強豪。大将は、世界王者・蒼浩然。最新のAI流を極め、七年間、無敗の怪物だった。
先鋒戦。倉橋は、全身を震わせながら、盤の上で歯を食いしばった。(怖い。怖い。でも、凪野先生は、私の怖さを笑わなかった)。半目で、勝った。一勝。
次鋒戦。金子は、対局室に持ち込まれた中華まんの匂いに耐えきれず、読みを乱して敗れた。一敗。
中堅戦。氷室は、まるで先生に見られているような気迫で、強敵を押し切った。二勝。
副将戦。小林は、最後の一手まで粘った。そして、半目で負けた。二敗。
二対二。決着は、大将戦に託された。
小林は、副将戦のあと、対局室のガラスの外へ出た。放送席が、空いていた。荒木会長が、にやりと笑って、親指で指した。
「お前、解説に回れ。静との予想勝負、ここでやるんだろう」
「会長……」
「面白えだろうが」
小林は、マイクの前に座った。
大将戦。静は、蒼浩然の前に座った。
その瞬間、頭の中が割れそうになった。
蒼の頭には、何億通りという計算が、絶え間なく流れていた。勝つ。勝つ。勝つ。負けは、存在してはならない。狂気に近い、凍った純度だった。
鏡が、反応する。静の手が、蒼のそれに同調していく。冷たい。速い。正確すぎて、息が詰まる。
過去が、よみがえりそうだった。
九歳の部屋。誰かの本音。世界の悪意。割れていく、心。
静は、盤の前で、目を閉じかけた。
——そのとき。
防音ガラスの向こうから、声が届いた。音ではない。いつもの、ノイズだ。
(先生、怖くても、打ってください。僕は、あなたの石音が好きです)氷室。
(パフェが、食いたい。早く帰ろう)金子。
(面白え! どう転ぶか、わかんねえ! 最高だ!)荒木。
(先生、怖いときは、同じ顔になるんですよね。私、ここにいます)倉橋。
そして、放送席の、小林。
(静。静。静)
その声は、三十年分あった。
彼女がずっと遮断してきた、好意のアクセスが、ガラスの向こうで、ずっと鳴っていた。笑われても、大人気ないと言われても、勝てなくても、三十年、鳴り続けていた声だった。
静は、初めて、その門を、少しだけ開けた。
——温かい。
痛くなかった。壊れなかった。ただ、お風呂の湯のように、胸の奥が、じんわりとあたたまった。
放送席の小林は、マイクの前で、予想を述べていた。
「静は、ここでは打たない。……いや、静は、ここで打つ。……いや、違う、静の次の一手は——分からない」
放送席が、ざわついた。小林は、笑った。
「三十年、予想を外し続けてきた。今日初めて、予想できないことが、嬉しい。静。おまえの碁を、見せてくれ」
静は、盤を見た。
鏡は、いつも、相手を映した。でも、今日は、違った。鏡の奥に、みんなの声が並んでいた。三十年間の、自分の全棋譜。負けた碁。勝った碁。半目の、ひとつひとつ。
彼女は、鏡をブレンドした。受け身の鏡ではない。自分の意志で、仲間の想いと、過去の自分を、一本に束ねた。
そして、最善の、その先へ。
AIの評価値で言えば、悪手だった。蒼の頭に、警告が走った。(勝率、マイナス三パーセント。なぜ、この手を)
計算の世界に、存在しない一手だった。人間にしか打てない、意志の一手。
蒼の手が、止まった。何億通りの計算の先に、その手への返答は、なかった。
盤上に、静かな時間が流れた。やがて、終局。
半目。静の勝ちだった。
世界は、息を呑んだ。放心する蒼に、静は、深く礼をした。
「ありがとうございました。とても、いい碁でした」
蒼は、ゆっくりと顔を上げ、なぜか、涙ぐんだ。
「……あなたの碁は、冷たくなかった」




