エピローグ 半目の日常
表彰式のあと。静は、控室で、水筒の緑茶を紙コップに注いだ。
「あらあら。結局、お茶を淹れる係でしたねえ」
そこへ、小林が入ってきた。顔が赤い。
「静。……今日の予想勝負は、俺の負けだ」
「ええ。小林くんは、今日も全敗ですね」
「その、だな。勝ったら、言おうと思っていたことがあって、でも勝てなかったから、その、言えないんだが」
「小林くん」
静は、紙コップを置いた。
「三十年、待たせましたね」
小林は、固まった。
「聞こえましたよ。さっき、ガラスの向こうから。三十年分、いっぺんに」
静は、にっこり笑った。
「予想勝負に勝ったら、なんて、私は聞いていませんよ。あなたが、勝手に決めたルールでしょう? だから、私のほうから、先にお返事しますね」
「し、静……」
「帰りに、美味しいパフェでも食べていきましょうか。……お返事の続きは、そのあとで」
小林の顔が、くしゃくしゃになった。涙と笑顔と鼻水が、いっぺんに出た。
「お、おう! 奢らせてくれ!」
廊下の外で、氷室と金子と倉橋と荒木会長が、聞き耳を立てていた。
「聞こえたぞ!」「静先生が!」「パフェ!」
会長が、豪快に笑った。
「面白えじゃねえか!」
数日後。日本棋院の対局室。いつもの静かな午後。静は、正座して、お茶を淹れていた。
対局の相手は、新しく入った、小さな初段。ガタガタ震えながら、盤の前で固まっている。
静は、にっこりと微笑んだ。
「こちらこそ。お手柔らかにね」
相手の頭の中が、聞こえる。怖い。逃げたい。負けたらどうしよう。
静は、そっと、お茶を差し出した。
「大丈夫。半目でいいんですよ」
その日の対局も、静は、ぴったり半目で勝った。
個人のタイトルは、今日もゼロ。世界一の大将は、今日も、おっとりと緑茶をすする。
——彼女の、平穏で愛おしい五十一パーセントの日常は、これからも続いていく。
(完)




