第五章 盤上の筋肉
「プロ棋士は体力勝負だ!」
荒木会長の一声で、「スポーツ囲碁選手権(通称・マッスル碁)」が新設された。ルールは単純だ。ペア碁で、一手ごとにスクワット十回。二人で交互に打ち、交互に屈伸する。
「碁は面白い。筋肉も面白い。ならば合わせて、面白さ二倍だ!」
幹部たちの胃痛は、この日、最高潮に達した。
静は、無理やりエントリーさせられた。パートナーは、小林九段。
「静の分は、俺が受ける!」
翌日から、小林の筋トレが始まった。ベンチプレス。スクワット。朝はプロテイン。小さな体育館は、プロテインの匂いと、筋肉の悲鳴で満ちた。
(きつい。きついが、静のためだ)
(静が見てる。静が見てる。腹筋)
小林の頭の中は、筋肉と愛の叫びで騒がしかった。もちろん、静は、愛の部分は聞こえないようにしていた。ただ、筋肉の悲鳴は止められなかった。
それでも二人は、勝ち進んだ。氷室名人のペアにも、金子八段のペアにも、静が半目だけ勝つ形で競り勝った。
決勝の相手は、荒木会長自身が率いるペアだった。パートナーは、秘書の岡田さん。元アマ強豪だ。
会長の碁は、一手目から、おかしかった。定石を無視する。形を無視する。ただ盤面を見て、「面白そうなところ」に置く。
静は、盤の前で、頭を抱えそうになった。会長の頭の中には、読みがなかったのだ。
(お、ここか? ここだな! なんか、そんな気がする!)
勘。直感。それだけ。鏡に映すべき、予想も、恐れも、悪手もない。静の合わせ鏡にとって、いちばん苦手な相手だった。
小林は、スクワットの限界で息も絶え絶えだ。
「静……すまん……脚が……」
局面は、静たちが不利になっていた。会長が、盤の中央で、とんでもない一手を打った。意味が分からない。誰にも、意味が分からない。
そのとき静は、会長の頭の中を、もう少しだけ、深く覗いた。
——楽しい。
それだけだった。
(おもしれえ! 碁って、面白えなあ! 次はどうなる! どうなるんだろうなあ!)
悪意が、ひとつもなかった。嫉妬もない。見栄もない。勝ちたい気持ちさえ、ほとんどない。ただ、子供のように、盤上の世界が楽しくてたまらないのだ。
かつて自分を壊した、あの悪意の海とは、真逆だった。
静は、胸の奥の何かが、ふっとほどけるのを感じた。
——ああ。こんな頭の中も、あるのね。
静は、石を置いた。鏡を映すのではなく、会長の「楽しい」に、自分の心をそっと重ねた。
その手は、会長の直感のさらに先にあった。盤面の誰もが、思わず笑ってしまうような、やさしい一手だった。
観客席から、拍手が起きた。体育館中が笑っていた。小林も、スクワットを忘れて笑っていた。
終局。半目。静たちの勝ちだった。
「面白ええ! 負けた! もう一局やろう!」
会長は、子供のように手を叩いた。
静も、つい、声を出して笑ってしまった。人前でこんなふうに笑ったのは、何十年ぶりだっただろう。




