第四章 盤外の饗宴
対局中の昼食やおやつが公開され、「何を食べたか」と「勝率」がファンの間で結び付けられるようになった。棋士たちが目をつけたのは、そこである。
相手の食欲を操れば、勝てる。
対局場は、すぐに混沌の戦場になった。カツカレー。鰻。豚骨ラーメン。焼き立てのパンの匂い。誰かがわざと、廊下で焼き肉を始めた。
静の対局日。相手は金子八段、四十五歳。実力派の守りの碁だが、半年前から糖質制限中という噂だった。
解説席には、今日も小林九段。
「今日の静の昼食は、あっさりした蕎麦に決まっている」
彼は、マイクの前で、ひとり決意を固めていた。
(静、蕎麦だぞ。蕎麦を頼め。念を送るぞ。勝ったら、今夜こそ、告白だ)
対局室の静は、頭を抱えそうになっていた。
金子八段の頭の中は、食欲の洪水だった。(カツカレーの油が脳に回る! ……次はモンブランか、抹茶パフェか! いや、だめだ、糖質制限が!)
そして、画面の向こうの小林の、熱すぎる念。(蕎麦だ。蕎麦を頼め静)
ダブルノイズだ。静は、お茶をひとくち、すすった。
昼食の時間。対局者は、それぞれ注文を告げる。解説席では、小林が張り切って予想した。
「金子八段は、フルーツ盛り合わせ、でしょう。静は蕎麦」
カメラが対局室を映した。静は、控えめに手を挙げた。
「私の三時のおやつ、あちらの先生の分も合わせて、特大いちごチョコレートパフェを、二つお願いします」
金子八段が、むせた。
(なぜ。なぜ、バレた。パフェを我慢していること)
(ダメだ、食べちゃダメだ。でも、いちごが……チョコが……)
十五分後。盤の横に、巨大なパフェが二つ運ばれてきた。金子の読みは、粉々になった。ひと口、またひと口。糖が脳に回る。静の手は、そこで淡々と、半目だけ差を付けた。
終局。静の半目勝ちだった。
解説席では、小林が崩れ落ちていた。
「蕎麦じゃなかった……フルーツ盛り合わせでもなかった……」
控室で、静は、自分のパフェを小林に差し出した。
「はい、お裾分け。昔から、パフェが好きだったでしょう?」
小林は、スプーンを持ったまま固まった。
「……覚えてたのか」
「ええ。三十年前から」
静は、にこにこしていた。心の奥の、好意のアクセスは、今日も遮断したままだった。彼がなぜ顔を赤くしているのか、本当に、分かっていなかった。




