幕間 四十九パーセントの朝
その日の対局相手は、新初段だった。
倉橋みやび、十六歳。入段したばかりの、小柄な女の子。公式戦の初対局が、よりによって、囲碁界のマスコットだった。
「よ、よろしくお願いします……!」
声が震えている。盤の前で正座したまま、背中が硬い。
静は、いつものように、優しく微笑んだ。
「こちらこそ。お手柔らかにね」
そのときから、聞こえていた。
(どうしよう)
(負けたらどうしよう)
(変な手を打ったら終わる)
(逃げたい)
倉橋の頭の中は、恐怖の洪水だった。読みも、構想も、ほとんどない。あるのは、盤の前で固まった心だけだった。
静の鏡は、それをそのまま映した。
静の手が、わずかに震えた。
——ああ、これは。
静は気づいた。相手が強ければ、鏡も強くなる。相手が怯えていれば、鏡も怯える。そうして、この三十年、勝率はいつも五割一分に落ち着いてきたのだ。
石を置く手が、遅くなる。倉橋の手も、遅い。二人で、びくびくと、盤の上を進んでいく。
解説会場では、小林が青くなっていた。
「静、おまえ……」
終局。結果は、倉橋の半目勝ちだった。
しばらく、盤の前で誰も動かなかった。倉橋が、ぽろぽろと泣き出した。
「す、すみません、勝っちゃって、すみません……!」
「謝ることなんて、ひとつもありませんよ」
静は、お茶を淹れて、倉橋の前に置いた。
「半目でしたね。あなたの半目のほうが、強かったんです」
「でも、先生は……私と、同じくらい、怖がってました……」
静は、驚いた。それから、ふふっと笑った。
「そうねえ。怖いときは、みんな同じ顔になるのねえ」
倉橋は、しゃくり上げながらお茶を飲んだ。静は、その肩をそっと叩いた。この子のノイズは、少しも嫌ではなかった。あの日の自分と、同じ音をしていたから。
その夜、小林が控室に駆け込んできた。
「静! 大丈夫か! 新初段に負けたんだぞ!」
「小林くん。私、四十九パーセントは、負けるんですよ」
「そういう問題じゃ……」
「でも、今日は、とてもいい負けでした」
静は、おだやかに笑った。
「負けるのは、いつものこと。でも、怖くなかったんです。負けても、世界は壊れないのね」
小林は、言葉を失った。
翌朝、台所で緑茶を淹れながら、静は窓の外を見た。負けた朝は、少しだけ、空が広かった。
連盟の廊下で会長とすれ違うと、荒木は、にやりと笑った。
「聞いたぞ。いい負けだったそうじゃねえか」
「あらあら。ご存じなんですか」
「お前の負けは、俺の勝ちの予感なんだよ」
会長は、そう言って豪快に笑った。




