第三章 石音の研究
「いい音で石を置くほど、勝率が上がる」
噂の出どころは、誰も知らない。相手が驚くからかもしれないし、自分の気分が乗るからかもしれない。ともかく、棋士たちは真顔で研究を始めた。指の角度。振り下ろす速度。盤との距離。道場では、一手ごとに「パチーン!」という破裂音が響き、近所から苦情が来た。
氷室蓮名人は、その最先端にいた。
「静先生。僕の、洗練されたフォームを見ていてください」
名人戦第三局。氷室は、テレビ解説に静を直々に指名した。メイン解説は小林九段。いつもの、熟年夫婦のコンビだ。
対局は中盤。氷室の石音は、確かに美しかった。澄んで、鋭くて、まるで鈴のようだ。
解説席で、小林が真剣な顔で手を挙げた。
「ここで氷室名人が打つのは、隅の大場。私はそう予想します。……静、予想勝負だ。おまえは?」
静は、お茶を一口すすった。氷室の頭の中が、聞こえていた。
(どうだ! 今の音、美しかったはずだ! 先生、見てましたか!? 次は、もっと美しい音で、あの隅に)
静は、碁盤を見た。氷室が置こうとしている隅は、どう見ても、死に地だった。大悪手だ。ただの、浮かれた子供の手だ。
「氷室名人は、その二つ左の隅に、置きたがっていらっしゃいますね」
静は、マイクに向かって微笑んだ。
「素敵な音になりそうですわ」
放送席の空気が凍った。対局室の氷室は、手を止めた。(聞こえた? 僕の心が? 先生に、全部、バレてる?)。動揺した指から、石が滑る。ぱち、と静かな音がして、石は、予告された死に地に落ちた。
解説席で、小林が頭を抱えた。
「なんで死に地なんだ! 私の予想は大場だぞ!」
「小林くん、また負けましたねえ」
しかし、そこからが本番だった。氷室は、盤を見つめたまま動かなかった。
(……待て。この死に地、捨て石になる)
天才の頭が、猛烈な速度で回り出した。大悪手に見えた一手が、二十手先で、敵の大石を飲み込む罠の起点になる。偶然のはずが、どこから見ても完璧な、ハメ殺しの筋が見えた。
氷室は、微笑んだ。二十手後。相手の大石は、死んでいた。
インタビューで、氷室は涙ぐんだ。
「僕を、真の着手へ導いてくださったのは、解説席の、あの方です」
カメラが、解説席に向いた。静は、おせんべいをかじっていた。
「あら。いい音でしたねえ」
その夜、SNSには「死に地の予言」というタグが流れた。




