第二章 榧の声を聴く
蛤騒動のあと、囲碁界に妙な流行が来た。禅である。
「大事なのは、盤を打つ前に、心を無にすること」
言い出したのが誰か、もう分からない。ただ、半年後には数十人の棋士が「碁盤の材料である榧の木と心を通わせる」ために、山に籠もっていた。
「連れ戻してきてくれ」
荒木会長は、秘書を通じて静に頼んだ。
「ついでに、生配信もやってくれ。再生数が稼げる」
「あらあら」
静は、お茶と羊羹を持って山に登った。同行は、スマホを構えるカメラ係の小林九段。理由を聞かれると「たまたま暇だった」と答えた。顔は真っ赤だった。
山の中腹には、巨大な榧の古木の林があった。その根元で、白装束の棋士たちが、正座で木に向かっていた。
「榧よ、我に語れ……」
氷室名人も、そこにいた。木に額をつけて、ぶつぶつ唱えている。(先生に勝つ。先生に勝つ。先生に褒められたい)。静の頭には、お経のような念が流れ込んでくる。頭が痛い。
「氷室さん、お昼にしませんか」
「静先生! 今、榧が『君の碁は硬い』と!」
「それは、お腹の虫じゃないかしら」
「いいえ、確かに木の声です! 先生、一局お願いします。この山の、榧の碁盤で。木の記憶ごと、いただきます!」
話が飛んだ。
山の奥には、榧の碁盤が一面、祀ってあった。守り人は、八十八歳の樫村老人。代々この山の榧を守り、その盤で打たれた棋譜を口伝えで継いできた家の当主だった。
静は、老人の隣に腰を下ろした。
老人の頭の中は、不思議なほど静かだった。三百年ぶんの棋譜が、子守唄のように、一手ずつ整然と並んでいたからだ。江戸の名人の妙手。烈火のような打ち回し。誰も知らないはずの、幻の一局。
ここだ、と静は思った。ノイズから逃げる場所は、ここしかない。
彼女は、老人の頭の中の碁盤へ、意識を流し込んだ。
「では、お願いしますね、氷室さん」
対局が始まった。氷室は、現代最強の若き名人だ。読みは鋭く、構想は大きい。だが静の一手は、時折、彼の知らない匂いをしていた。江戸の定石。幻の筋。老人の中の三百年を鏡に映し、静はそのまま、盤の上に落としていく。
氷室の額に汗が浮いた。
「これは……! 先生、まさか、木の記憶と……」
「あらあら」
静は微笑んで、石を置いた。終局。ぴったり、半目。静の勝ちだった。
氷室は、盤の前で崩れ落ちた。
「静先生は、本当に榧の木と対話して、過去の棋聖を降ろされたんだ……!」
配信のコメント欄は、「神」「降臨」「再生数ありがとう」で埋まった。
人々が山を下りたあと、樫村老人が、静にだけ聞こえる声で言った。
「お嬢さん。聞こえておったな」
静は、少し驚いて老人を見た。
「木は、喋らんよ。覚えとるのは、わしじゃ」
「……存じております」
静は、羊羹を老人に分けた。
「でも、とても静かで、いい頭の中でした。ありがとうございます」
老人は、皺だらけの顔で笑った。山の風が、榧の葉を鳴らした。誰もそれを、木の声だとは、もう言わなかった。




