第一章 白い石の値段
その年、日本の碁盤から、白が消えかけた。
白石の材料は蛤だ。それが歴史的な不漁で、石一粒の値段が若手棋士の月給に迫り始めたのである。
「獲りに行くぞ!」
日本棋院の大会議室で、荒木剛三会長が机を叩いた。六十五歳、九段。モットーは「面白ければヨシ」。幹部たちが一斉に胃を押さえた。
「会長、海は囲碁の管轄では……」
「碁石は海から来る。海は碁盤の一部だ!」
誰も反論できなかった。反論するより先に、若手もベテランも「俺が行く」「私も」と手を挙げ、漁船が三隻チャーターされてしまったからだ。
出港の朝、港には人だかりができていた。
「静先生! 精神的支柱として、ぜひ!」
氷室蓮名人が、深々と頭を下げている。二十八歳、現名人。囲碁界の若き頂点が、なぜか救命胴衣を二枚重ねで着ていた。
「あらあら。お船は久しぶりねえ」
凪野静九段は、おにぎりを三つ握り、水筒に緑茶を詰めて、ピクニックの足取りで乗り込んだ。四十九歳。女性二人目の九段。タイトル獲得はゼロ。それでも「囲碁界の癒やしのマスコット」として、全世代に愛されている人である。
「静。ついでに予想勝負だ」
舳先で腕を組んでいたのは、同期の小林健吾九段だった。
「次に網から上がるのは貝か、ゴミか。当てた方が勝ち」
「小林くんは、いつも急ねえ。……貝ですよ。三郎さんは、貝のつもりで引いてますから」
「三郎さんって誰だ」
網を引く老漁師が、無言で片手を上げた。網が上がる。蛤が二つ。そのあとは、ゴミの山だった。
「貝だけど数が少ない! 引き分けだ!」
「小林くん、それはずるいですよ」
「大人気ないぞ小林ー!」
若手たちの野次が飛ぶ。小林は真っ赤な顔で網のゴミを睨んだ。三十年続く予想勝負は、三十年間、静の全勝である。
それより静を苦しめたのは、船そのものだった。
屈強な棋士が三十人、狭い甲板にひしめいている。みんな「俺が一番獲る」という熱気で頭がいっぱいで、その熱が、ひとつ残らず静に聞こえる。(見てろよ蛤)(吐きそう)(静先生にいいところを)。雑音の嵐だった。
静は、船の隅に逃げ込んだ。目を閉じ、頭の中に碁盤を広げる。目隠し碁だ。黒と白の世界に意識を流し込めば、ノイズは、やがて静かになる。
そうして頭が澄んだとき、ふと、船の反対側から、ひとつだけ、驚くほど静かな声が聞こえた。
老漁師の、三郎さんだ。
言葉になっていない。潮の匂い。風の向き。水の色が変わる、あの線。(今日は、あの黒いところ)。長年の勘だけが、碁石のように整然と並んでいた。
「あの……」
静は、目を開けて、舳先の向こうを指した。
「あっちの黒い波の境目に、石を置いたら、いい音が響きそうですねえ」
棋士たちが顔を見合わせた。意味は分からない。分からないが、静先生が言うのだ。船は、黒い波の境目へ向かった。
網を入れる。引く。重い。三十人がかりで引いた。海面が、白く波立った。
蛤の山だった。船倉に入りきらず、甲板まで溢れた。囲碁界の石不足は、その日で終わった。
「盤上だけでなく、海の流れまで読んでいらしたなんて……!」
氷室名人は泣いていた。若手たちも泣いていた。小林は「まだ予想勝負は終わってないぞ」と、なぜか海に向かって叫んでいた。
当の静は、おにぎりを頬張って首をかしげる。
「たまたまですよ。三郎さんの頭の中が、いちばん静かだったから」
誰も、その意味を聞き返さなかった。大物は、いつも謙遜するものだ。全員が、そう思い込んだからだ。




