プロローグ 黒と白のシェルター
あれは、凪野静が九歳の秋のことだった。
最初は、教室のざわめきが少し大きく聞こえるだけだった。それが、一週間で変わった。
隣の席の子が笑顔で「おはよう」と言う。その胸の奥から、別の声が聞こえる。(あいつ、また同じ服だ)。担任が優しく褒める。(早く終わらせたい)。母が台所で背を向けたまま「大丈夫よ」と言う。(この子が、怖い)。
聞こえるのは言葉だけではなかった。嫉妬、見栄、疲れ、安堵のふりをした舌打ち。世界じゅうの人間の「本当のこと」が、遮るものなしに、九歳の頭へ流れ込んできた。
十日目に、静は喋らなくなった。二十日目には、部屋の隅から動かなくなった。医者は「心が疲れている」と言い、母は泣き、父は何も言わなかった。その沈黙の奥に(どうしたらいい)という声しかないことを、静だけが知っていた。
その部屋に、ある日、無口な祖父が碁盤を運んできた。
榧の古い盤。白と黒の石。祖父は何も言わず、盤の向こう側に座って、一手、置いた。
その瞬間、静は、息をした。
祖父の頭の中には、ひとつの声もなかった。(ここ)(次はここ)(うまい)。あるのは、石の位置と、その先にある石の位置だけ。嘘も、嫉妬も、舌打ちもない。黒と白と、論理だけの世界。
静は、おそるおそる、一手を置いた。祖父の頭の中の(ここ)が、静の石の隣に、すっと寄り添うように並んだ。
(……うまい)
九歳の秋に、静は、初めて泣いた。
それから静は、能力を囲碁に全部流し込む方法を覚えた。相手の読みを聞き、相手の恐れを聞き、盤の上の言葉だけを拾う。人間の雑音は、黒と白の中でなら、ちゃんと整理できた。
そして、気づいた。相手が強ければ、頭の中には「打たれたら困る手」まで浮かぶ。静はそれを写す鏡になる。相手が弱ければ、静も弱くなる。そうして、勝率はいつも、五割一分に収束した。
それで、よかった。強く勝つと、周りが騒ぐ。騒ぎは嫉妬と邪推のノイズになって、また静を壊しにくる。だから彼女は決めた。勝つのは、ほんの少しだけでいい。ちょうど、半目だけ。
囲碁にはコミがあって、引き分けがない。最小の勝ちは、いつも半目だ。それは、誰も傷つけず、誰の嫉妬も呼ばず、誰にも見つからない、いちばん静かな勝ち方だった。
プロ試験の成績は、勝率ちょうど五割。普通なら、そこで終わりだった。けれど院生師範たちが、全員の連名で推薦状を書いた。
「彼女と打つと、自分の碁が一段、強くなる。理由は、分からない」
女流特別推薦枠。異例の入段だった。こうして、勝率五割一分の棋士は、三十年かけて通算勝数だけで、九段になる。
タイトル戦には、一度も絡まないまま。




