5
静かな夜だった。
交易都市ランベルの宿屋の一室。窓の外からは、街の平穏を取り戻した警備兵たちの足音や、無事を確かめ合う市民たちの安堵の声が微かに届いていた。
部屋のベッドの上で、アストリッドは緩やかに意識を取り戻しつつあった。
全身を包む重度の倦怠感。魔力を限界まで吸い上げられた痕跡である痛みが、体の節々に鈍く残っている。
(私は……生きているのか……?)
重い瞼をゆっくりと開く。視界に飛び込んできたのは、見覚えのある木造の天井と、テーブルの上の温かなランプの光だった。
「あ、目が覚めましたか! アストリッドさん!」
聞き慣れた、能天気なほど優しい声が耳に届いた。
視線を横に向けると、そこにはカディルが座っていた。彼は濡らした手ぬぐいを手に持ち、本気で心配そうな顔でアストリッドを覗き込んでいた。
「よかった……二日間も眠ったままだったんですよ。熱も高かったですし、急に倒れてしまうから本当にびっくりしましたよ」
「二日……? 私が、二日も……?」
「はい。医者を呼んで診てもらったんですが、アストリッドさんの体に特に異常は無く、傷や毒、呪いの類いの反応も無いので、魔力が枯渇してしまい、ただただ猛烈に疲れている状態だと言われてしまって。だから、僕にできることと言えば、栄養のあるスープを作ったりして、看病することくらいで……」
カディルは安堵したように胸を撫でおろし、「でも良かった」と笑った。
アストリッドは呆然と彼を見つめた。
二日間。自分が意識を失っていた間、この男はずっと自分の傍につきっきりで看病をしてくれていたのだ。暗殺者として自分を狙っていたという敵に対して、だ。
(……バカめ。本当に、どこまでも救いようのないバカだ……)
アストリッドの胸の奥が、ぎゅっと苦しく締め付けられる。
その時、カディルが「あ、そうだ。手ぬぐいを新しく替えますね」と言って立ち上がり、アストリッドの身体に掛けられた毛布の端を整えようとした。
その拍子に、カディルの手が、アストリッドの枕元に置かれていた吸魔の短剣に触れた。
瞬間──。
──ドクンッ!!
部屋中の空気が激しく歪んで揺れた。
短剣の柄に嵌め込まれた紫色の宝玉が、不気味な明滅を始める。カディルの手が触れた瞬間、短剣に刻まれた古代の呪文が作動し、カディルの体内から膨大な魔力を強引に吸い上げようと動き出したのだ。
アストリッドは息を飲んだ。
(……っ! 剣がカディルの魔力を全て吸い上げようとしている!?)
この短剣は、敵の魔力を枯渇させ、その力を奪い取るための凶悪な魔術兵器。いかに強大な戦力を持つカディルであろうと、無防備な状態でこれほど強引に魔力を吸われれば、魔術回路が壊れかねない──アストリッドが声を上げようとした、まさにその時だった。
──ミシッ……ミシシシッ……!!
「え?」
アストリッドは目を疑った。
短剣の紫色の光が、猛烈な勢いで明滅し、そして──ゆっくりと消えていく。
カディルの体内に渦巻く魔力は、なんと短剣の許容量というものを遥かに凌駕していた。まるで、小さなガラスコップに巨大な滝の濁流を力任せに注ぎ込んだかのように、短剣の許容量が一瞬で限界を迎えたのだ。
柄の宝玉にひびが走り、刃の表面から「プシュー……」と、限界を超えて機能停止した魔術兵器特有の蒸気が吹き出す。
「ん?」
カディルは首をかしげ、自分の肩をポンポンと叩いた。
「なんだか急に……肩が重くなりましたね。やっぱり二日間ずっと起きて看病していたから、少し肩が凝ってきたのかなぁ」
「……は?」
アストリッドの口から、間抜けな声が漏れた。
肩こり。
自分の母国『ディアネル』が国家の総力を挙げて極秘裏に作り上げ、魔王討伐の「唯一の神器」として誇っていた吸魔の短剣が、限界突破を起こして機能停止してしまっているというのに。
当の本人は「肩が凝った」の一言で済ませている。
「あ、すみません! アストリッドさんの大切な短剣ですよね!? なんか僕が触れてしまったみたいで……そしたら、急に熱くなってひびが入っちゃって……ご、ごめんなさい! 壊れてしまったなら弁償します! ランベルの腕の良い鍛冶屋さんに修理を頼んでみますから!」
カディルは本気で焦り、おろおろと頭を下げている。
その姿を見ていたアストリッドの視界が、急激に揺らぎ始めた。
おかしい。
本来であれば怒りや畏怖の念を抱くところだ。アストリッドの故郷の宝剣でもある吸魔の短剣が、命を取るべきターゲットに壊されてしまったのだから。
だが、そのような感情は湧いてこなかった。代わりにアストリッドの胸の底から湧いてきたのは優しく温かいものだった。
アストリッドはつい「ふふふ」と笑ってしまった。と、同時にカディルに対しての罪悪感が湧いてくると、色々な感情が混ざり合いどうしていいのか分からず、目頭が熱くなる。
「……カディル」
「はい! なんでしょう、アストリッドさん! お、怒ってます? それとも、どこか痛みますか?」
「……なぜだ」
「え?」
「なぜ……私などに、そこまで優しくする……優しく出来るのだっ!」
ポロリと、アストリッドの目から大粒の涙が零れ落ちた。
一度溢れ出た涙は、止まらなかった。アストリッドはボロボロと涙を流し、胸をかきむしりながら叫んだ。
「私は……お前を殺しに来たのだぞ!!」
カディルが目を見開く。
「刺客だ! 私は異世界ディアネルから遣わされた暗殺者なのだ! お前が将来、私の世界を滅ぼす『絶壊の魔王』になるという歴史の記録を受け……その芽を摘むために、王の命を受け、お前の命を奪いに来たんだ! それなのになぜ? なぜだ!」
言葉が止まらない。溜め込んでいた全てが、とめどなく溢れ出していく。
「この短剣もそうだ! 『吸魔の短剣』……! お前を殺すための唯一の武器だと、私はこれを授けられた! だが違った……! 私には最初から、お前を倒せる力なんてなかった! 王の真の狙いは……私という『媒体』を使って短剣を運び、お前の膨大な魔力を吸い取り回収することだったのだ! そうやって私の故郷ではお前の命を虎視眈々と狙っている!」
アストリッドはベッドの上で体を丸め、声を上げて泣いた。
「それに……私は……英雄なんかじゃない! 世界を救う勇者なんかじゃない! ただの使い捨ての駒だ! お前の命を奪うと言いながら、温かい食べ物を貰い、お前の優しさに触れ、それに甘えながら……今でもお前の力を奪う片棒を担いでいる惨めで汚い捨て駒なんだよっ!!」
部屋の中に、アストリッドの嗚咽だけが響き渡る。
全てを吐き出した。
もう、これでいい。私がここに来た理由も分かった。私にはこの先の未来も、居場所もどこにも無いのだ。この男に斬り捨てられて終わろう。圧倒的な力を持つカディルなら、自分など一瞬で塵にできるはずだ。それが、カディルの優しさにつけ込み、欺き続けた自分にふさわしい末路だ──。
アストリッドは目を閉じ、死の衝撃を待った。
だが、訪れたのは冷たい鉄の刃ではなかった。
ふわりと、温かな温もりがアストリッドの手を包み込んだ。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、カディルがアストリッドの手を優しく、そっと包み込んでいた。
その顔に、怒りや憎しみの色は一切なかった。ただ、痛みに耐えるかのような、深く、深く優しい眼差しだけがあった。
「……一人で、そんなに辛くて重いものを背負っていたんですね」
カディルの声は、どこまでも穏やかだった。
「ごめんなさい、アストリッドさん。僕、何も知らなくて……あなたがずっとそんな思いで苦しんでいたなんて、全然気づけなくて……」
「な……なにを……言っているのだ、お前は……!?」
アストリッドは困惑し、涙で濡れた瞳を見開いた。
「私はずっとお前の命を狙っていたのだぞ!? この世界を糧にし、自分たちだけは助かろうとしていたのだぞ!? なぜ怒らない!? なぜ私を斬らないんだ!?」
「怒る理由なんてありませんよ」
カディルはアストリッドの震える身体をぎゅっと抱きしめた。
分厚くて、ペンだこや剣のタコだらけの、けれど世界で一番温かい手に包まれるアストリッド。
「だって、アストリッドさんは僕を助けてくれました。スープに毒を入れようとして失敗した時も、落とし穴を掘った時も……本当は、誰も傷つけたくないって、心が叫んでいたんじゃないですか?」
「っ……! お前、分かっていたのか……」
「あなたの世界がどれほど大変な場所なのか、僕には想像もつきません。でも……大切な世界を守るために、たった一人で右も左も分からない異世界に渡ってきて、傷つきながらも頑張っていた……あなたがどれだけ優しい人か、この数日間の旅で、僕にはよく分かりました」
カディルは笑った。いつもの、少し照れくさそうな、少年の目をして。
「教えてくれて、ありがとうございます、アストリッドさん。もう……一人で苦しまなくていいんですよ」
「……っ……カディル……あぁぁ……カディル……!!」
アストリッドはカディルの胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
カディルは何も言わず、彼女の背中を静かに撫で続けた。
暗く不毛なディアネルの地で、一度も与えられたことのなかった愛。
使い捨ての道具として生きてきた少女が、初めて「一人の人間」として救われた瞬間だった。
(私は……誓う)
消えかかった意識の中で、アストリッドの心は強く、固く誓った。
(私はもう、あの偽りの王には従わない。この温かい男を……この男が愛するこの美しい世界を……私の命に変えても、守ってみせる……!)




