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満腹になり、少し街を散策しようと二人で夜のランベルの広場を歩いていた時のことだ。
広場の中央では、旅の劇団が街灯の下で陽気な音楽を奏で、子供たちが笑いながら踊っていた。ベンチでは仲睦まじい夫婦が寄り添い、露店では夕食の買い出しをする家族連れが楽しそうに会話を交わしている。
平和で、豊かで、温かい光景。
アストリッドはその足を止め、呆然と広場を見つめた。
「……綺麗な街だな」
「ええ。ランベルの人たちはみんな親切で、温かいです」
カディルが隣で優しく頷く。
しかし、アストリッドの胸を突いたのは、感銘だけではなかった。凄まじいまでの「嫉妬」と「罪悪感」、そして血を吐くような「切なさ」だった。
(この世界の人々は……こんなにも穏やかに、幸せに暮らしているのか……)
アストリッドの頭裏に、自らの母国『ディアネル』の光景が浮かび上がる。
ディアネルは、枯渇した魔力と資源、不毛な大地に覆われた過酷な世界だった。
まともな作物など育たず、民の大部分は明日の食糧にも困る極貧の生活を強いられている。上流階級の貴族や王族だけが資源を独占し、庶民は「生き延びるための道具」として扱われていた。
アストリッド自身も例外ではない。
幼い頃に類稀なる魔力量を見出された彼女は、家族と引き離され、王国の「暗殺部隊」として血の滲むような訓練を叩き込まれた。
『アストリッドよ。お前の膨大な魔力は、国家を救うために捧げられるべきだ』
ディアネルの国王は、ひざまずくアストリッドに一振りの禍々しい紫色の短剣を授けた。
『異世界の魔王が立ち上がる前に、その芽を摘み取るのだ。この「吸魔の短剣」はお前の魔力を糧とし、魔王を討ち果たす唯一の神器となる。この世界の平和のために、その身を捧げるがよい』
王の言葉に、当時のアストリッドは涙を流して歓喜した。
自分のような底辺の人間が、世界を救う英雄として選ばれたのだと。誇りを胸に、自らを投げ打って異世界へと渡ってきたのだ。
だが──。
(……嘘だ……)
アストリッドは、自分の腰に差した紫の短剣に手を置いた。
異世界に転移して以来、彼女の魔力は常に枯渇し、体調は万全にならない。単なる転移の負荷だと思っていた。しかし、旅を続ける中で、彼女はうっすらと気づき始めていたのだ。
この短剣が、まるで寄生虫のように、彼女の身体から休むことなく魔力を吸い続けていることに。
(私は……『世界を救う勇者』などではない……。王は最初から、私を使い捨ての駒としてしか見ていなかった……)
ディアネルでは、アストリッドのような庶民はみな、王族の繁栄のための捨て駒、奴隷にしか過ぎない。
過酷な世界で、他者を踏みにじり、奪い合わなければ生き残れない母国の現実。
それに引き換え、この世界はどうだ。
見知らぬ人間に温かいスープを差し出し、損をすると分かっていても笑顔で人を助け、見知らぬ人々の日常を守るために剣を振るうカディルがいる。
(……もし、カディルが私の世界に攻め込んできたとしたら……)
もし、歴史の記録通りにカディルがディアネルへ侵攻したとしたら。
それは、カディルが「悪」だからなのか?
(違う……! この人が……このカディルが、理由もなく他国を荒らすような魔王になるはずがない……! もしもこの人が剣を執るとしたら、きっとそれは……この愛おしい世界を、大切な人々を守るために、追い詰められた時だけだ……!)
「アストリッドさん?」
急に立ち止まり、俯いて震え始めたアストリッドを心配して、カディルが顔を覗き込んできた。
「どうしました? 気分でも悪いですか?」
「……なんでもない」
アストリッドは咄嗟に顔を背けた。瞳から零れ落ちそうになった涙を、必死に指先で拭い去る。
「なんでも……なんでもないよ……カディル……」
(私に……この世界を……お前の命を奪う事など出来るのだろうか……その覚悟は……しかし、それでは私の母国はどうなる? 飢えと貧困に苦しむディアネルの民はどうなるのだ?)
二つの世界の理不尽な天秤。その重圧が、アストリッドの小さな肩に重く重く伸しかかっていた。
そして、その「変調」は、ランベルに滞在して五日目の夜に訪れた。
街の全ての冒険者ギルドに、緊急レイドが発令されたのである。
「非常事態だ! ランベル東部、平原地区に多数の未確認モンスターが出現! 至急、動ける冒険者は門前に集合せよ!」
宿屋の部屋で休んでいたカディルとアストリッドは、その知らせを聞いて飛び出した。
「未確認のモンスター?」
カディルが険しい表情を浮かべる。
二人が東門へ駆けつけると、そこにはすでに数十人の冒険者たちと、迎撃の体制を整える王国の警備隊が集まっていた。
夜の平原の向こう側。漆黒の闇の中に、不気味な「紫色の光」が揺らめいていた。
「あれは……!?」
アストリッドは息を飲んだ。
空間が、まるで薄いガラスのようにヒビ割れていた。
目視できるほど巨大な『次元の歪み』。その亀裂から、異形の怪異たちが次々と這い出てきていたのである。
それは、この世界の生態系には絶対に存在しないモンスターだった。
全身が結晶化した凶悪な狼、複数の首を持つ巨大な怪鳥──。
「……っ! あ、あれは!」
アストリッドが驚嘆して声を上げた。
「アストリッドさん、知っているんですか!?」
「あ、あぁ……我が故郷、ディアネルの深淵に棲む凶暴な魔獣たちだ! な、なぜこんなところに!?」
「次元の歪みから落ちてきた……ということでしょうか」
カディルは静かに腰の剣を抜いた。
平原を覆い尽くさんばかりの異世界の魔獣群。その数は百を下らない。ランベルの冒険者たちも必死に武器を構えているが、見たこともない異形の圧倒的な圧力に、その場にいる全員の腰が引けていた。
「ヒッ……な、なんだあのバケモノどもは!?」
「刃が通るのか!? あんな結晶の皮を持った狼なんて見たことないぞ!」
戦意を喪失しかけている冒険者たちの前に、カディルが一歩、踏み出した。
「皆さん、下がっていてください」
「え……? おい、お前一人でいく気か!? 無茶だ!」
冒険者たちが制止しようとするが、カディルは振返らなかった。
彼の背中から、静かに、そして圧倒的な威圧感が放たれ始める。
行商人を助けた際に見せたあの空気。
周囲の温度が何度か下がったかのような錯覚。平原を渡る夜風すらもピタリと止まり、異世界の魔獣たちが一斉にカディルへと牙を向けた。
「……アストリッドさん」
カディルは前を見つめたまま、静かに言った。
「あなたの世界は……あんな恐ろしい魔獣たちがうろついているような、大変な場所なんですか?」
「あ、あぁ……私の居た世界……ディアネルは大地が枯れ、魔獣が蔓延る過酷な世界だ……」
「そうですか」
カディルは短く答えた。その声には、深い悲しみと、揺るぎない決意が混ざり合っていた。
「そんな大変な世界から、あなたは一人でここへ来たんですね。自分の世界を守るために」
「カディル?」
「僕には、難しい歴史のことも、次元の仕組みも分かりません。だけど──」
カディルが剣を構えた。
「僕の目の前で、誰かの日常が壊されるのは……やっぱり嫌なんです!」
──ズドン!!
大地が爆発したかのような衝撃音と共に、カディルの姿が消えた。
次の瞬間、最前線にいた巨大な結晶狼三頭が、同時に文字通り吹き飛んだ。
「ガァァァッ!?」
悲鳴を上げる暇すら与えられない速攻。
カディルは閃光となった。一振りの剣が残像を描くたびに、異世界の魔獣たちが十数頭単位で斬り伏せられ、断末魔と共に倒れていく。
「す、凄い……凄すぎる……!」
「なんなんだあの男は!? 人間じゃないぞ!?」
冒険者たちが呆然と立ち尽くす中、カディルは単身で百頭を超える魔獣の群れへと突撃し、一方的な蹂躙を続けていた。
その圧倒的な強さ。圧倒的な暴力。
だが、アストリッドの目には、それが「恐ろしい魔王」には見えなかった。
街を守るため、人々を守るため、そして異世界の過酷さを知って胸を痛めながらも戦う、優しく、暖かい勇者の姿にしか見えなかった。
(ああ……カディル……)
アストリッドの胸に、激しい感情が込み上げる。
(お前は……どこまでも優しく、どこまでも強い……! そんなお前が、なぜ……なぜ未来で私の世界を滅ぼす魔王と呼ばれる事になるのだ!?)
その時だった。
カディルが群れの中心で剣を振るっていた、まさにその瞬間。
アストリッドの腰に差してあった『吸魔の短剣』が、不気味に激しく打ち震え始めた。
「な……なんだ……!?」
短剣の柄に嵌め込まれた紫色の宝玉が、ドクン、ドクンと不気味な脈動を打つ。
そして、アストリッドの体内から、残されていたわずかな魔力までもが、強烈な勢いで吸い上げられていく!
「ぐっ……あぁぁぁっ!?」
アストリッドは激痛に耐えかねて膝をついた。
短剣の紫の光は、アストリッドの魔力だけではなく、前方にいるカディルに向かって、帯状になって伸びていた。
カディルが圧倒的な戦力を行使するたびに散らばる、彼の膨大な魔力の余波。短剣はそれを、まるで飢えた猛獣のように猛烈な勢いで吸い取り始めていたのだ。
(これ……は……!? この短剣は……カディルの力を……吸い取っている……!?)
アストリッドの脳裏に、雷が落ちたような衝撃が走った。
ディアネルの王の言葉。
『この「吸魔の短剣」はお前の魔力を糧とし、魔王を討ち果たす唯一の神器となる』
嘘だ。全て嘘だったのだ。
王の本当の狙いは、アストリッドにカディルを暗殺させることなどではなかった。
アストリッドという「魔力量の多い媒体」を使って吸魔の短剣を異世界へ送り込み、カディルという巨大な力を持つ存在と衝突させ、その戦いの中で散らばるカディルの途方もない魔力を短剣に吸わせて回収すること。
アストリッドは、カディルの膨大な魔力を持ち帰るための運び屋に過ぎなかったのだ。
(王は……最初から、私がカディルを倒せるなんて思っていなかった……この短剣でカディルの力を吸い上げ、それをディアネルに持ち帰って……異世界侵攻のエネルギーにするつもりだったんだ……)
恐ろしい真実。
自分は、愛する母国を守るための英雄ではなく、カディルの世界を滅ぼすための「侵略の片棒」として利用されていた。
「あ……あぁぁ……っ!」
絶望と衝撃で、アストリッドの視界が赤く染まる。
短剣に魔力を根こそぎ吸い取られ、彼女の意識は急速に薄れていく。
遠くで、最後の魔獣を斬り伏せたカディルが、異変に気づいて振り返るのが見えた。
「アストリッドさん──!?」
叫びながら駆け寄ってくるカディルの顔。
その心配に満ちた表情を見つめながら、アストリッドは倒れ込んだ。
(ごめん……ごめんね、カディル……)
薄れゆく意識の中で、アストリッドは人目を憚らずに泣きじゃくっていた。
(私は……お前を殺しに来た刺客なんかじゃなかった……惨めで価値のない……ただの捨て駒だったんだ……)
漆黒の闇がアストリッドを包み込む直前、カディルの温かい手が、彼女の身体を抱き止めたのを感じた。
二人の運命の歯車が、世界の歪みと共に、大きく狂い始めていた。




