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翌朝。快晴の空の下、二人はクルムの宿場町を後にした。
街道を歩き始めて数時間。アストリッドは密かに牙を研いでいた。
(ふふふ……甘いぞカディル! 私がただ助けられただけで牙を抜かれると思ったか! この旅の最中こそ、お前を仕留める絶好の機会!)
アストリッドは懐から、小瓶を取り出した。
中に入っているのは、ディアネルから持参した『痺れ草の粉末』だ。致死性はないが、服用すれば半日は身体が動かなくなる。魔力が回復していない今の状態でも、相手の動きさえ止めれば、短剣で首筋を割くことなど造作もない。
正午過ぎ。二人は木陰で休息を取ることにした。
カディルが革の水袋を取り出し、「喉が渇きましたね」と一口飲む。
「カディル、喉が渇いているなら、このディアネル特製ポーションを飲むといい! 滋養強壮に効く特別な品だ!」
アストリッドは、あらかじめ痺れ草の粉末をたっぷりと調合したディアネル特製ポーションをカディルに差し出した。不自然なほどギラギラとした笑顔を浮かべて。
「わあ、ありがとうございます! ……ん?」
カディルはディアネル特製ポーションを受け取ったが、口に運ぶ手前でぴたりと止まった。
(気づいたか!? いや、匂いも味もないはず!)
アストリッドの心臓が跳ね上がる。
カディルはディアネル特製ポーションをじっと見つめると、申し訳なさそうに言った。
「アストリッドさん……これ、なんか粉とか粉がダマになったみたいな奴がいっぱい浮いてますけど、これ、カビじゃないですか? それとも調合を失敗しました? あ、もしかして異世界からの転移で傷んじゃったのかも。お腹を壊したら大変だから、やめた方がいいかもですね」
「なっ……ダ、ダマになんかなっていないし、調合も失敗してない! カビでもない! これは秘伝のスパイスで──」
「だめですよ、アストリッドさん。こんなの飲んでるんですか? 体調も万全じゃないんだから少しでも品質が劣化してしまった物は処分した方がいいですよ。ほら、僕が持ってきた新鮮な水を飲んで、新鮮なサンドイッチを食べましょう」
カディルは優しい手つきでアストリッドの手からディアネル特製ポーションを取り上げると、街道の脇へポイと捨ててしまった。そして、代わりに自家製の卵サンドを差し出してくる。
「……あ……あ……」
(私の痺れ草が……! 貴重な毒薬がァァァッ!!)
アストリッドは心の中で絶叫した。だが、カディルの顔には一切の悪意がない。心底アストリッドの体を気遣っているだけの、満面の善人スマイルだった。
そして、差し出された卵サンドは、空腹のアストリッドには信じられないほど美味しそうに見えた。
「……くっ、いただくぞ」
敗北感に打ちひしがれながらサンドイッチを噛み締めると、悔しいことに、味も信じられないほど美味しかった。
数日後。毒殺に失敗したアストリッドは、次なる作戦に出た。
『トラップ作戦』である。
街道沿いの森林地帯を歩いている最中、アストリッドは「少し花を摘んでくる」と嘘をついて前方に回り込み、街道の真ん中に落とし穴を掘った。
異世界転移で失われた魔力も少しずつ回復しており、土魔法を少しだけ使って、深さ二メートルほどの見事な穴を掘ることに成功したのだ。底には鋭く削った木杭も立ててある。
上に細い枝と葉っぱを被せれば、完璧な落とし穴の完成だ。
(ふははは! 見よ、この完璧な偽装! どんなに直感が鋭くとも、この落とし穴は回避できまい! 穴に落ちて動揺したところを、上から石を投げ落として仕留めてやる!)
アストリッドは木の上に隠れ、カディルが歩いてくるのを今か今かと待ち構えた。
やがて、口笛を吹きながらカディルが歩いてくる。
(来た……! あと五歩……四歩……三歩……二、一……踏め! 落ちろ魔王!!)
カディルが踏み出したその足が落とし穴──の直前でピタリと止まった。
「ん?」
カディルは首をかしげ、地面を見つめた。
そして、拾い上げた枝で被せられた葉っぱを突っつくと、バサバサと葉が落ちて、大きな穴が露わになった。
(な、なにぃぃぃ!? なぜ気づいた!?)
木の上でアストリッドが激震する。
カディルは穴の中を覗き込み、底に刺さっている木杭を見て、非常に険しい表情を浮かべた。
「これはひどいな……。街道の真ん中に、こんな危険な落とし穴を掘るなんて。野生のモンスターの仕業か、それともたちの悪い山賊か……」
カディルは腕まくりをすると、近くにあった大きな倒木を軽々と持ち上げた。
(えっ)
アストリッドの目が飛び出そうになる。
人間数人がかりでやっと動かせるような太い倒木を、カディルはまるで竹竿でも扱うかのように軽々と片手で持ち上げ、それを落とし穴の中にドスンと放り込んで穴を埋めてしまったのだ。
「よし、これで誰も落ちずに済むな」
爽やかな汗をぬぐい、カディルは満足そうに頷いた。
そして、木の上を見上げて言った。
「アストリッドさーん! 危ないから木の上から降りてきてください! このへん、危ない仕掛けがあるみたいですよー!」
「……あ……はい……」
アストリッドは力なく木から降りてきた。
(化け物かあいつは……!? あの腕力は何だ!? 魔力を使わずにあの巨木を動かしたのか……!?)
暗殺の失敗よりも、カディルが見せた底知れぬ身体能力の高さと、勘の良さにアストリッドは背筋が寒くなるのを覚えた。
気弱で優しく害のない青年に見える。だが、その内側に眠る力は間違いなく「普通」ではない。
(やはりあいつは……魔王だ!)
──旅を始めて一週間が経過した。
アストリッドの小細工(毒殺、トラップ、夜襲)はことごとく不発に終わり、二人の旅は次の目的地である交易都市『ランベル』の手前までやってきていた。
その日の夕方。街道の先から、途まじい怒号と悲鳴が響き渡った。
「助けてくれぇぇぇ!」
「モンスターだ! 『オーガ』が出たぞッ!」
「なっ……!?」
アストリッドが身構える。
街道の先から、数人の商人や旅人が命からがら走ってくるのが見えた。その背後から、樹木をなぎ倒しながら現れたのは、体長三メートルを超える巨躯を持った赤肌の鬼──高位のモンスター『オーガ』だった。
太い丸太のような棍棒を振り回し、逃げ遅れた行商人の馬車を打ち砕く。
「くそっ! あんな大型のモンスター、今の私の魔力では……」
アストリッドは短剣を構えるが、足が竦んだ。異世界転移の負荷からまだ完全に回復していない今の彼女では、オーガの一撃を喰らえば一たまりもない。
「アストリッドさん、後ろに下がっていてください!」
カディルが前に出た。
「何を言っている! 危険だ! 逃げた方がいい!」
アストリッドが叫ぶ。だが、カディルは振り返らなかった。
「逃げたら、あの商人さんたちが殺されてしまいます」
その声には、先ほどまでの穏やかさは欠片もなかった。
静かで、冷たく、そして絶対的な重みを持った声。
カディルは腰に差していた剣をゆっくりと抜いた。
オーガがカディルに気づき、不快そうに咆哮を上げると、強烈な風が吹き荒れ、巨大な棍棒がカディルめがけて振り下ろされた。
「危ないっ──!」
アストリッドが悲鳴を上げた瞬間。
──ドォン!!
猛烈な衝撃波が巻き起こり、街道の土煙が舞い上がった。
アストリッドは思わず目を背け──そして、目を見開いた。
カディルは、逃げていなかった。
それどころか、頭上から振り下ろされたオーガの巨大な棍棒を、手に持った一本の鉄剣で受け止めていたのだ。
足元の地面が蜘蛛の巣状に亀裂を生んでいる。だが、カディル自身の身体はピクリとも動いていない。
「……人の営みを壊すのは、感心しませんよ」
カディルが低く呟いた。
その瞬間、彼の全身から『何か』が溢れ出した。
それは魔力という言葉では説明のつかない、圧倒的な威圧感。空気が重く澱み、息をすることすら困難になるほどの圧迫感。
アストリッドの心臓が、恐怖で早鐘を打つ。
(これ……だ……)
アストリッドの脳裏に、母国の歴史書に記されていた『絶壊の魔王』の姿が鮮明にフラッシュバックした。
世界を滅ぼし、あらゆる攻撃を寄せ付けず、圧倒的な暴力で全てを平伏させた悪夢の存在。今、カディルの背後に見えた幻影は、まさにそれだった。
「ハッ……!」
カディルが剣を軽く縦に振る。
それだけで、オーガの巨大な棍棒が縦に真っ二つに切られる。
「ガ……!?」
困惑するオーガに対し、カディルは踏み込んだ。
一歩。ただそれだけで、彼の姿が視界から消える。
次の瞬間、カディルはオーガの背後に立っていた。
剣をゆっくり鞘へと収める。
カチャリ、と剣のガードが鳴った瞬間──。
オーガの巨躯が、斜め一直線にズレ落ち、ドサリと重い音を立てて倒れ伏した。
血の一滴すら、カディルの服には飛んでいなかった。
「……あ……」
アストリッドは声が出なかった。
速すぎる。強すぎる。魔法すら使わず、剣一本で、高位のモンスターを一瞬で無力化してみせた。
助けられた商人たちが、涙を流しながらカディルに駆け寄っていく。
「あ、ありがとうございます!」「命の恩人だ!」「まるで伝説の勇者様だ……!」
商人たちに囲まれ、カディルは照れくさそうに頭を掻いていた。
「いえいえ、無事でよかったです。怪我はありませんか?」
いつもの、気弱で優しいカディルの笑顔に戻っていた。
しかし、アストリッドは一歩も動くことができなかった。
全身に寒気が走り、歯がカチカチと鳴る。
(間違い……なかった……あの強さ、あの威圧感……あいつは本当に『魔王』になる存在だ……!)
本物だ。本物の怪物だ。
自分が狙っていたのは、そんな恐ろしい存在だったのだ。
だが──。
商人たちを手際よく手当てし、壊れた馬車の荷物を一人で軽々と持ち上げて修理を手伝っているカディルの姿を見つめながら、アストリッドの心の中に、別の感情が芽生えていた。
(だが……なぜだ?)
あんなにも圧倒的な力を持ちながら、なぜ彼はあんなにも普通でいられるのだ?
なぜ、見ず知らずの他人のために命を懸けて戦い、感謝されて申し訳なさそうに笑うのか。
歴史書に書かれていた魔王は、冷酷無比で、生きとし生けるもの全てを憎んでいたはずだ。
だが、今、目の前にいるカディル・アーネストは、どう見ても「善良な青年」でしかない。
(本当に……本当にお前は、世界を滅ぼす魔王になるのか? 何が、お前をそんな怪物に変えてしまうというのだ?)
カディルが修理を終え、アストリッドの方へ歩いてきた。
「お待たせしました、アストリッドさん。怪我はありませんでしたか?」
心配そうに覗き込んでくるカディルの瞳は、どこまでも澄み渡っていた。
「……あ、あぁ、私は……大丈夫だ」
アストリッドは胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
殺さなければならない。自分の世界のために。
(けれど──出来るのか……私に)
そして、誰よりも優しいこの青年を殺したくないという思いが、彼女の心の中に小さな芽を吹かせていた。
「さ、行きましょう。ランベルの街はもうすぐそこです」
カディルが差し出してきた手を、アストリッドは一瞬躊躇してから、静かに振り払った。
「……触るな。私はまだ、お前の命を諦めたわけではないぞ」
「はいはい。分かりましたよ」
カディルは嬉しそうに笑うと、再び前を歩き始めた。
夕闇が迫る街道を、二人の影が伸びていく。
絶対に相容れないはずの刺客と標的。
しかし、その二人の距離は、出会ったばかりのあの夜よりも、ほんの少しだけ縮まっていた。
(覚悟しろ、カディル)
アストリッドは歩きながら、カディルの背中に向かって心の中で誓った。
(お前を魔王になどさせない。私が……私が絶対に、お前の未来を変えて見せる……!)
それが、刺客としての使命感からなのか、それとも一人の女性としての願いなのか。
アストリッド自身もまだ、その答えを知らなかった。




