始まり
「納得いかん」
自らの屋敷の一室。
一応は客人を迎えるための部屋で、ディートフリートは歓迎という言葉など欠片も感じさせない顰め面で言った。
それに苦笑を返しながら、一応は客人だというのにテーブルの上に持参した料理を広げながらライアルは言う。
「それは決闘のことですか。それとも姉上の態度ですか」
「両方だ!」
ライアルの問いに半ば怒鳴るように言うと、ディートフリートはライアルが広げた魚の揚げ物を切り分けもせずに豪快に口に放り込む。
「おまえが槍をあれほど使うなど俺は聞いてないぞ。そもそも身軽さが売りの冒険者に槍を使う機会など、元から槍使いでもない限りはないはずだろうが」
「一通りの武器の扱いは神父に仕込まれましたので。他にも弓に斧に棒術、投擲術エトセトラ。余程珍しい武器でなけれ人並み以上には扱えます」
「それを仕込んだ神父も何者だ」
事もなげに言うライアルに、ディートフリートはワインを一気に煽るとすぐさま瓶を手に取り空になったグラスへと注ぎ淹れる。
「まあそれはいい。おまえが規格外なのは全て神父のせいだと思うことにした。それよりも納得いかんのは、何故俺の邪魔をするのかということだ」
「弟ですから」
「ほざけ。他の誰かを騙せても俺を騙せるとは思うなよ。俺の邪魔をする暇があるなら、何故さっさとシルヴィアを口説かない」
はっきりと、確信をもって放たれたディートフリートの言葉に、ライアルは僅かに目を見開きグラスへと延びかけていた手を止めた。
「初めて俺の前で動揺したな。普段からそれくらい分かりやすければ俺だっておまえにつっかかったりはしないというのに」
「何のことでしょうか」
「それで、やはり子供の頃からシルヴィアが好きだったのか?」
とぼけて見せたライアルに、しかしディートフリートは聞こえていないかのように、にやつきながら言い返す。
これはダメだ。否定しても聞いてはくれないし、否定し続ければ騒ぎを大きくして退くに退けない状況へ追い込まれるに違いない。
そう確信すると、ライアルは一つため息をついてワインを煽る。
「物心つく前から世話されて情がわかないわけがないでしょう」
「なら口説けばいいだろう。シルヴィアだっておまえのことを特別に思ってるのは本当に……本当に業腹ながら見ていれば分かる。押せばあっさり……」
「逃げられますよ。全力で、それこそ地の果てまで」
ライアルの言葉に、今度はディートフリートが呆気にとられる番だった。
その様子を見てライアルは再び苦笑すると、膝に手をついてゆっくりと語り始める。
「姉さんには初恋の相手が居たんです。出会ったのはもう八十年も前だとか」
「ほう。何だシルヴィアめ、エルフと人間の間に恋など成立しないと言っていたくせに、自分は恋をしていたのではないか」
「ええ。それはもう。神父から見ても二人は微笑ましい恋人同士だったようです。ですが……彼は姉さんを伴侶には選びませんでした」
「……何だと?」
眉をひそめながらディートフリートは低い声で聞き返した。
何という不届きな男だと、居場所を聞けば今すぐ殺しに行きかねないほどの怒気を含ませて。
「仕方ないでしょう」
「何がだ!?」
「八十年前の時点で、姉さんの見た目は十歳ほどの子供でした」
「だからなんだ!?」
「恋人が成人を迎えても、姉さんは子供のままだったということです」
「……」
思わぬ、しかし少し考えれば分かるであろう事実を言われ、ディートフリートは言葉を失い浮いていた腰を下ろした。
「当然のように彼は別の女性と、普通の人間の女性と結婚しました。悪気なんてなかったのでしょう。ただ子供のままごとのような恋愛を終えて別の愛を育んだ。不誠実な真似をしていたなら周りの村人や、何より神父が許さなかったはずです」
「だがシルヴィアの心はどうなる?」
「笑って祝福していたそうですよ。内心で心配していた神父が安堵するほど、綺麗な笑顔でかつての恋人の門出を祝っていたそうです」
「……なるほど」
ライアルの言葉を聞いてディートフリートは納得する。
もっともその納得は当時の村人や神父のそれとはまったく異なるものだろう。
「……諦めたのだな。シルヴィアは」
「ええ。きっと、どうにもならないことだと蓋をしたのでしょう」
シルヴィアは賢い。見た目相応のように振る舞ってはいるが、その人生経験は並の人間の何倍以上にも及ぶ。
だからこそ自分のすべきことを悟り、笑っていられたのだろう。
「姉さんの初恋の相手が死んだのは十年前。私が村を出る少し前でした。その時は私もその老人が姉さんの初恋の、かつての恋人だとは知りませんでした。きっと村人たちの中にも覚えている人はほとんどいなかったでしょう」
「そうか。その時もシルヴィアは?」
「普通でした。ただ知り合いが亡くなって悲しそうにしている。それだけに見えました」
そこまで言うと、ライアルは言葉を切りワインを一口飲み下す。
「でも私には姉さんがいつもより遠くに見えました。近くに居るのにまるで壁があるような。姉さんの心がどこか遠くへ行ってしまうような。そんな心細さを感じたのは覚えています」
「八十年……いや、シルヴィアにとっては七十年の恋か。エルフにとって七十年とは短いのか?」
「さすがに長いでしょう。ですが……姉さんにとって長かったのかは分かりません」
そこまで言うと、二人の間に沈黙が流れた。
どちらも何を言うべきか分からず、テーブルの上の食事にも酒にも手を出さず、ただ時だけが流れていく。
「本当は姉さんは諦めていなかったのではないでしょうか?」
「何?」
そんな風に静寂だけが部屋を支配している中、不意に思い至ったようにライアルは言った。
「自分が成人すればまた恋人に戻れると、密かに期待していたのではないでしょうか。でも彼は死んでしまった。姉さんが成人する前に、事故でも病気でもない、ただの老衰で、しわくちゃにおいさらばえて」
「……なるほど。下手に寿命以外で死に別れるよりも辛いなそれは」
そう言うと、二人はしばし無言になる。
シルヴィアの子とを思い、しかし絶対に理解できないであろうその悲嘆を想像しながら。
「悲しみを癒すには時が必要です。人というのは理屈で感情は割り切れない」
「なるほど。だから待つのか。おまえは待つのか。おまえは待てるのか? 人の何十倍もの寿命を持つシルヴィアの悲しみが癒えるまで」
シルヴィアが再び恋をできるまで、何年、何十年の時が過ぎるだろうか。
その時自分はどれほど老いているだろうか。生きていられるだろうか。
分からない。分からないというのに。
「おまえは待つんだな。今度は自分が置き去りにされるかもしれないことも覚悟して」
文字通り人生を捧げて待つのだろうこの男は。
羨望とも哀れみとも知れない視線を向けるディートフリートに、ライアルは憂いを見せずただ誇らしげに笑った。
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八十年前。私は恋をした。
七十年前。私は愛を知った。
十年前。私は失恋した。
馬鹿な私は私の恋が無駄なものだったのだと、七十年の時をかけてようやく理解した。
だからもう二度と恋などしない。
そう拗ねた子供みたいに、私は心を閉ざした。
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「……平和だなあ」
決闘騒ぎから一週間後。
王都に居る理由もなくなった私は村へと戻ってきていた。
川沿いの原っぱに寝転んで、水のせせらぎと木の葉の擦れ合う音を聞きながら思う。
幸い魔力食いの被害は村には及んでおらず、村人たちも誰一人欠けることなく私を迎えてくれた。
神父様の方もコンクラーベはもうすぐ終わるらしく、私の慣れ親しんだ日常はすぐに戻ってくることだろう。
――そう。何も変わらない、変わることのない日常が。
「姉さん」
「……ライアル?」
思わぬ声を聞いて、私は体を起こした。
「お久しぶりです。と言っても一週間も経っていませんが」
王都に居るはずのロイヤルガードが、私の弟であるライアルがそこに居た。
最近見慣れてきた、何かに安堵したような微笑みを浮かべて。
「どうしたのライアル?」
「時間ができたので里帰りに寄っただけですが」
「……ロイヤルガードって暇なの?」
将軍に匹敵する権限を持つ役職ではなかったのだろうか。
私がそう言うと、ライアルはおかしそうに笑って私の隣に腰かける。
「ロイヤルガードだからと言って常に陛下のそばにいるわけではありませんよ。領主としての仕事もありますし」
「その領主の仕事は?」
「そちらもあまり忙しくはありませんので」
要するに暇らしい。
それでいいのかロイヤルガード。
「それに久しぶりに姉さんと普通の暮らしをしたいなと。せっかく再会したというのに、騒動に見舞われてごたついてばかりでしたから」
「確かにね」
ここ最近の出来事は、何十年も代わり映えのない生活をしていた私にとって嵐のような毎日だった。
それはそれで楽しくもあったけれど、やはり私はこの村の静かな生活が好きなのだ。
「ええ。私もこの村と姉さんが好きです」
そう何でもない風に言ってライアルは笑った。
それにつられて私も笑う。
何でもない日常を。何でもないこの関係を。
「――ってますから」
「え? 何か言ったライアル?」
「いえ。何でもありません」
私の言葉に、ライアルは本当に何でもないように微笑んだ。
その姿に安心して、私は再び草のベッドに背を預ける。
――待ってますから。いつか姉さんが新しい恋をできるようになるまで。
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ライアン・シュティルフリートの養子となったライアル・シュティルフリートは数々の縁談を断り続けた。
このままでは先代の二の舞と焦る周囲をよそに余裕を崩さないその姿に、実はシュティルフリートには正当な血をひく後継者が既におり、ライアルは繋ぎなのではないかという噂が流れ始める。
その噂が否定されるのは十数年後。ライアルが四十路を越える頃であった。
愛する人を待ち続けたライアルは、人生の半ばを過ぎてようやくその初恋を実らせる。
年を経て皺も増えたライアルの傍らには幸せそうに微笑む妖精を思わせる可憐な女性の姿。
世界で一人ぼっちだったエルフは、このとき初めて孤独ではなくなったのかもしれない。




