第2話 10体倒したら世界が変わった
生還率3%をどうやって越えたのか。
あとで何度も思い返したけれど、答えは単純だった。
退路の獣道を一番よく知っていたのは俺だった。幅の狭い木々の間を這うように抜ける。
ミノタウロスの巨体はそこで詰まった。
斧が幹に食い込んで抜けなくなる。
その隙に出口まで転がり込んだ。
【日課達成】
【経験値 +30】
あの【初回保護】は、一度きりの救済だったらしい。使用済みの文字が画面の端で、灰色に変わっていた。
レベルはまだ1のままだった。
胸元の探索者タグには「Lv.3」と刻まれたままだ。協会の計測器にかざすまで、この数字は変わらない。
本当の俺はレベル1。3年前より弱くなっている。
協会の窓口で報告を済ませると、職員が気まずそうに言った。
「鷹野さんたちは先に戻られて……『灰原は途中ではぐれた』と」
袋を持って帰った男がそう言ったらしい。
「……そうですね。はぐれました」
俺はそれだけ答えた。
責める気力もなかった。
翌朝、画面が更新されていた。
【本日の日課】
【魔物を10体倒す】
【難易度:E】
「……10体」
生還の次がこれか。
昨日のミノタウロスがまだ頭から離れない。しかし、画面は容赦なく時間を刻んでいる。
腰の短剣を握る。護身用のそれを抜いたのは、登録試験のときと、迷宮に一人で潜ってゴブリン1匹に追い回されたあの一度きりだ。3日寝込んでそれきり懲りた。魔石の出ない迷宮では、素材が安くて妹の薬代には届かない。稼げる荷物持ちを続けるしかなかった。
迷宮へ向かう前に一か所だけ寄りたい場所があった。
市立病院の4階、一番奥の個室。分厚いガラス窓の向こう側。妹はベッドの背を起こして、魔素を遮るケースに入れたタブレットを覗き込んでいた。
面会はガラス越しにしか許されない。二重の扉の間にある通話口で、俺は受話器を取った。
『お兄ちゃん、来るの早くない? 面会まだ始まってないよね』
「近くまで来たから」
嘘だった。昨日、ミノタウロスに殺されかけた足はまだ少し震えていて、顔を見ないと落ち着かなかった。
灰原凛、15歳。生まれつき、魔素に過敏な体質で、物心ついてからはこの病室の外に出たことがない。ゲートが開いて、魔石が世界を動かすようになってから、街じゅうに満ちた魔素が凛にとっては毒になった。街が明るくなればなるほど、凛は外から遠ざかっていった。
『ねえ、顔どうしたの。頬が傷だらけじゃん』
「転んだ」
『嘘だね。転んでそんなとこ切れないでしょ!』
凛が半眼になった。
『まあいいけど。お兄ちゃんが言いたくないなら聞かない。その代わり…ちゃんと生きて帰ってきてよね』
言葉に詰まった。
「……分かった」
『今の返事重すぎ。ほら!笑って!』
無理やり口の端を上げると、凛がガラスの向こうでようやく吹き出した。
『それでよし。いってらっしゃい』
「いってらっしゃい」と言われるのが、3年間、一番の楽しみだった。
病院を出て、歩きながら考えた。問題はどこで10体の魔物を倒すかだった。
ゲートは使えない。ボスを倒せば消える一度きりの場所で、今開いているのはD級以上ばかりだ。E級が一人で入れる所じゃないし、荷物持ちが入れるのは、戦闘職に同行するときか、入口の補給所までだった。
なら、迷宮しかないか。魔石は出ないが、毛皮や牙、粘液が落ちて、安いなりに売れる。新人が最初に潜るのは、決まってこっちだった。
街外れの第四迷宮は5階層までしかない。最深部には階層の主がいるらしいが、新人は、誰もそこまでは行かない…いや、行けない。
地下へ続く石段を降りると、湿った洞窟が口を開けていた。
1体目のゴブリンに、俺はビビった。
短剣を構えて、足が震える。
ゴブリンが節くれだった棍棒を振り上げた。
遅い…と思った。
後ろから、戦闘職の動きを見続けてきた。魔物の筋肉の動き、視線、踏み込みの癖。全部頭に入っている。
棍棒を半歩で避ける。短剣を首の横に突き立てた。
「ギッ!」
ゴブリンが崩れて、霧状になって消える。
足元に欠けた牙が転がった。
【経験値 +12】
【討伐 1/10】
「……やれた。経験値?ゲームみたいだな。」
手がまだ震えているが不思議と笑みがこぼれた。次の1体はもう怖くなかった。
2体目、3体目。短剣が少しずつ手に馴染む。
4体目で背後を取られかけた。反射的に身体が動いた。身体をひねって背中から突き刺す。
【レベルアップ:Lv.1 → Lv.2】
適性が最低の俺は、経験値が人の10分の1しか入らないはずだった。
それが、あっさり上がった。
「……たった4体で?」
システムは、そんな制約まで、まとめて書き換えているのか。
身体が少し軽くなった。
5体目、6体目。動きがさっきより速い。
【レベルアップ:Lv.2 → Lv.3】
7体目は洞窟の天井からスライムが落ちてきた。
「うわっ!上かよ!」
横へ跳んで、核を一突き。ぷるんと崩れて霧状になった後、ぬめる粘液が、床に広がる。
8体目と9体目はゴブリンが左右、2匹同時に現れた。
「休ませろよ!」
右を短剣で払い、左に肩から体当たり。倒れたところへ止めを刺す。
【レベルアップ:Lv.3 → Lv.4】
「……4」
3年間、一度も越えられなかった「3」を、いつの間にか、追い越していた。
視界が広くなった。壁の苔の一本一本まで見える。
10体目を倒したとき、俺は笑っていた。
「……10体。本当に、やれたんだな」
【日課達成】
【経験値 +50】
【報酬:スキル『収納』】
「スキル?」
【収納:触れたものを、別の空間に保管する】
足元には牙と粘液の溜まりが、散らばっていた。
いつもなら袋に詰める作業や重さと戦う場面だ。
俺は足元に散らばる牙に、手を当てて、意識を向けた。
収納。
手のひらの下に、黒い波紋が広がる。
牙も、粘液の溜まりまで、全部その中へ吸い込まれていった。
【収納中:ゴブリンの牙×8 スライムの粘液×2】
重さは、ゼロだった。
「……はは」
声が勝手に漏れた。
「荷物持ちが、荷物を消せるのかよ」
そこから先は、止まらなかった。
日課はとっくに終わっている。でも、足が勝手に動いた。
ゴブリン。一角兎。群れで来る、スライム。
短剣が魔物の間を縫っていく。倒れた魔物の落とし物は、手をかざすだけで収納に消える。スライムの粘液は、気づけば樽2つ分ほどに膨らんでいる。
荷物を気にしなくていい。それだけで動きが全然違う。
【レベルアップ:Lv.4 → Lv.7】
【レベルアップ:Lv.7 → Lv.9】
レベル9。E級の上限は10だ。次に上がったら、俺はもうE級の強さじゃなくなる。
階層を降りるたびに数字が跳ねる。
地下3階まで降りたところで引き返すことにした。主のいる最深部はまだ遠い。
気づけば、日が傾いていた。
入口へ戻ると、見張りの探索者が目を丸くした。
「お前……あの、荷物持ちの灰原か? 一人で潜ってたのか」
「あ、はい」
「怪我はないのか。運がいいな」
俺は笑って誤魔化した。
協会に戻ると、ロビーの空気がおかしかった。
人がモニターの前に集まっている。
ロビーの隅に、鷹野さんたちの姿が見えた。目が合いかけて、鷹野さんのほうが先に視線を逸らす。白石さんだけが小さく頭を下げた。
映っているのは北浜D級ゲートの映像だった。
『――北浜D級ゲート、討伐隊の第一陣は、ボスに阻まれ撤退しました。D級探索者8名のうち3名が重傷。ゲートの主は推定C級相当』
アナウンサーの声が続く。
『ゲートの崩壊まで、残り約12時間。崩壊した場合周辺の住宅地に魔物が流れ込む可能性があります』
ざわめきが広がった。
「C級……? D級ゲートにそんなのが」
「だれか行ける奴いないのかよ」
誰も答えなかった。
俺はモニターの映像をじっと見ていた。
昨日、俺を殺しかけたあのミノタウロスだった。
そのとき、視界が赤く染まった。
【緊急クエスト発生】
【D級ゲートの主を討伐せよ】
【制限時間:ゲート崩壊まで】
【報酬:経験値 +1000】
【失敗した場合:レベルが3つ下がります】
C級。D級8人でも勝てなかった相手だ。
でも、俺は小さく笑っていた。
今日の俺なら……!




