第9話 塩の荷
冬の前に塩が来ます。荷の後ろに立って、空を見る目とすれ違います。
谷の口まで一人で行けるようになってから、七日と少し。空が、また低くなった。雨ではない。冬の前の、乾いた低さだ。霜は、まだ本格ではない。石の陰だけが、朝だけ白い。
数え七つの年は、火と獣と嵐を越えて、塩の話まで来た。父が言っていた、分からないほうの話だ。分からないまま、来た。隣村の男が、小さい荷車を引いて谷の道に現れた。山羊ではない。人が前に立つ。車輪が、濡れて乾いた土を噛む。噛む音が、口の石まで届く。届く距離に、俺はいた。許可どおり、口まで来ていた。奥へは行っていない。行っていない位置で、荷と逢った。
「塩だ。少ない。今年はどこも少ない」
男は、そう言って袋を一つ下ろした。白い。村の井戸より白い。母なら、鍋のほうへ目を動かす色だ。俺は動かさない。動かす役は、値を切る父と、空を見る爺さんだ。見る役は、大人だ。俺は、車輪の横だ。袋を持てる重さだけ持つ。前ではない。男の顔を見る位置ではない。
谷風が、一本、道を撫でた。荷車が、傾いた。塩の袋が、山側へ寄る。寄ったままだと、次の石で落ちる。落ちたら、白いものが土に溶ける。溶けると、冬の鍋が薄いまま終わる。薄い鍋は、火の十日後の水と同じだ。あるとないでは、家の残る長さが変わる。
俺は荷の陰で、通っている流れの端に乗った。押して車を起こさない。起こす力はない。袋の寄る向きだけ、道の内側へ薄く戻す。一度目、戻らない。二度目、袋が中央へ寄った。三度目、寄らない。四度目、寄った。再現は、まだ半分だ。半分で、袋は落ちなかった。男が、車輪を踏ん張った。踏ん張ったあと、空を見た。
「今の風、相性がいいな。道が助けた」
道が助けた、でいい。光は、道に渡す。俺は袋を持ち直した。持ったまま、男の目を見ない。見ると、名前が付く。付くと、口までの許可が、口以上になる。以上は、まだ守りではない。塩が来ても、奥の穴には入らない。入らない線は、荷が来ても動かない。
村まで、荷は無事だった。母が塩を一つ摘んで、舌に乗せた。乗せたまま、短く頷いた。足りない。足りないが、ある。ある冬と、ない冬は違う。井戸で男が水を飲んだ。飲んで、焼けた山を見た。
「火の話は、聞いた。風が裏返った、とも聞いた」
爺さんが、空を見たまま答えた。
「裏返った。茅も残った」
俺は、水を汲む役に回った。汲んで、渡す。渡す手が、子どもの手だ。裏返した、とは言わない。言わない手が、一番いい。男は俺を一度見た。見たまま、荷の縄を直した。直す手が、器用だ。器用な人の後ろは、いつか付く場所かもしれない。今は付かない。今は袋だ。
夕方、男は隣村へ戻ると言った。冬の前に、もう一度来られるか、分からない、とも言った。分からない話は、塩のときと同じだ。同じでいい。来たら、また後ろに立つ。来なくても、鍋に白が残る。父が、塩の袋を小屋の棚へ上げた。上げるとき、扉は開いている。谷の端が入る。閉めると、無風だ。塩は、閉めたあともそこにある。風がなくても、塩は減らない。減らないものは、俺の仕事ではない。仕事は、落ちそうな袋だけだ。
「口まで、一人で来い。奥はだめだ」
父が、明日の許可を繰り返した。繰り返すのは、忘れないためだ。俺は頷いた。荷の後ろに立てても、奥の穴には入らない。
夜、鍋がいつもより味を持った。母が、俺の碗を見た。見たまま、
「後ろにいるの、上手いね」
と言った。風が上手い、ではない。後ろにいるのが上手い。それなら、受け取れる。受け取っても、吹いたことにはならない。俺は碗を持った。
「うん」
窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。荷車の轍は、まだ土に浅い。浅い轍の先に、隣村がある。あることを、今日は舌が知っている。舌が知っているだけで、足はまだ村にある。足は、それでいい。
塩の荷が隣村へ消えてから、三日。轍は霜の残りの土に埋もれた。鍋の白だけが、家に残った。数え七つの冬が、足元から本格になった。谷の口の石が、朝だけ白い。俺は許可どおり、口まで歩いた。奥は見ない。見るのは、一本の道と、葉の端だ。人の目のないところで寄せても、半分だ。半分のまま、戻る。戻ることが、荷のない日の仕事だ。
帰り、井戸のところで爺さんと逢った。逢いたくて逢ったのではない。空を見ている人の横を、袋を持って通った。通った足が、止まった。止められた。袖ではない。声だ。
「火の日も、獣の日も、嵐の日も、お前は陰にいたな」
短い。責めていない。褒めてもいない。見ていた、というだけだ。見ていた人に、光を渡してきた。爺さんの空、父の槍、母の鍋、隣村の道。渡したつもりが、渡し先が、陰を見ていた。
俺は袋を持ち直した。持ち直して、短く言った。
「家、のこった」
「のこった」
爺さんは空を見た。見たまま、俺は見ない。見ないと決めた目だ。決めた目は、火の日の煙より怖い。煙は、割れ目があればずらせる。目は、ずれない。ずらせば、名前が付く。
「風の裏返りを、空のせいにしたのは、わしだ。塩の男にも、そう言った。言う役は、大人だ」
俺は頷かなかった。頷くと、裏返した側になる。ならない。ならないことが、守りだ。爺さんは、頷かない俺を見て、短い息を吐いた。
「それでいい。子どもが前に出ると、辺境は持たない。持てない話は、よそへ漏れる」
よそ。隣村。塩の男。漏れると、来る人が、袋の後ろではない人になる。見る人、測る人、名前を付ける人。付けられたら、母の鍋は守れても、家の位置が変わる。位置が変わると、陰が消える。陰が消えると、俺の仕事がなくなる。荷の後ろに立てても、名前が付いたら、後ろではなくなる。
俺は袋を渡さなかった。渡す相手ではない。自分の家の芋だ。芋を持って、一歩下がった。下がった位置が、いつもの位置だ。爺さんは、それ以上言わなかった。空を見た。見る役を、続けてくれた。続ける人がいるうちは、俺は陰でいい。塩の男がもう一度来ても、空のせいにしてくれる人が、先に立ってくれる。
家で、母が霜の付いた布を叩いていた。叩いて、
「爺さんに、何か言われた?」
と聞いた。俺は碗のほうを見た。見たまま、
「空」
と言った。空、で足りる。母は、それ以上聞かなかった。聞かない母が、火の日も、塩の日も、俺の袖を引きすぎない。引きすぎないことが、許可を守る。後ろにいるのが上手い、と言った母が、今日は空、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。
午後、裏の小屋の扉を開けた。霜が、敷居についていた。谷の端が入る。芋が動く。塩の袋が、棚の上で白い。閉めた。止まる。爺さんの目の前でも、閉めた小屋は無風だ。目から隠れても、無風は解けない。塩は、風がなくても減らない。減らないものと、減る息を、混ぜない。解けないものを、今日も開けない。
父が山から戻り、塩を一つ摘んだ。摘んで、
「男は、もう来んかもしれん。来たら、荷の後ろだ」
と言った。荷の後ろ。爺さんの空。口まで。同じ種類の言葉だ。前ではない。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。爺さんに頷かなかったことと、父に頷いたことは、矛盾しない。空には付かない。位置には付く。
夜、初めての氷が、窓の外で鳴った。細い。炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の鍋に、白が残っている。残っている冬は、薄い冬より長い。長くなった分だけ、急がなくていい。
俺は端に座った。座ったまま、明日も口まで歩く。歩く先に、隣村の轍はない。なくてもいい。轍がもう一度付いたら、その後ろに立つ。立つまで、名前は付けない。爺さんの空が、代わりに見ていてくれるうちは、それで足りる。霜が、窓の下で白く残った。俺は口を閉じた。閉じたまま、袋の紐を直した。直して、寝た。
塩は届き、荷は落ちませんでした。爺さんは陰を見ていたと言い、空のせいにしてくれるとも言いました。俺は、荷の後ろにいて、爺さんには頷いていません。




