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第10話 雪の口

霜の次は、雪です。谷の口へ続く道が、白く消えます。

 氷の鳴った夜から、五日と少し。白いものが、本格に降った。霜の朝とは量が違う。窓の布は動かない。動かないのは、無風ではない。雪が、布の外で音を食っている。食われた音の下で、炉だけが小さい。


 数え七つの冬は、塩のある冬だ。鍋の白は残っている。残っているのに、道がない。父は朝、自分の靴を見て、俺の靴は見なかった。見ないことが、今日の許可だ。許可のない日は、口まで一人、が消える。消える許可は、破らない。破ると、家が残らない。残らない歩きは、守りではない。


「口は、やめだ。道がねえ」


 父は短く言った。口まで一人、は、道がある日の話だった。道が消えた日は、口も奥も同じだ。見えない場所へ一人は、火の日の前に出るのと同じ種類だ。俺は頷いた。爺さんに頷かなかったことと、矛盾しない。位置の話には頷く。名前の話には頷かない。今日は位置だ。


 母が井戸の袋を持って、敷居で止まった。雪が、膝まで来ている。来ているのに、水は要る。塩があっても、水が薄ければ鍋は持たない。火のあとの細い井戸を、冬がまた細くする。細いものを、雪が埋める。埋めた蓋は、手で開ける。手の仕事の日は、息の仕事を足さない。足すと、名前が付く。


 父が先に出た。出る背中に、俺は付かない。付く位置は、戸の陰だ。嵐の夜と同じ種類の陰だ。ただし、殴る風はない。あるのは、積もる一方だ。積もるものは、流れに乗りにくい。乗りにくい日は、無理に乗らない。乗らないことも、仕事だ。仕事を捨てる練習は、嵐の夜に一度した。今日もする。


 母が、袋を俺に渡した。空の袋だ。空なら、七つでも持てる。持てる重さだけ持つ。前に出て掘らない。掘る肩は、足りない。足りない場所は、捨てる。捨てたまま、掘った道の後ろを歩く。歩く足が、すぐ白い。白い足を、いちいち払わない。払うと、遅れる。遅れると、水が遅れる。


 井戸まで、父が道を掘った。爺さんも来た。空は見えない。白い。見る役の人が、今日は鍬を持っている。持っている人の後ろで、俺は袋を持ち直した。持ち直す手が、塩の日と同じだ。同じでいい。前ではない。


 井戸の蓋が、雪で埋まっていた。父が開ける。開けると、水はある。あるが、口がすぐ白い。白い口に、掘った雪が戻る。戻る向きが、風ではない。落ちるだ。落ちるものに、端はない。端がない相手は、借りられない。借りられない朝は、手が仕事だ。父の手、爺さんの手。俺の手は、袋だ。


 一度、蓋の縁から雪が崩れた。崩れた塊が、父の手首へ落ちそうになる。落ちそうな塊の横に、細い隙間風があった。家の壁沿いから、井戸側へ漏れる、弱いものだ。嵐ではない。谷の一本でもない。漏れだ。穴の割れ目と同じ種類だ。俺は戸の陰から、その漏れの端だけに乗った。塊を飛ばさない。飛ばす力はない。落ちる向きだけ、父の手から、すでに掘った穴の外へずらす。一度目、ずれない。二度目、塊が横へ落ちた。三度目、落ちない。四度目、落ちた。再現は、まだ半分だ。半分で、父の手首は濡れなかった。


 父は振り返らなかった。振り返らなくていい。光は、鍬に渡す。渡す相手が、今日は空を見ない。見ない日は、鍬が空だ。俺は袋を渡した。渡すとき、口は閉じている。閉じていることが、爺さんの言う、子どもが前に出ない、だ。出ない子の袋に、水が入った。入った袋は重い。重い袋は、俺の肩ではない。父が持つ。俺は空の袋を持って、掘った道を戻る。


 戻る途中で、父が止まった。止まった先が、谷の口へ続く道の、始まりだった場所だ。石が、一つ、白く盛り上がっている。盛り上がりの下が、いつもの石かどうか、足では分からない。分からない道を、一人で歩く許可は、今朝なくなった。なくなった道を、目で見るだけなら、許可の外ではない。見る役は、今日は父だ。俺は横から見た。見たまま、奥は見ない。奥の穴は、雪の下でも穴だ。穴へ一人は、道があっても禁止だ。道がない日は、なお禁止だ。


「あれが、口だ。今は、口じゃねえ」


 父は、白い盛り上がりを顎で示した。示したまま、俺の袖は引かない。引かなくても、足は動かない。動かない足が、今日の正解だ。爺さんが、後ろから短く言った。


「春までだな。雪の口は、人を食う」


 食う、は、獣の日の口とは違う。白い口だ。白い口に、轍はない。隣村の男の車輪が噛んだ土は、下だ。下の轍の上に、後ろに立つ日はない。ない冬を、鍋の白で越す。越せたら、春に口まで歩く。歩く先に男がいたら、荷の後ろだ。いなくてもいい。いなくても、家があればいい。


 俺は白い盛り上がりを、もう一度見た。見るだけなら、許可の外ではない。見た足が、半歩だけ前へ出た。出た先に、道はない。ない道の下に、いつもの石があるはずだ。はずだ、で歩くと、穴の日と同じになる。穴の日は、中が無風で詰んだ。雪の口は、中が見えない。見えない中へ半歩は、守りではない。俺は半歩を戻した。戻した足を、父は見ていた。見て、袖は引かない。引かなくても、戻った。戻ることが、雪の口での、いちばん大きな仕事だ。入らない。開けない。待たない。待たない、は、嵐の夜に決めた。今日決めたのは、入らない、だ。入らない線は、荷が来ても動かなかった。雪が来ても、動かない。


 帰り、父が短い薪を家の壁から剥がした。剥がした穴に、雪がすぐ入る。入る向きが、落ちるだ。落ちるものに端はない、と井戸で思った。思ったまま、壁沿いの漏れだけ探した。ある。弱い。薪の上の雪を飛ばさない。飛ばす力はない。落ちる向きだけ、すでに掘った足元の外へずらす。一度目、ずれない。二度目、端が崩れた。崩れた白が、父の靴ではなく、道のほうへ落ちた。父は薪を抱えて、振り返らなかった。振り返らなくていい。光は、薪に渡す。渡す相手が、今日は山へ行かない。行かない日の火は、家の壁からだ。家の壁から取れた火は、谷の口より近い。近い火を、後ろで数える。


 家の手前で、山羊の柵が傾いていた。獣の日に直した柵だ。雪が、内側へ押している。押している先に、山羊が短い声を出した。声も空気だ。空気は、雪の下でも少し動く。少しだけだ。穴の割れ目ほどではない。ないよりは、ある。ある声を、母が聞いた。聞いて、傾きを見て走った。走るな、とは言わない。言うと、前に出る。俺は陰から、柵の板の間を見た。間に、弱い漏れがある。家側から外へ。山羊の匂いが、外の白へ逃げる向きだ。逃げる向きを、中へは戻さない。戻すと、獣の日と逆になる。獣はもう来ない。来ない冬に、匂いを家へ返す必要はない。必要は、板が倒れないことだ。倒れそうな上の雪を、漏れの端で、外へ落とす。落とす、だけだ。一度目、落ちない。二度目、端が崩れた。崩れた雪が、山羊の背ではなく、柵の外へ落ちた。母が板を押した。押した板が、残った。残った理由は、母の手だ。手でいい。


「今の、雪がよかった」


 母は空を見ない。見ないで、板を縄で巻く。雪がよかった、でいい。道が助けた、の仲間だ。光は、雪に渡す。俺は袋を持ち直した。持ち直して、家へ入った。入った足が、白い。白い足を、敷居で払う。払う役は、子どもでもできる。できる役だけする。


 水を炉の横に置いた。置いた鍋に、塩を一つ。一つは、昨日より少ない。少ない手つきを、母は隠さない。隠さない母が、冬の長さを知っている。知っている人の横で、俺は碗を並べる。並べる役も、できる。できる役を、名前にしない。


 午後、父は山へ行かない、と言った。道がねえ、の繰り返しだ。俺も行かない。行かない許可を、守る。裏の小屋の扉は、雪で半分埋もれていた。父が足で雪を退けて、開けた。開けると、谷の端が入らない。入らない。霜の日は、開けた瞬間に芋が動いた。今日は、動かない。雪が、漏れを塞いだ。塞がれた小屋は、閉じる前から無風だ。無風の克服は、今日もしない。しない日が、続く。続くことを、忘れない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、風がなくても減らない。減らないものと、塞がれた息を、混ぜない。解けないものを、今日も開けない。父が塩を見て、扉を閉めた。閉めて、


「男は来ん。来ても、道がねえ」


 と言った。荷の後ろに立つ日は、道がある日だ。道がない日は、後ろも前もない。ない位置で、無理に立たない。立たない冬を、棚の白で越す。越すあいだ、俺の仕事は、口へ行かないことだ。行かないことが、見える仕事ではない。見えない仕事は、爺さんの空に似ている。似ていても、空には付かない。付くのは、家の端だ。


 家へ戻って、窓の布を見た。布は動かない。動かない理由は、朝と同じだ。雪が、外で音を食っている。食われた窓の下は、小屋に近い。近い、だけで、炉はある。炉があれば、上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻る部屋と、塞がれた小屋は、別だ。別なのに、窓だけ見ると、無風に見える。見えるものに騙されない。窓の外は白い。白い外に、口がある。ある場所へ、今日は行かない。


 戸口で、爺さんが一度だけ止まった。空は白い。見るものがない日の、見る人だ。俺と目が合う。合わせない。合わせないまま、袋の紐を直す。直す手が、霜の夜と同じだ。爺さんは、今日は陰の話をしない。しないで、白いほうを顎で示した。示したまま、


「春だ」


 と言った。口で言った春と、同じだ。同じを、空を見る人が、もう一度止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。俺は短く言った。


「春」


 頷いたかどうかは、自分でも分からない。位置の話だ。名前ではない。爺さんは、それで戻った。戻る背中が、掘った道をまた白くする。白くなっても、水は家にある。山羊は鳴いて、止まった。止まったまま、柵は残っている。残っているものを、数えられる冬だ。火の夏は、残るものが少なかった。少ない夏を越えて、白い冬に、水と塩と山羊がある。ある、が、今の事実だ。


 夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、氷の夜より太い。太い鍋の前で、母が碗を置いて、


「後ろにいるの、今日も上手いね」


 と言った。上手い、の中身は、走らなかったことだ。口へ行かなかったことだ。柵の板は母が押した。雪がよかった、と言った。井戸の塊は、鍬の日だ。俺は碗を持った。


「うん」


 父が、窓の外を見て言った。


「隣村は、今当分だ。荷は来ん。口も、春までだ」


 轍は、雪の下だ。下の轍の上に、後ろに立つ日はない。ない、と、父が二度言った。二度言われたら、覚える。覚えることは、短い。短いことを、碗の湯気の向こうで繰り返す。春。口。荷の後ろ。爺さんの空。同じ種類の言葉だ。前ではない。


 母が、碗を下げて聞いた。


「口、見えた?」


 俺は窓のほうを見た。見たまま、


「白い」


 と言った。白い、で足りる。奥は見えない。見えないことを、奥まで行った、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎないことが、許可を守る。後ろにいるのが上手い、と言った母が、今日は白い、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。父は薪を一本足した。足した火が、横の鍋をなめる。なめた鍋に、白が残っている。残っている冬は、薄い冬より長い。長くなった分だけ、急がなくていい。


 夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の部屋の端は、霜の夜よりマシだ。マシな理由を、置き方にしておく。窓の外は、音が少ない。少ない音の中で、山羊が一度鳴いた。鳴いて、止まった。止まった先に、雪の口がある。ある場所へ、明日は歩かない。歩かない靴を、端に置く。置く役は、子どもでもできる。父が、置いた靴を一度見た。見て、動かさない。動かさない靴が、春までの許可だ。許可のない靴の横で、俺は紐を巻く。巻く手が、荷の日と同じだ。同じでいい。前ではない。


 俺は端に座った。座ったまま、白い盛り上がりを一度だけ思った。思って、奥は思わない。思わない穴は、雪の下でも禁止だ。禁止の横で、小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けないことが、雪の口での、残った仕事だ。寝る家に、水がある。塩がある。柵がある。あるものを、明日も後ろで数える。俺は口を閉じた。閉じたまま、紐を直した。直して、寝た。

雪で道が消えました。口までは春までです。井戸の水は入り、山羊の柵は残りました。俺は戸の陰にいました。

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