第11話 塩の底
雪の口のあとも、冬は続きます。鍋の白が、底を見せます。
雪の口から、十日と少し。白い道は、掘っても掘っても、朝には戻る。口までの許可は、まだない。ない日が続く。続くことを、靴が知っている。俺の靴は、端に置かれたままだ。
数え七つの冬は、塩のある冬だった。あった。今は、底だ。母が袋を逆さにする。白い粒が、三つ落ちる。三つを、鍋に入れない。入れないで、布に包んで棚へ戻す。戻す手が、短い。短い手が、冬の残りを数えている。
「今日は、薄いでいい」
母は、そう言った。薄い、は、火のあとの井戸と同じ種類の言葉だ。あるとないでは、家の残る長さが変わる。変わる前に、分けた。分けた白は、隣の家へ一つ、爺さんへ一つ、自分の棚へ一つ。自分のが、いちばん小さい。小さいほうを取る母を、俺は見ていた。見る役は、今日は子どもでもできる。できる役を、名前にしない。
父は山へ行かない。行かない日が、雪の日から続いている。行かない父が、壁の薪を数えた。数えて、
「隣が、熱い」
と言った。熱い、は、炉の話ではない。人の話だ。隣の女が、昨日から寝ている。小さい子が、戸の外で短い声を出している。声も空気だ。雪の下でも届く。届く声を、母が聞いた。聞いて、鍋を持った。持ったまま、俺の靴を見た。見た靴は、口へは行かない。隣なら、道がある。ある道の後ろに、付いていい。
「ハルは、袋」
母は短く言った。袋は空だ。空なら、七つでも持てる。持てる重さだけ持つ。前に出て看病しない。看病する肩は、足りない。足りない場所は、捨てる。捨てたまま、掘った道の後ろを歩く。
隣の家は、うちより小さい。炉はある。あるのに、端が冷たい。煙が、梁の下で止まっている。止まって、散らない。散らない熱は、女の顔の上だけをなめる。端の子が、肩をすくめている。すくめた肩に、布が二枚重なっている。重なっても、端は冷たい。冷たい部屋を、俺は知っている。炉の冬に、一度直した。直した、とは言わない。鍋の位置が、今日も手前だ。手前の鍋が、熱の通りを狭めている。
母が女の額に手を置いた。置いて、短い息を吐いた。吐いて、
「炉は、ある。置き方が、うちと違う」
と言った。違う、を、責めていない。うちの鍋が横なのは、母が寄せたからだ。寄せた理由を、母は置き方、と呼ぶ。呼ぶ人が、今日は隣の鍋を指した。俺は指された鍋を見た。見たまま、口は閉じている。閉じたまま、鍋のほうへ半歩だけ出た。出る役は、寄せる、だけだ。寄せて、前に出ない。
「そこ、よける?」
母が聞いた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。鍋が横へ寄る。寄った隙間から、熱い空気が広く上がった。上がった端に、俺は乗った。押さない。谷の葉と同じだ。先にある流れに、薄く重ねる。上へ逃げる熱を、壁沿いに、子のいる端へ、少しだけ戻す。一度目、戻らない。二度目、子の裾が、ほんの少し動いた。風ではない。暖かい側が、裾を撫でただけだ。三度目、同じ場所が、また撫でた。四度目、撫でない。再現は、まだ半分だ。半分で、子の肩が、一度だけ下がった。
母は振り返らなかった。振り返らなくていい。光は、置き方に渡す。渡す相手が、今日は隣の鍋だ。俺は空の袋を持ち直した。持ち直して、戸の陰へ戻った。戻った位置が、いつもの位置だ。
女が、薄い声で言った。
「今の、端、あったかい。お前んちの、置き方か」
「置き方」
母は、それだけ言った。言って、塩を一つ、隣の碗に落とした。落とした白は、うちの三つより小さい。小さい白が、湯に溶ける。溶ける音は、うちの鍋より細い。細くても、ある。ある冬と、ない冬は違う。子が碗を持った。持った手が、震えていない。震えていないことを、母は見ないふりをした。見ないふりが、許可を守る。後ろにいるのが上手い、と言った母が、今日は置き方、で止めてくれた。
爺さんが、戸口に立っていた。空は、今日も白い。見るものがない日の、見る人だ。俺と目が合う。合わせない。合わせないまま、袋の紐を直す。爺さんは、陰の話をしない。しないで、干した肉を一つ出した。出したまま、
「熱い日は、塩より肉だ。子どもは、前に出るな」
と言った。前に出るな。火の日も、雪の日も、同じだ。同じを、空を見る人が、隣でも止めてくれた。俺は短く言った。
「袋」
袋、で足りる。看病した、とは言わない。熱を戻した、とも言わない。言わない手が、一番いい。爺さんは、それで肉を母に渡した。渡す役は、大人だ。俺は受け取らない。受け取ると、光が来る。来る位置ではない。
午後、うちへ戻った。裏の小屋の扉は、雪でまだ半分埋もれている。開けない。開けても、雪の日は漏れが塞がっていた。塞がれた小屋は、熱もない。熱のない場所へ、隣の女は連れていけない。連れていけないことを、忘れない。塩の袋は、棚の上で薄い。薄い白は、風がなくても減る。減るものと、塞がれた息を、混ぜない。混ぜない日が、続く。
母が、棚の三つを掌に乗せた。乗せて、一つを隣の分と数え、一つを爺さんと数え、一つをうちと数えた。数えた掌が、空に近い。空に近い白を、俺は増やせない。増やす相手が、雪の外にいない。いない冬は、分けるしかない。分ける母の横で、俺は碗を拭く。拭く役も、できる。できる役を、息にしない。
「ハル、口、行きたくない?」
母が聞いた。俺は靴のほうを見た。見たまま、
「道、ない」
と言った。ない、で足りる。行きたい、を言わない。言わない子の袖を、母は持たない。持たないことが、禁止を守る。父が、壁の薪を一本ずらして、短く言った。
「行きたくても、道がねえ。熱い隣が、先だ」
先だ。口より、隣だ。隣の置き方が、今日の仕事だった。仕事のあとに、口はない。ない許可を、二度言われたら、覚える。
父が、戻った俺の靴を見た。見て、動かさない。動かさない靴が、口までの禁止だ。禁止の横で、
「隣は、持つか」
と聞いた。俺は碗のほうを見た。見たまま、
「置き方」
と言った。置き方、で足りる。母が先に言った言葉だ。父は短く頷いた。頷いて、薪を一本足した。足した火が、うちの端をなめる。なめた端は、隣より広い。広い理由を、置き方にしておく。しておかないと、隣の女の口から、息の話が漏れる。漏れると、見る人、測る人、名前を付ける人が来る。付けられたら、陰が消える。陰が消えると、俺の仕事がなくなる。
夕方、鍋は薄い。薄い鍋に、爺さんの肉が沈む。沈んだ肉を、母が三つに切った。三つ。隣へ一つ持っていく分を、先に取り分けた。取り分けた母が、俺の碗を見て、
「後ろにいるの、今日も上手いね」
と言った。上手い、の中身は、看病しなかったことだ。鍋を寄せただけだ。寄せた鍋に、光を渡した。俺は碗を持った。
「うん」
父が、窓の外を見て言った。
「塩は、底だ。隣も底だ。口は、まだだめだ」
底と、だめは、同じ冬の言葉だ。同じを、二度言われたら、覚える。覚えることは、短い。短いことを、碗の湯気の向こうで繰り返す。置き方。袋。前ではない。
夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の部屋の端は、隣の端よりマシだ。マシな理由を、うちの置き方にしておく。窓の外は、音が少ない。少ない音の中で、隣の子が一度だけ咳をした。咳も空気だ。空気は、雪の家でも少し動く。少しだけだ。動いた先に、熱い女がいる。いる家に、置き方が渡った。渡ったものでいい。俺が渡った、とは言わない。
寝る前、母が隣へもう一度行った。行った背中に、俺は付かない。付く位置は、うちの戸の陰だ。陰から、隣の窓を見る。窓の布が、うちより弱い。弱い布の下で、子の声がした。短い。熱い女の声も、短い。短い声が、碗に当たっている。当たっている家は、残っている。残っているものを、数えられる冬だ。母が戻って、
「置いてきた。向こうの鍋、横のまま」
と言った。横のまま。寄せた位置が、夜も残った。残った位置に、光はある。光は、うちの置き方だ。俺は頷いた。頷いても、隣で乗った熱の端は、言わない。言わない夜の小屋を、一度だけ思った。思って、開けない。開けない小屋に、熱い女は置けない。置けない壁が、雪の中の壁だ。壁のこちらで、薄い鍋がある。
俺は端に座った。座ったまま、棚の三つを一度だけ思った。思って、増やさない。増やす力はない。ない力で、口へ行かない。行かない靴の横で、袋の紐が乾いている。乾いた紐を巻いて、寝る。寝る家に、薄い鍋がある。薄い、が、今の事実だ。隣にも、置き方がある。ある冬は、底でも残る。残るうちは、急がなくていい。俺は口を閉じた。閉じたまま、碗を置いた。置いて、寝た。
塩は底です。隣の家へ、置き方と、小さい白を分けました。俺は袋を持って、戸の陰にいました。口へは行っていません。




