第8話 谷の口まで
雨のあと、水は戻ります。俺は、谷の口まで一人です。
嵐の翌々日、井戸の色が変わった。暗い水が、少し薄い。谷の流れも、石の間から顔を出した。数え七つの乾いた年は、ここで一度、息をついた。
父は朝、俺の靴を見た。見たまま、短い枝を渡した。槍ではない。道を払う枝だ。
「口までなら、一人でいい。奥はだめだ」
谷の口。穴の口と同じ種類の言葉だ。口で待て。柵の中。戸の陰。今日は、口まで一人。奥は、火も獣も穴もあった。奥へ一人は、まだ守りではない。口までなら、借りる相手が見える。見えて、戻って来られる。
母は袖を持たなかった。持たずに、弁当の葉を一つ出した。出したまま、
「遅くなったら、叫べ」
と言った。叫ぶ声も、空気だ。届くか、は風次第だ。今は届く距離だけ歩く。届かない奥へは行かない。
一人で、谷の入り口まで下りた。背負われる背中はない。土は、雨のあとで柔らかい。葉が、一本の道でしなっている。昔、父の背中から見た木だ。今は、自分の目の高さだ。風は、ある。暴れていない。乗る端が、見える。
誰もいない。爺も、父も、母もいない。光を渡す相手が、いない。いない朝は、吹いても名前が付かない。付かないうちに、葉を一枚、壁側へ寄せた。一度目、寄る。二度目、寄る。三度目、寄らない。四度目、寄る。再現は、まだ半分だ。半分が、人の目の外でも半分だ。目の外でも、急に上手くはならない。ならなくていい。急がない。
口の石に座った。座って、奥を見た。奥は暗い。穴の口が、焼け跡のほうに見える。中は無風だ。割れ目の運は、毎日はない。毎日ないものに、一人では入らない。入らない、と決めて、袋に濡れた枝を二本入れた。薪ではない。道の印だ。戻るとき、迷わないための。
帰り際、隣村のほうを見た。冬の前は行き来が減る、と母が赤子の俺に言った道だ。今は、減ったままだ。火と獣と嵐のあと、人は自分の屋根を見る。見る余裕が戻ったら、誰かが来る。来る誰かの後ろに付く日は、まだ先だ。先でも、位置は後ろだ。前に出ない。
家に戻ると、父が棚の縄を直していた。俺は枝を見せた。見せて、奥へは行っていない、と短く言った。
「口」
「それでいい」
それでいい、が、許可の全部だ。上手い、ではない。見方が上手い、でもない。口まで、で止めてくれた。俺は頷いた。頷いても、今日は光が来ない。一人で葉を寄せたことは、石だけが知っている。石は、話さない。
母が水を汲んで、鍋を見た。色が薄い。薄い鍋の前で、俺は端に座った。端は、嵐の夜より暖かい。炉は小さい。回すほどの熱はない。それでも、上へ逃げるものはある。ある日だけ、壁沿いに薄く戻す。戻した、とは言わない。鍋の位置が、今日も少し横だ。横でいい。
午後、裏の小屋へ行った。扉を開けた。谷の端が、少し入る。芋が動く。閉めた。止まる。口まで一人で行けても、閉めた小屋は無風だ。一人の許可は、通り道のある場所だけだ。通り道のない場所の許可は、まだ出ていない。出ていないものを、無理に開かない。
夜、父が山の話をした。短い。奥の獣は減った。水は戻った。隣村から、冬の前に塩が来るか、分からない。俺は聞いた。聞いたまま、自分の名を出さなかった。出さない。出さないことが、口までの許可を守る。
いい。急がなくていい。
谷の口まで、一人で戻れる。奥の穴には、一人で入らない。嵐は、待たない。小屋は、まだ無理だ。母の鍋も、父の縄も、石の上の葉も、残ればいい。名前のないままでいい。口まで、でいい。一人、でいい。後ろ、でいい。
窓の布が、弱い谷風で膨らんだ。俺は目を閉じた。閉じたまま、明日も口まで歩くかどうかを、決めなかった。決めるのは、水と、空と、母の袖だ。俺は、端に乗るだけだ。
それが、続きだった。
谷の口まで、一人で行きました。奥の穴には入っていません。小屋は、閉めたら今も無風です。




