第6話 柵の陰
焼けた山から、腹を空かせたものが降ります。俺は、柵の陰です。
穴の水を汲んでから、二十日と少し。雨は、まだ来ない。鍋の色は、前よりマシだ。マシなだけで、足りてはいない。
数え七つの夏が、細い秋に落ちた。山の黒い肩から、獣が降りてきた。火で棲みかを失ったのか、水を追ったのか。爺さんは「腹だ」とだけ言った。腹なら、村の鶏も、山羊も、同じだ。
最初の被害は、夜明け前だった。柵が割れ、羽が散っていた。父は槍を出した。斧ではない。狩のほうだ。男たちが、また集まる。山火事の日より人数は少ない。火は村の問題だった。獣は、狩れる者の問題だ、という顔もある。
「子どもは家だ」
父が言った。穴の日は、口で待て、だった。今日は家だ。家でいい。家の陰も、柵の陰も、後ろだ。後ろでいい。
俺は袋を持たなかった。水の日ではない。持てるものは、短い言葉と、先にある流れだけだ。谷風は、朝から一本、山側から村へ吹いている。火の日と同じ向きだ。獣も、その道に乗って降りてきやすい。風上は山。風下は鶏。匂いも、音も、風下へ落ちる。分かっている。前の世界でも、獣は風下を嫌った。今の俺に、獣を倒す力はない。あるのは、匂いの落ちる向きを、少しだけ足すことだけだ。
母は井戸にいなかった。鶏の裏で、羽を拾っていた。拾いながら、俺の袖を一度だけ引いた。中へ、ではない。柵から出るな、だ。俺は出なかった。出ないことが、今日の守りだ。穴の中で詰んだ。柵の外でも、詰む。詰む場所へは、入らない。
男たちが、焼け跡の裾へ出た。父が先。槍の先が、乾いた草を分ける。獣の足跡は大きい。猪、と誰かが言った。狼、とも言った。名前は、俺にはどうでもいい。名前より、向きだ。谷風が、村の匂いを山へ返していない。返していないから、獣は家を知っている。
俺は柵の陰に屈んだ。屈んで、通っている流れの端に乗った。押さない。獣に当てない。当てると、前に出たことになる。足すのは、匂いだ。鶏の散った匂い、山羊の糞の匂い、人の汗。それを、風下の家側から、山側へは返さない。返すと、獣が迷う前に、父たちの後ろへ来る。迷わせるなら、横だ。谷の壁側へ、薄く。足跡の道を、家から外す。
一度目は、外れなかった。草が鳴った。近い。二度目、匂いの裾が、壁側の藪へ寄った。三度目、寄らなかった。四度目、寄った。再現は、まだ半分だ。半分を、続けた。
「向こうだ」
父ではない。若い男の声だ。槍が、藪へ向く。獣が、家ではなく、壁側の乾いた斜面へ出た。腹は空いている。空いているのに、鶏の柵へは来ない。来ない理由を、誰も俺には聞かない。聞かれなくていい。風がいい、で足りる。匂いが横へ落ちた。落ちた先に、父の槍がある。
短い音がした。獣の声だ。人の声ではない。父が、前に出る。俺は出ない。柵の板が、頰に当たる。当たったままでいい。光は、槍に渡せばいい。
終わったあとも、俺は陰にいた。男たちが、獣を引いて戻る。腹は空いていたらしい。焼け跡の肉は、今の村には大きい。母が井戸へ走る。走る前に、俺の頭を一度見た。見ての、何も言わない顔だ。冬の鍋とも、火の日の爺さんとも違う。今日は、聞かないと決めた顔だ。
「風上を歩いた。運がいい」
父が、誰にともなく言った。運がいい、で止めてくれた。子どもが吹いた、とは言わない。魔法、とも言わない。狩が上手い、でもない。風上を歩いた。それで十分だ。俺は短く言った。
「家、のこった」
火の夜と同じ言葉だ。父は、一度だけ俺を見た。見たまま、槍の血を布で拭いた。
「柵の中にいたな」
「うん」
中にいた、で終わった。穴の口で待て、と同じだ。待てた。待った場所で、匂いの向きだけ足した。足したことは、言わない。言わなければ、次の獣も、次の火も、爺さんの風と父の槍で残せる。
夕方、裏の小屋を開けた。開けて、閉めなかった。閉めないうちは、谷の端が少し入る。芋の皮が、一度だけ動いた。扉を閉めると、止まる。割れ目のない無風は、穴の漏れとは違う。穴は、運がよかった。小屋は、運を持たない。持たない場所は、今も無理だ。無理な場所で獣が来たら、俺は袋も槍も持たない。母を、柵の内側へ押すことしかできない。
それが、今の限界だ。通り道がある外は、匂いも煙も、少し寄せられる。通り道がない中は、七つの肩だけだ。肩だけでは、猪は止まらない。止まらないから、中へ出さない。出さないことが、守りだ。
夜、鶏の残りが鳴いた。鳴き方は、いつもより短い。母が炉を小さく付けた。熱を回す夜ではない。付けるだけだ。俺は端に座った。端は、今日は怖くない。怖いのは、柵の外だ。外の風は、まだ一本ある。あるうちは、陰にいられる。
いい。急がなくていい。
借りる相手は、谷と、炉と、穴の割れ目と、匂いの乗る朝の風。乗せるものは、息だけだ。息を、火にも獣にも、正面からは足さない。横へ落とす。落とす場所は、父の槍と、爺さんの空だ。自分の前には、置かない。名前のないままでいい。風上を歩いた、でいい。柵の陰、でいい。
窓の布が、山側へ膨らんだ。獣の降りてきた向きだ。俺は口を閉じた。閉じたまま、柵の音を聞いた。音は、今夜は割れない。割れないうちは、家が残る。残ればいい。
それが、続きだった。
獣は、父の槍で止みました。俺は柵の陰で、匂いの向きだけを横へ落としました。




