第5話 穴の中は無風
山の火のあと、水が足りません。穴の中には、借りる風がありません。
火が白煙になってから、十日と少し。山の肩は黒い。家は残った。井戸は、残った家の分まで細くなった。
数え七つの夏は、まだ終わっていない。雨は、結局来なかった。谷の浅い流れは、石の間に落ちるだけだ。母は鍋の水を測って、口を結んだ。父は、山へ入る回数を増やした。焼け跡の奥に、昔の水場があるらしい。穴だ、と爺さんが言った。火の前からある穴で、中は涼しい、とも言った。
「子どもは、置いてけ」
父が言った。俺は袋を持ったまま、家の前で止まった。山火事の日、陰にいた。今日も陰でいい。ただし、水は家の中の問題だ。母の鍋は、陰だけでは満たない。
「水、みる」
短い言葉だ。父は俺の顔を見た。見たまま、袋を一つ渡した。連れていく、ではない。持て、だ。持てる重さだけ。後ろだ。後ろでいい。
焼けた斜面は、靴の裏が熱い。黒い草が、風に乗らない。谷風は、上ではある。穴の口は、斜面の陰にあった。口は低い。入ると、音が変わる。外の葉が、急に遠い。
父が先に屈んだ。松明ではない。短い枝に火を付けただけだ。煙が、すぐに顔の前で止まった。外なら、谷が持っていく。中では、持っていく相手がいない。
俺は口をすぼめた。吹いた。煙は、少し揺れて、戻った。芋の皮と同じだ。埃と同じだ。裏の小屋と同じだ。通り道がない。借りる相手が、いない。
無風だ。
分かっていた。それでも、体が先に試す。試して、何も起きない。父は振り返らない。振り返らなくていい。子どもが吹いたところで、穴は空かない。
奥で、水音がした。細い。石に落ちる音だ。父が膝をついて、袋の口を開いた。手が、暗いところへ入る。入ったまま、止まった。
「……岩が、落ちてる」
水場の手前で、焼けたあとの崩れらしい。隙間はある。袋は通る。人が屈むと、肩がつかえる。父は袋を隙間へ押し、水をすくおうとした。すくう前に、枝の火が揺れた。揺れて、煙が顔へ寄る。寄る向きが、出口ではない。行き場がない煙は、人の口へ来る。
父が咳をした。短い。続けて、もう一度。水はそこにある。空気が、そこにない。正確には、ある。動かない。動かない空気は、火の煙を溜める。溜まった煙は、父の仕事を止める。
俺は袋を置いた。置いて、隙間を見た。押しても、岩は動かない。七つの肩では、足りない。風も、足りない。外の谷は、口の外までだ。中までは来ない。
だから、探す。借りる相手を、外に限定しない。部屋の炉と同じだ。穴の中にも、何かが動いているはずだ。動いていなければ、水音が聞こえない。音は空気を伝う。伝うなら、道がある。
冷たい。足の甲に、細い流れが当たった。水ではない。水は奥だ。足元の岩の割れ目から、冷たい空気が漏れている。外の谷ほどではない。吐息より、少し多い。通り道だ。小さい。
俺は割れ目の端に乗った。押さない。足さない。先にある流れに、薄く重ねる。向きを、父の顔から、煙の溜まりから、奥の水のほうへ、ではない。出口側へ、でもない。割れ目の冷気が、煙を横へずらす向きへ。
一度目は、ずらなかった。煙は父の頰に残った。二度目、枝の火が、横へ一度倒れた。三度目、倒れたまま、父の口から離れた。再現は、まだ半分だ。半分を、続けた。
父が、袋を押し込んだ。水音が、革に当たる。咳は、止まったわけではない。止まったほうへ、寄った。隙間から袋が戻る。重い。俺は受け取らない。受け取れない重さだ。父が背負う。背負って、出口を見た。
「火が、よれたな。穴の風か」
俺は何も言わなかった。穴の風、でいい。割れ目の冷気、でいい。子どもではない。光は、穴に渡せばいい。自分は、割れ目の端に乗っただけだ。乗れたのは、漏れがあったからだ。漏れがなければ、父の咳は続いていた。続いていたら、水は今より少なかった。
外へ出ると、谷が戻ってきた。葉の音が、急に大きい。煙は、すぐに薄くなる。父は一度、空を見た。山火事の日と同じ目ではない。今日は、怒ってもいない。水が入った袋を、一度揺らした。
「中は、風がねえ。次は、お前は口で待て」
俺は頷いた。中で待つ必要はない。口で待つ。それも、守りだ。中に入って詰むより、袋を口で受けるほうが、家に水は届く。前に出ない。出ないことを、今日は守る。
帰り、俺は一度だけ振り返った。穴の口は、黒い。中の無風は、消えていない。割れ目の冷気は、運がよかった。運を、次も当てにするわけにはいかない。当てにできないものが、今の限界だ。
家で、母が袋を開けた。水は、いつもより色が暗い。それでも、鍋に入る。母は俺の顔を見て、靴の黒い灰を見て、何も聞かなかった。聞かなくていい。父が、先に言った。
「穴の風が、ちょっとあった。子どもは口だ」
「そう。口でいい」
母は俺の頭を撫でた。上手い、とは言わなかった。見方が上手い、とも言わなかった。口でいい、で止めてくれた。それで十分だ。俺は短く言った。
「水、ある」
「あるね」
夜、俺は裏の小屋に入らなかった。入らなくても、分かっている。扉の向こうは無風だ。割れ目もない。芋の皮は動かない。山の穴は、無風ではなかった。漏れがあった。漏れを借りた。漏れのない場所は、今も無理だ。
いい。急がなくていい。
借りる相手を、谷だけにしない。炉の熱も、穴の割れ目も、通り道になる。通り道がない場所は、まだ無理だ。母の鍋も、父の咳も、守れるようになるまで。名前のないままでいい。穴の風、でいい。口で待つ、でいい。
窓の布が、一度だけ膨らんだ。外の谷だ。中の俺は、口を閉じた。閉じたままが、今日の正解だ。中へは、まだ入らない。
それが、続きだった。
穴の中は、ほとんど無風でした。割れ目の冷気だけを借りて、父の後ろにいました。




