第4話 火に足さない
山が乾いています。火は、風を食べます。
数えで七つになった夏は、雨が少なかった。
炉の端が暖かい冬から、四年と少し。歯が抜けて、短い言葉は並ぶ。谷まで一人で行ってよい、とはまだ言われない。裏の小屋では、今もほとんど何もできない。扉を閉めると谷が消え、炉もなく、芋の皮は動かない。部屋の熱を回すことは、母の「置き方」のままだ。俺は頷かない。頷くと、光が自分に来る。光が来ると、守れなくなる。
乾いた年は、草が早い。谷の上の山が、黄色くなった。父は朝早く出て、夕方に埃を背負って帰った。斧の音が、いつもの倍あった。隣村との行き来は、さらに減った。水場は、村の井戸が一つと、谷の浅い流れだけだ。流れは、今年は細い。
最初の煙は、昼に見えた。
山の肩が、灰色だった。雲にしては低い。母が竿の布を取り込んで、空を見た。父は家にいなかった。山だ。煙の向きが、谷を伝って、村のほうへ下がっていた。
「中にいなさい」
母は短く言った。俺は従った。従ったまま、窓の布を見た。布は村側へ膨らんでいる。谷風が、火をこちらへ運んでいる。火は空気を食う。風を足せば、大きくなる。分かっている。前の世界でも、山の火は風で裏返った。今の俺に、裏返す力はない。あるのは、先にある流れの端に乗ることだけだ。
午後、男たちが集まった。父もいた。土と葉の匂いが、煙の匂いに混ざる。井戸の水を革袋へ移し、枝を刈る人がいる。土を掘る人もいる。火を消す、というより、家の手前で食い止める、という顔だ。魔法使いの姿は、見えない。辺境のシデ村に、火の術を持つ人は来ない。来ても、山全部を消すほどではないらしい。あるのは手と、水と、風の機嫌だ。
「子どもは下がれ」
父が言った。俺は下がった。下がった位置は、家の陰だ。前線ではない。荷物の陰、井戸の陰。副官、というほど立派な場所でもない。ただ、後ろだ。後ろでいい。
母は井戸で袋を渡していた。俺は袋を持った。持てる重さだけ。運んで、渡して、戻る。吹いた、とは言わない。見方が上手い、とも言われたくない。今日は、火に風を足さないことだけが仕事だ。
谷の入り口まで、煙が落ちてきた。目が痛む。男たちが枝を打ち、土を投げ、低い火を叩く。叩いても、風がある。炎は倒れても、すぐ起き上がる。起き上がる向きが、村だ。家の茅が、乾いている。一度届いたら、部屋の端を暖める話ではない。
父が振り返った。俺を見て、顎で家を示した。帰れ、だ。俺は一歩だけ戻った。戻ったまま、谷を見た。風は一本の道だ。奥から手前へ。火はその道に乗っている。押して止めようとしても、子どもでは足りない。足りないのは、最初から分かっている。押さない。足さない。通っている流れの、端だけに乗る。向きを、山側へ、薄く。
一度目は、変わらなかった。煙は村へ来た。二度目、煙の裾が、谷の壁に寄った。三度目、寄らなかった。四度目、寄った。再現は、まだ半分だ。半分を、続けた。
「風が、よれた」
誰かが言った。父ではない。年寄りの声だ。斧を持った手が止まって、空を見ている。谷風は消えていない。消えたら、俺の借りる相手がいなくなる。消えないまま、道が少し曲がった。火は、曲がった先の、すでに黒い斜面へ寄る。青い草ではなく、焼けた跡だ。食うものが少ない。
男たちが土を投げた。投げた土が、今度は残りやすい。風が火を起こさない。起こさない、のではなく、起こす向きが違う。家の茅は、まだ遠い。遠いが、安心ではない。煙は残る。熱い。母が咳をした。俺は袋を渡した。渡すとき、口は閉じていた。吹いていることは、見せない。井戸の陰で、谷の端に乗るだけだ。
夕方近く、火の頭が、一度だけ家のほうを向いた。細い流れが、谷の出口で乱れた。乱れた瞬間、炎が低い枝を舐めた。父が走った。土を投げた。足りない。俺は陰から、乱れた流れの、家側だけを薄く押さえた。押す、に近い。まだ自前の風ではない。ある流れを、家から逸らす。枝の炎が、土のほうへ倒れた。父の土が、その上に乗った。消えた、と言えるほどではない。小さくなった。
父は振り返らなかった。振り返らなくていい。光は、土に渡せばいい。
日が落ちると、風が弱くなった。弱くなると、俺の仕事も減る。借りる相手が細くなる。火は、黒い斜面で蹲った。完全には消えない。消えないまま、村へは来ない。男たちは交代で残った。父も残った。俺は母に腕を引かれて、家へ戻った。
家の中は、煙の匂いがした。炉は消してある。今日は、熱を回す日ではない。母は窓を細く開け、また閉めた。開けると煙が入る。閉めると、暑い。俺は端に座った。端は、今日は熱い。冬と逆だ。
「ハル、座って」
俺は座った。手が震えていた。熱ではない。使いすぎだ。息を、長く重ねた。子どもにしては、出しすぎた。母は俺の額に手を置いた。熱はない。あるのは、乾いた汗だけだ。
「無理、してない」
俺は短く言った。嘘だ。している。しているが、吹いた、とは言わない。母は俺の顔を見た。見たまま、煙の窓を見た。
「風が、裏返ったって。爺さんが」
俺は何も言わなかった。爺さんのせいにしておく。風の機嫌のせいにしておく。置き方、土、爺さん。光の置き場は、いくらでもある。自分の前には置かない。
夜中、父が戻ってきた。顔が黒い。水を飲んで、炉の前ではない床に座った。母が布を出した。父は俺を見た。短い目だ。冬の、端がマシだな、と同じ目ではない。何か言いたそうで、言わない目だ。
「子どもは、よく下がってた」
それだけだった。下がっていた、で止めてくれた。陰にいた、で止めてくれた。魔法、とは言わない。特技、とも言わない。よく下がってた。それで十分だ。俺は短く言った。
「家、のこった」
「ああ」
父は目を閉じた。母は俺の肩を一度叩いた。痛くない。確認するような叩き方だ。冬と同じだ。変、とは言われなかった。言われなくていい。今日の変は、谷の風だ。裏返った風だ。子どもではない。
明け方、俺は一人で裏の小屋に入った。扉を閉める。谷はない。火もない。芋がある。口をすぼめて、吹いた。皮は動かない。埃も、ほとんど動かない。山でできたことは、ここでは嘘になる。通り道があるうちは、俺は少し足せる。通り道がないと、ただの七つだ。
無風では、まだ火も止められない。
それが、今の限界だ。谷が村へ吹いている日は、その端を山へ戻せる。谷が止まれば、土と水だけだ。土と水は、父たちの仕事だ。俺は、その後ろで、火に風を足さない。足さないことが、守りだ。前に出ない。名前を付けない。爺さんの風で、家が残ればいい。
朝、山の肩は白かった。白い煙だ。黒い炎ではない。男たちが、また出ていく。俺は袋を持った。持てる重さだけ。井戸の陰へ行く。陰でいい。前線は、父だ。決断は、年寄りの斧だ。俺は、流れの端に乗る。
母が、家の前で俺を止めた。
「今日は、本当に中」
俺は一度だけ、外を見た。谷風は、昨日より弱い。弱い日は、俺が無理をすると目立つ。目立つと、守れない。中にいることも、守りだ。俺は袋を母に返した。
「うん」
母は、少しだけ肩を落とした。落として、俺の頭を撫でた。上手い、とは言わなかった。見方が上手い、とも言わなかった。撫でて、終わった。それでよかった。
家の中で、俺は窓の布を見た。布は、ほとんど動かない。外の借りる相手は、細い。細い日は、吹かない。吹かない練習も、必要だ。強くなっても、前に出ない。出ないことを、今日は守る。
山は、まだ完全には消えていない。消えるまで、何日でも、陰で袋を持つ。光は、土に、水に、爺さんの空に渡す。自分の息は、火に足さない。足さない、それが今の俺の、いちばん大きな仕事だ。
いい。急がなくていい。
借りる相手がいるうちに、向きだけを覚える。小屋でも、いつかは。母の家も、父の背中も、乾いた茅も、守れるようになるまで。名前のないままでいい。風が裏返った、でいい。
窓の外で、細い煙が、山側へ流れた。俺は口を閉じたまま、それを見た。閉じたままが、正解だ。
それが、続きだった。
山の火に、風を足しませんでした。家は残っています。俺は、陰にいました。




