第3話 上に逃げる熱
冬です。炉はあるのに、部屋の端が冷たい。
走り始めたのは、その年の秋だった。転ばなくなった、と言い切れるほどではない。それでも、竿まで一人で届く。谷まで一人では行かせてもらえない。それでよかった。急がない。
次の冬が来た。シデ村の冬は、谷風が乾いて、家の中まで持っていく。炉は灯っている。灯っているのに、部屋の端は冷たい。母は炉の前で手を開き、端へ行くたびに肩をすくめた。父は山から帰ると、まず炉に両手を出した。家の真ん中だけが冬を忘れている。端は、忘れられていない。
俺は、天井を見た。煙が、まっすぐには上がらない。一度、梁の下で止まって、散る。熱い空気は上へ逃げる。下に残るのは、冷たいほうだ。分かっている。前の世界では、機械がそれを回していた。今は機械がない。あるのは炉と、俺の小さい息だけだ。
無風の小屋では、何もできなかった。部屋は小屋より広い。それでも、谷のような通り道はない。扉を閉めれば、外の風は消える。借りる相手が、いない。
いない、と思っていた。
炉は、空気を動かしていた。上へ。ただ上へ。通り道はある。向きが、悪い。
「ハル、端は寒いよ」
母は俺の袖を引いた。炉の前へ戻せ、という合図だ。俺は一度従った。従ったあと、鍋の位置を指した。炉の手前に置いてある鍋が、熱の通りを狭めている。母は首を傾げた。
「邪魔? ……まあ、よけるか」
鍋が横へ寄る。熱い空気が、少しだけ広く上がった。俺は口をすぼめて、上がった熱の端に乗った。押さない。谷の葉と同じだ。先にある流れに、薄く重ねる。上へ逃げる熱を、壁沿いに、床のほうへ、少しだけ戻す。
一度目は、戻らなかった。熱は天井で散った。二度目、母の裾が、炉から離れた場所で、ほんの少し動いた。風ではない。暖かい側が、裾を撫でただけだ。三度目、同じ場所が、また撫でた。再現は、まだ半分だ。半分でいい。
母は、鍋を戻そうとして、手を止めた。
「……今、端、あったかくない?」
俺は何も言わなかった。言える言葉も、まだ少ない。さむい、あつい、それくらいだ。母は炉を見て、鍋を見て、窓の布を見た。布は、ほとんど動いていない。外の谷風は、今日は弱い。借りたのは、外ではない。
「炉の置き方がいいのかしら」
そう言って、母は鍋を寄せたままにした。俺は頷かなかった。頷くと、自分が吹いたことになる。吹いていない、と言い切れるほどでもない。熱が通る向きを、少し足した。名前は要らない。炉の置き方、でいい。
午後、父が帰ってきた。土と雪の匂いがする。いつものように炉へ手を出した。出したまま、端のほうを見た。
「今日は、端もマシだな」
「鍋、よけたの。ハルが指した」
「赤ん坊が?」
「もう赤ん坊じゃないでしょ。走り始めてるし」
父は短い笑いで済ませた。馬鹿にしていない。信じてもいない。鍋の位置がよかった、という顔だ。俺はそれでよかった。光は、鍋に渡せばいい。自分は、熱の端に乗るだけだ。
帰り際、確認した。裏の小屋だ。扉を閉める。谷はない。炉もない。芋がある。俺は吹いた。皮は動かない。埃も、ほとんど動かない。熱の通り道がない。借りる相手が、いない。部屋でできたことは、ここでは嘘になる。
無風で、熱もない場所では、まだ何もできない。
それが、今の限界だ。炉があるうちは、上に逃げる熱を、少し戻せる。炉がないと、ただの子どもだ。守りたいものは、炉の前だけじゃない。端にいる母の肩も、雪の手も、小屋の芋も、だ。全部は、まだ無理だ。
夜、母は端に座った。座って、首を傾げた。
「本当に、置き方ね」
ただ、鍋を見た。俺も鍋を見た。鍋は、黙っている。俺も黙った。変な息、とは言われなかった。言われなくていい。変は、すでに十分だ。これ以上、名前が付くと、守れなくなる。目立つと、守れなくなる。今は、端が寒い冬を、少しだけ短くできればいい。
俺は炉の前に座った。熱い空気が、梁の下で散る。散る前に、壁沿いへ、薄く。母の裾が、また一度、動いた。母は、ただ手を火にかざしたまま、端の床を見た。
「ハルは、炉の見方が上手いね」
上手い、で止めてくれた。魔法、とは言わない。特技、とも言わない。見方が上手い。それで十分だ。俺は短く言った。
「さむい、いや」
母は笑った。父は、すでに寝ていた。谷風が、窓の布を一度だけ膨らませた。外は外、中は中だ。中の熱は、俺が少し借りた。自分の風ではない。炉の熱だ。
いい。急がなくていい。
借りる相手を、外の谷だけにしない。家の中の熱も、通り道になる。無風の小屋は、まだ無理だ。母の端も、父の手も、守れるようになるまで。名前のないままでいい。炉の置き方、でいい。
天井の煙が、散る前に、壁へ寄った。俺は目を閉じた。次は、小屋でも、何か借りたい。熱でも、隙間でも、何でもいい。息は、そのあとでいい。
それが、続きだった。
炉の熱を、少しだけ部屋に戻しました。小屋では、まだ何もできません。




