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第2話 谷の風を借りる

歩き始めました。息は、まだ小さいです。

歩き始めたのは、次の春だった。


 炉に息を足した冬から、一年と少し。首が据わり、寝返りが打て、つかまり立ちをして、ある朝、自分の足で炉まで届いた。母は驚いて、父は「早えな」とだけ言った。俺の中の大人は、一年が長くて短くて、仕方がないと思った。乳児の体で設計図を完成させるつもりは、最初からない。急がない。一段ずつだ。


 炉の火は、今はそこそこつく。母が吹いて、俺が横から足す。重なり方は、前よりわかる。それでも、俺ひとりでは湿った薪は点火しない。吐息は吐息のままだ。偶然を、少しだけ自分のタイミングに寄せられた、それが今の正直なところだ。


「ハル、外」


 母はそう言うと、洗濯した布を籠に入れて、家の横の竿へ向かった。シデ村の春は、谷風が強い。布はすぐ乾く。飛ばされもする。母は竿に紐を足し、端を石で押さえる。俺はその裾をつかんで、ついていった。土は冷たい。風は、窓の中より大きかった。


 布が、はためく。俺は口をすぼめて、飛ばないように押した。布は、俺の息など待たずに、谷のほうへ膨らんだ。届かない。世界の風は、相変わらず別物だ。


 母は笑った。


「息、変なのは変わんないね。でも、布は風の勝ちよ」


 馬鹿にしていない。事実だ。俺は頷いたつもりで、ただ顔を上げた。


 午後、父が俺を背負った。山へ狩に行く日ではない。谷の入り口まで、薪の置き場を見に行く日だ。背中は土と葉の匂いがする。歩くたびに、風の向きが変わった。家の周りは乱れる。谷に入ると、通る。一本の道みたいに、空気が流れていた。


「ここで遊ぶんじゃねえぞ」


 父はそう言って、俺を下ろした。足元は草。目の前で、木がしなっている。俺は目を細めた。押す必要はない。もう、そこにある。借りればいい。あの冬、俺はそう考えたはずだった。頭では。体が、今までついてこなかった。


 葉が舞った。谷の奥から、手前へ。俺はそれを見て、口を開けた。押さない。足さない。通っている流れの、端だけに乗る。自分の息を、葉の進む向きへ、薄く重ねる。


 葉は、少しだけ曲がった。


 曲がった、と思う。風がもともと曲がったのか、俺が足したのか、その場では切れない。もう一度やった。次の葉も、同じ側へ寄った。三度目、寄らなかった。四度目、寄った。再現は、まだ半分だ。それでも、炉の冬よりはマシだ。あそこは偶然だった。ここは、半分だけ意図がある。


 父が、薪の棚を叩いていた。乾きが足りない。谷風は強いが、棚の向きが悪い。風は棚の背を撫でて、中へ入らない。父は棚を少し回した。重い。一人だと、角が土に食う。


「ハル、どいてろ」


 俺はどかなかった。どく代わりに、棚の隙間を見た。風は上を通っている。下へ、少しだけ落とせばいい。理屈はそれだけだ。理屈は、また手を動かしてくれない。だから息だけ送る。谷の流れに乗せて、棚の口へ、薄く。


 父が棚を回す。俺の息が、その瞬間の隙間に入る。乾いた音がした。中の薪が、一度だけ鳴った。風が、中を通ったらしい。


 父は棚から手を離して、俺を見た。


「……今、お前、吹いたか」


 俺は歩けても、長い言葉は出ない。だから吹いてみせた。父は鼻で笑った。


「風がいいだけだ。赤ん坊の息で薪は乾かねえ」


 辺境の男の、まあいい、という顔だ。冬と同じだ。信じてもいない。馬鹿にもしていない。俺はそれでよかった。名前を付けられなくていい。今は、谷の風を少し借りられた、それだけでいい。


 帰り際、無風の場所を知った。


 家の裏に、根菜を置く小さな小屋がある。扉を閉めると、谷が消える。音も、布の鳴りも、何もない。母が中で芋を拾っていた。俺も入った。口をすぼめて、吹いた。芋の皮は動かない。埃も、ほとんど動かない。炉の冬より弱い。谷で曲がった葉は、ここでは嘘みたいだった。


 無風では、ほぼ何もできない。


 それが、今の限界だ。借りられる風があるうちは、俺は少しだけ足せる。風がないと、ただの赤子だ。いや、歩き始めただけの子だ。守りたいものは家の中にもある。小屋の中にもある。谷は、毎日は家の中まで来ない。


 夕方、母が竿の布を取り込んだ。一枚、端が外れて、谷のほうへ舞いかけた。母が手を伸ばす。届かない。俺は走ったつもりで、転びそうになって、口だけ開いた。押さない。通っている風の端に乗る。布の進む向きを、家の壁側へ、薄く。


 布は、壁に当たって落ちた。泥はつかなかった。母が拾って、俺の頭を一度叩いた。痛くない。確認するような叩き方だ。


「……また、変」


 父が、薪を担いで通りかかった。


「風がいい日だ」


「ハルが、吹いたと思う」


「またか」


 二人はそれ以上、追わなかった。追われなくていい。魔法、という言葉は、この家の炉端にも、谷の入り口にもない。あるのは、変な息と、通る風だけだ。


 夜、俺は窓の布を見た。膨らむ。しぼむ。谷は、今日も家の外を通っている。俺は小さく吐いた。布は、俺のせいでは動かない。昼間の葉と、棚と、落ちた布は、全部、先に風があった。俺は乗っただけだ。自分の風ではない。


 いい。急がなくていい。


 借りることを、もう一段、自分のタイミングにする。無風の小屋でも、いつかは。母の炉も、父の棚も、落ちる布も、守れるようになるまで。名前のないままでいい。谷の風からでいい。


 布が、規則正しく膨らんだ。俺は目を閉じた。次は、転ばずに走りたい。息は、そのあとでいい。


 それが、続きだった。

谷の風を、少しだけ借りられました。無風では、まだ何もできません。

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