第1話 息しかできない
まだ息しかできません。それでも、始めます。
残業は、終わりが見えないものだと思っていた。
実際には、終わりはあっさり来た。横断歩道の白線の途中で、ヘッドライトが近づいて、それきりだった。守れなかった、という後悔だけが、痛みより先に残った。誰を、何を、なのかは、もうわからない。ただ、手が届かなかったことだけが残った。
次に聞こえたのは、風だった。
狭い。熱い。肺が初めて空気を求めて、泣き声が勝手に出る。自分の声じゃないみたいで、はずかしかった。まぶたの裏は赤い。誰かの腕に抱かれている。
「元気な声。……ハルよ。ハル」
女の人の声だった。低くて、炉の側にいそうな声だ。名前を付けられたらしい。ハル。短い。覚えやすい。
目が慣れてくると、木の梁と、すすけた天井と、窓の外の緑が見えた。窓は開けてある。カーテンの代わりに、布が風に押されて、規則正しく膨らんだ。谷を風が通っている。今の俺には、それだけがはっきりわかった。
死んで、赤子になっていた。
夜になると、家はすぐ静かになる。その静かさの中で、窓の布だけが定期的に鳴った。谷の風だ。誰かが起こしているわけじゃない。ただ通っている。俺はそれを聞きながら、同じ向きへ息を送ってみた。布は、俺のせいでは動かない。世界の風と、俺の息は、まだ別物だった。
辺境だ、ということも、すぐにわかった。朝は鳥が多く、昼は斧の音が遠く、夜は虫がうるさい。人の気配は少ない。母はミナといった。父はダンといった。ここはシデ村だ、と母は何度も俺の耳元で言った。谷の向こうに隣村があるらしいが、冬の前は行き来が減る、とも言った。父は朝に山へ入り、夕方に獣か薪を担いで帰ってくる。母は炉を守り、鍋を守り、俺を守った。
俺は、何も守れなかった。首も座れない。
それでも、頭の中だけは大人のままだった。風は空気だ。空気は物質だ。押せば動き、抜けば減り、温めれば上がる。分かっている。分かっているのに、体がついてこない。指一本、思うように曲がらない。出せる空気は、泣くときの息だけだった。
もどかしかった。
設計図だけが、先に走る。実体は、よだれだ。
最初の一か月は、それだけで過ぎた。母の胸で眠り、谷の風を聞き、自分の小ささに腹を立てた。腹を立てても、泣いて終わる。泣くと母が来る。母が来ると、守れない側にいる自分がよくわかった。布の膨らみを目で追うことだけは、毎日できた。風の通り道は見える。手は出せない。
変化は、冬に近い朝に来た。
炉の火が、つかなかった。薪は湿っている。母は膝をついて、口をすぼめて息を送った。火種は赤くなり、すぐ灰色に戻る。もう一度。もう一度。窓の外では谷風が強くて、家の中の空気まで持っていかれそうだった。
「……お願い」
母は小さく言った。俺にではない。火にだ。
俺は、その背中を見ていた。首が据わり始めて、世界が少しだけ縦になった頃だ。分かっている。火は空気を食う。息を足せばいい。母の息では足りないなら、俺の分を足す。理屈は、それだけだ。
でも、理屈は手を動かしてくれない。
俺は口を開けた。赤子の口だ。空気を吸って、吐く。それ以外の技はない。母の頰の横で、湿った薪に向かって、ありったけを吐いた。
そよ風、とも呼べない。吐息だ。
それでも、火種が一度だけ、はっきり赤くなった。母の息と重なったらしい。小さな炎が薪の端を舐めて、煙がまっすぐには上がらず、横に流れた。窓から入る谷風に、奪われかけた。俺はもう一度、同じ向きへ吐いた。母も吹いた。炎は、やっと名前を持った。
炉が、灯った。部屋の隅まで、オレンジが届く。湿った匂いが、少し甘い匂いに変わった。それだけのことが、今の俺には大きかった。
「……あなた、今」
母が俺を見た。魔法、とは言わない。そんな言葉は、この家の炉端にはない。ただ、目が丸い。
「息、変よ。ハル」
褒めているのか、呆れているのか、わからなかった。温かかった。それだけはわかった。俺は、たぶん笑った。赤子の顔で笑うと、ただの痙攣に見える。母はそれでも、俺の額を一度撫でて、薪を追加した。
それが、最初だった。
嵐も、大きな風も、何もない。湿った薪に、息を足しただけだ。頭の中の設計図から見れば、笑える成果だ。それでも、炉は灯っている。母の肩が、少し落ちた。
守りたいものは、すぐ近くにあった。
夕方、父が帰ってきた。土の匂いと、葉の匂いがする。俺を抱き上げて、炉を見て、母を見て、また俺を見た。
「火、ついたか」
「ハルが、吹いたの」
「赤ん坊が?」
「息が、ちょっと変なのよ」
父は短い笑いで済ませた。馬鹿にしていない。信じてもいない。辺境の男の、まあいい、という顔だ。俺は父の胸の中で、窓のほうを見た。谷の向こうで、木がしなっていた。借りられる風は、あんなに大きい。俺の分は、まだ吐息だ。
いい。急がなくていい。
この村の風を借りて、いつか自分の息にする。母の炉も、父の背中も、この家の窓も、守れるようになるまで。名前のないままでいい。息からでいい。シデ村の谷は、毎日風を運んでくる。練習台は、もうそこにある。
谷風が、布を膨らませた。俺はもう一度、小さく吐いた。炎は揺れなかった。届かない。届かないのが、今の正直なところだ。偶然が、もう一度起きてくれない。だからこそ、次は偶然じゃなくて、自分の息でやりたい。
それでも、炉は消えていない。
それが、始まりだった。
第1話は、ここまでです。まだ息しかできません。




