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第31話 届く声

細い井戸のあと、口まで行きます。村の声が、石まで届きます。

 井戸が細くなってから、五日と少し。父が、朝、俺の靴を見た。見たまま、短い枝を渡した。槍ではない。道を払う枝だ。払う道は、谷の口だ。口までなら、一人でいい。いい日でも、奥はだめだ。だめは、細い井戸の日から動いていない。動いていない線を、声の日でも守る。


 数え七つの夏は、竿が届いた夏だ。届いた竿のあと、水は細い。細い日に、穴へ行かない。行かない足で、口まで歩く。歩く許可は、短い時間だ。短い時間を、使いきらない。使いきると、急いだ側になる。ならない。母は袖を持たなかった。持たずに、弁当の葉を一つ出した。出したまま、


「遅くなったら、叫べ。ただし、奥へは追うな。家の声がしたら、戻れ」


 と言った。家の声。穴の日の、叫べ、の逆だ。逆でも、空気は同じだ。同じを、息にしない。俺は葉を袋に入れた。入れて、靴の泥を一度払った。払う役は、子どもでもできる。できる役だけして、出た。


「口までだ。聞くなら、口だ。先の歌は、今日は追うな」


 父は短く言った。追うな。境の歌の、掴まない、と同じだ。同じを、口にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、石だ。石で待つ。待つ相手は、斧ではない。待つ相手は、家の声だ。家の声に、乗らない。乗る相手は、先にある流れだけだ。声の中身は、流れではない。流れではないものに、足を出さない。


 一人で、谷の入り口まで下りた。土は、白い。白い土に、谷風が一本、横から入る。暴れていない。乗る端が、見える。見える日でも、葉は一度だけ寄せた。一度目、寄る。二度目、寄らない。三度目、寄る。四度目、寄る。再現は、まだ半分だ。半分のまま、手を止めた。止めたあとに、聞く。聞くことが、今日の仕事だ。奥の穴は、見ない。見ない線は、緑の端からある。ある線を、声のために動かさない。


 口の石に座った。座って、村のほうを背にしない。背にしない位置が、戻りやすい。戻りやすい石の上で、虫が鳴いている。鳴く音の下に、別の音がした。細い。斧ではない。歌でもない。人が、名前を呼んでいる。呼んでいる声が、石まで届く。届く中身が、短い。ハル、だ。母の口だ。口の石まで、家の声が届いた。届いた声に、乗らない。乗る日ではない。乗る前に、立つ。立つことが、今日の正解だ。袋を持ち直して、戻る。戻ることが、いちばん大きな仕事だ。奥へは曲がらない。境へも曲がらない。曲がらない線は、歌の日からある。


 帰り、井戸のところで母と逢った。逢いたくて逢ったのではない。呼んだ人が、袋を持って立っていた。立っていた人の袖を、俺は持たない。持たない手が、袋だ。母が、短く言った。


「届いた? 井戸が、もっと細くなった。早く、袋」


 届いた。光は、声に渡す。渡す相手が、今日は空を見ない。見ない日は、母の口が空だ。俺は空の袋を渡した。渡すとき、口は閉じている。閉じていることが、子どもが前に出ない、だ。出ない子の横で、父が井戸の竿を入れた。入れた先が、また浅い。浅い水を、分ける。分ける役は、大人だ。


 爺さんが、後ろから来た。空は高い。見る役の人が、今日は井戸まで来た。来た人の横を、俺は見ない。見ないまま、袋の紐を直す。爺さんは、陰の話をしない。しないで、口のほうを顎で示した。


「今の、声だな。口まで届いた。耳がいい。いい耳で、奥は追うな」


 追うな。境の歌と同じだ。同じを、俺は頷かなかった。頷くと、届いた側ではなく、足した側になる。ならない。ならないことが、守りだ。爺さんは、頷かない俺を見て、短い息を吐いた。吐いて、


「声は、空気だ。空気は、届く。届くものを、手で作るな。作ると、町だ」


 と言った。町だ。揃った声を掴むな、と同じ壁だ。壁のこちらで、聞く。聞くだけだ。作らない。作らない手が、袋だ。袋でいい。俺は短く言った。


「袋」


 袋、で足りる。届けた、とは言わない。言わない子を、爺さんは見ないふりをした。見ないふりが、空のせいにする役だ。役を、続けてくれた。


 午後、裏の小屋の扉を開けた。谷の端が入る。芋が動く。閉めた。止まる。口まで声が届いても、閉めた小屋は無風だ。止まる小屋では、声も届かない。届かない場所の許可は、まだ出ていない。出ていないものを、耳が良くても開かない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、声が増えても減る。減るものと、止まる息を、混ぜない。父が扉を閉めて、


「口は、いい。境は、いい。声は、家からだ。穴は、だめだ。外は、まだ早い」


 と言った。早い。声が届いても、町はまだだ。まだを、届く声の日にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、石だ。石で聞いて、戻った。戻った手が、紐を直す。


 夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、細い井戸の夜と同じ細さだ。細い鍋の前で、母が碗を置いて、


「後ろにいるの、今日も上手いね。戻った」


 と言った。上手い、の中身は、奥へ行かなかったことだ。届いた、は、母の口だ。口に、光はある。俺は碗を持った。


「うん」


 母が、碗を下げて聞いた。


「自分でも、呼んだ?」


 俺は袋のほうを見た。見たまま、


「聞いた」


 と言った。聞いた、で足りる。足した、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は聞いた、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。父が、窓の外を見て言った。


「届くのは、空気だ。呼ぶのは、口だ。口は、母さんだ。お前は、戻る足だ」


 戻る足。耳と足を、混ぜない。混ぜないことが、届く声での守りだ。俺は短く言った。


「足」


 足、で足りる。今夜は口へ行かない。行かない靴が、端にある。


 夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。膨らんだ布の外に、虫がいる。虫の先に、口がある。口まで、家の声が届いた。届いた声の先の穴へは、今日も行っていない。行っていない家に、細い水がある。細い塩がある。あるものを、明日も後ろで数える。俺は端に座った。座ったまま、ハル、を一度だけ思った。思って、作らない。作らないことが、届く声での、残った仕事だ。小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けない家で、袋の紐を直す。直して、寝た。

谷の口まで、母の声が届きました。俺は石で聞いて、戻りました。奥へは行っていません。声を作ってもいません。

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