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第30話 細い井戸

歌のあと、井戸が細くなります。穴の水は、まだだめです。

 境の歌から、七日と少し。母が井戸の袋を持って戻ってきた。袋は軽い。軽い袋を、敷居に置いて、口を結んだ。結んだ口が、火の十日後に似ている。似ていても、煙はない。あるのは、細さだ。雨が増やした水が、夏の乾きで減った。減った口を、父が朝、見た。見て、


「井戸は、細い。穴の水は、まだだめだ。子どもは、口を覗くな」


 と言った。覗くな。氷の日と同じだ。同じを、細い夏にも繰り返す。繰り返す人が、前に立つ。立つ人の後ろで、俺は袋を持つ。袋は空だ。空なら、七つでも持てる。持てる重さだけ。前に出て穴へ行かない。行かない線は、緑の端から動いていない。動いていない線を、細い水でも守る。


 数え七つの夏は、歌を石で聞いた夏だ。聞いた足でも、穴の水はだめだ。だめな水は、中が無風だ。無風の中へ顔を出すと、煙が戻る。戻る煙を、火のあとに知っている。知っている子は、覗かない。覗かない位置は、戸の陰だ。井戸の陰だ。前ではない。


 母が、隣の女の戸を叩いた。叩いて、空の袋を見せた。見せた袋に、女が水を少し入れた。入れた水は、うちより細い。細くても、ある。ある冬と、ない冬は違う。ある夏と、ない夏も違う。分ける手が、塩の底の日に似ている。似ていても、今日は水だ。水は、蓋より持つ。持つ相手を、間違えない。子が、袋を見て聞いた。


「なくなるの?」


 母が、先に答えた。


「細い。分けたら、持つ。穴へは、行かないよ」


 行かないよ。光は、母の口にある。俺は短く言った。


「袋」


 袋、で足りる。穴へ行く、とは言わない。言わない子の袖を、母が引いた。引いて、うちの井戸へ戻った。


 井戸まで、父が先に立った。爺さんも来た。空は高い。見る役の人が、今日は竿を持っている。持っている竿を、井戸の口へ入れる。入れる先が、すぐ当たる。当たる深さが、雨の翌日より浅い。浅い水を、袋へ移す。移す役は、大人だ。俺は空の袋を持ち直した。持ち直す手が、氷の日と同じだ。同じでいい。前ではない。覗かない。


 一度、竿の先から水が落ちた。落ちた粒が、父の手首を外しそうになる。外しそうな粒に、端はない。端がない相手は、借りられない。借りられない朝は、手が仕事だ。俺は陰から、粒を飛ばさない。飛ばす力はない。飛ばす必要もない。必要は、袋だ。袋を渡す。渡すとき、口は閉じている。閉じていることが、子どもが前に出ない、だ。出ない子の袋に、黒い水が少し入った。入った袋は、雨の日より軽い。軽くても、ある。ある夏を、穴で増やさない。増やさないことが、いちばん大きな仕事だ。


 隣の男が、短く言った。


「今の、竿が届いた。穴は、まだ早い」


 竿が届いた、でいい。火が届いた、の仲間だ。穴は、まだ早い。外は、まだ早い、と同じ種類だ。同じを、井戸の口にも置いてくれた。俺は口を閉じた。閉じたまま、袋を父に渡す。渡す肩は、足りない。足りない場所は、捨てる。


 爺さんが、空を見たまま言った。


「細い日は、分ける。分けるのは、手だ。風じゃない。穴は、子どもを出すな」


 出すな。緑の端と同じだ。同じを、俺は頷かなかった。頷くと、覗いた側になる。ならない。ならないことが、守りだ。爺さんは、頷かない俺を見て、短い息を吐いた。吐いて、戻った。戻る背中が、乾いた土を踏む。踏んでも、袋に水はある。あるうちは、急がない。


 午後、父は山の奥へ行かない、と言った。穴の水は、だめだ、の繰り返しだ。俺も行かない。行かない許可を、守る。口へは、短い時間だけ出た。許可どおりだ。奥は見ない。見るのは、一本の道と、白い土だ。白い土の上で、葉を寄せない。寄せない日が、乾いた風の残りだ。残りの日に、井戸は細い。細い井戸を、谷の穴で足さない。足さない、は、火の日に決めた。決めた線は、水でも動かない。


 帰り、裏の小屋の扉を開けた。谷の端が入る。芋が動く。閉めた。止まる。細い井戸でも、閉めた小屋は無風だ。無風の場所で、水は増えない。増えない小屋に、余りは置けない。置けないことを、蓋の失敗のあとでも忘れない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、水が細くても減る。減るものと、止まる息を、混ぜない。父が扉を閉めて、


「口は、いい。境は、いい。井戸は、細い。穴は、だめだ。外は、まだ早い」


 と言った。早い。歌が届いても、井戸が細くても、町はまだだ。まだを、細い日にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、陰だ。陰の袋の紐を直す。


 夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、歌の夜より細い。細い鍋の前で、母が碗を置いて、


「後ろにいるの、今日も上手いね。覗かなかった」


 と言った。上手い、の中身は、穴へ行かなかったことだ。竿が届いた、と言った男の空に、光はある。俺は碗を持った。


「うん」


 母が、碗を下げて聞いた。


「中、見た?」


 俺は袋のほうを見た。見たまま、


「袋」


 と言った。袋、で足りる。中は見ていない。見ていないことを、行った、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は袋、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。父が、窓の外を見て言った。


「細い日は、鍋を薄くする。薄くても、穴より残る。残る家が、辺境だ」


 残る家。火の年に残った家と同じ種類だ。同じを、細い井戸の夜にも置いてくれた。俺は短く言った。


「鍋」


 鍋、で足りる。穴の水、とは言わない。言わない夜に、歌の石を一度だけ思った。思って、辿らない。辿らないことが、細い日の、残った仕事だ。


 夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の部屋の端は、井戸の細さよりマシだ。マシな理由を、置き方にしておく。窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。膨らんだ布の外に、虫がいる。虫の先に、境がある。境の先に、歌があった。あった歌の先の町へは、今日も行っていない。行っていない家に、細い水がある。細い塩がある。細い緑がある。あるものを、明日も後ろで数える。蓋は持たなかった。荷は来なかった。穴へも行かなかった。行かない、が、今の事実だ。


 俺は端に座った。座ったまま、井戸の竿を一度だけ思った。思って、持たない。持つ役は、父だ。父の横で、小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けないことが、細い井戸での、残った仕事だ。袋の紐を直して、寝た。

井戸が細くなりました。隣と分けて、穴へは行っていません。俺は袋を持って、口は覗いていません。外は、まだ早いです。

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