第29話 境の歌
虫のあとに、境まで行きます。先から、歌が届きます。
夜の虫から、七日と少し。父が、朝、俺の靴を見た。見たまま、短い枝を渡した。槍ではない。道を払う枝だ。払う道は、隣村のほうだ。ほう、までだ。先ではない。先は、だめだ。だめは、境の日から動いていない。動いていない線を、歌の日でも守る。
数え七つの夏は、虫を家で聞いた夏だ。聞いた耳を、今日は境まで持っていく。持っていく許可は、境まで一人、だ。一人の境で、先を見ない。見ないで、聞く。聞く役は、入る役より前に出ない。出ない位置で、袋を持つ。袋は空だ。空なら、七つでも持てる。持てる重さだけ。母は袖を持たなかった。持たずに、弁当の葉を一つ出した。出したまま、
「石までだよ。先の屋根は、見るな。遅くなったら、叫べ」
と言った。叫べ。穴の日の言葉だ。言葉の先へは、足を出さない。出さない線は、境の日からある。ある線を、歌のために動かさない。俺は葉を袋に入れた。入れて、靴の泥を一度払った。払う役は、子どもでもできる。できる役だけして、出た。
「境までなら、一人でいい。先はだめだ。聞くだけだ」
父は短く言った。聞くだけだ。夜の虫の、取りに行くな、と同じだ。同じを、昼の境にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、石だ。石で待つ。待つ相手は、釘ではない。待つ相手は、先の音だ。先の音に、乗らない。乗る相手は、先にある流れだけだ。音の中身は、流れではない。流れではないものに、足を出さない。
一人で、荷車の轍を辿った。土は、雨のあとで硬い。硬い道に、谷風が一本、横から入る。暴れていない。乗る端が、見える。見える日でも、葉は寄せない。寄せない、ではない。一度だけ寄せた。一度目、寄る。二度目、寄らない。三度目、寄る。四度目、寄る。再現は、まだ半分だ。半分のまま、手を止めた。止めたあとに、聞く。聞くことが、今日の仕事だ。口の石は、通過する。通過する許可が、今日は境だ。境は、口より遠い。遠くても、奥ではない。奥の穴は、焼け跡のほうだ。焼け跡へは、今日も曲がらない。
境の石は、低くて白い。白は雪ではない。乾いた苔だ。苔の先に、屋根が三つ見える。三つは、シデ村ではない。隣村だ。隣村の中へは、入らない。入らない石の上で、座る。座る位置が、口の石に似ている。似ていても、待つ相手は斧ではない。待つ相手は、人の声だ。
先から、歌が届いた。細い。鶏ではない。叩きでもない。人が、揃って口を開いている。開いている声も、空気だ。空気は、境でも届く。届く中身は、言葉にならない。ならないまま、石まで来る。来る声に、乗らない。乗る日ではない。乗る相手が、歌だと、名前が付く。付く前に、石にいる。石の上で、声の向きだけ分ける。屋根の三つ。井戸の太いほう。境のこちらではない。こちらではない声を、取りに行かない。行かないことが、いちばん大きな仕事だ。
爺さんが、後ろから来た。空を見ている人が、今日は境まで来た。来た人の横を、俺は見ない。見ないまま、袋の紐を直す。爺さんは、陰の話をしない。しないで、屋根のほうを顎で示した。
「今の、歌だな。先だ。境じゃない。耳がいい。いい耳で、行くな」
行くな。夜の虫と同じだ。同じを、昼の歌にも置いてくれた。俺は短く言った。
「石」
石、で足りる。分けた、とは言わない。言わない子を、爺さんは見ないふりをした。見ないふりが、空のせいにする役だ。役を、続けてくれた。続けて、
「揃った声は、届く。届くものを、手で掴むな。掴むと、町だ」
と言った。町だ。蓋の話と同じ壁だ。壁のこちらで、聞く。聞くだけだ。掴まない。掴まない手が、袋だ。袋でいい。
父は、今日は境の先へ行っていない。行っていない人が、家で縄を直している。直している家へ、戻る。戻る前に、歌が一度、止まった。止まったあと、また細い。細い声の先へ、足は出ない。出ない足が、今日の正解だ。俺は枝を袋に入れた。入れた枝は、道の印だ。戻るとき、迷わないための。迷わない道が、境の口だ。
家に戻ると、母が葉の包みを受け取った。受け取って、俺の靴を見た。見た靴が、黒い。黒い泥を、敷居で払う。払って、
「先、見えた?」
と聞いた。俺は袋のほうを見た。見たまま、
「歌」
と言った。歌、で足りる。屋根の三つを数えた、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は歌、で止めてくれた。父が、棚の縄から顔を上げて言った。
「聞いたなら、それでいい。先は、おれでも多い日がある。子どもは、石だ」
石だ。口だ。端だ。同じ種類の言葉だ。同じを、歌の日にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。
午後、裏の小屋の扉を開けた。谷の端が入る。芋が動く。閉めた。止まる。境まで一人で行けても、閉めた小屋は無風だ。止まる小屋では、歌も届かない。届かない場所の許可は、まだ出ていない。出ていないものを、耳が良くても開かない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、歌が増えても減る。減るものと、止まる息を、混ぜない。父が扉を閉めて、
「口は、いい。境は、いい。歌は、石までだ。外は、まだ早い」
と言った。早い。揃った声が届いても、町はまだだ。まだを、歌の日にも置いてくれた。俺は袋の紐を直す。直す手が、虫の夜と同じだ。同じでいい。前ではない。
夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、虫の夜より太い。太い鍋の前で、母が碗を置いて、
「後ろにいるの、今日も上手いね。聞いて、戻った」
と言った。上手い、の中身は、先へ入らなかったことだ。揃った声は、空だ。爺さんの空に、光はある。俺は碗を持った。
「うん」
母が、碗を下げて聞いた。
「歌、綺麗だった?」
俺は石のほうを見ない。見ないまま、
「遠い」
と言った。遠い、で足りる。掴んだ、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。父が、窓の外を見て言った。
「届くのは、空気だ。行くのは、足だ。足は、石までだ」
足は、石まで。耳と足を、混ぜない。混ぜないことが、境の歌での守りだ。俺は短く言った。
「石」
石、で足りる。今夜は境へ行かない。行かない靴が、端にある。
夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。膨らんだ布の外に、虫がいる。虫の先に、境がある。境の先に、歌があった。あった歌を、取りに行っていない。行っていない家に、水がある。塩がある。緑がある。あるものを、明日も後ろで数える。俺は端に座った。座ったまま、揃った声を一度だけ思った。思って、掴まない。掴まないことが、境の歌での、残った仕事だ。小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けない家で、袋の紐を直す。直して、寝た。
隣村の境まで一人で行きました。先から歌が届きました。中へは入っていません。俺は石で聞いていました。




