第28話 夜の虫
緑の端のあと、夜がうるさいです。虫の音も、空気です。
山の端が緑になってから、五日と少し。窓の外の音が、また変わった。雨ではない。斧でもない。細い脚だ。細い脚が、草の中で鳴く。鳴く音が、家の端まで届く。届く音も、空気だ。空気は、口でも、境でも、端でも届いた。届いた夜に、炉は小さい。小さい炉の横で、俺は端に座る。座る位置が、いつもの位置だ。いつもの位置で、聞く。聞く役は、吹く役より前に出ない。出ない位置で、袋の紐を直す。
数え七つの夏は、雨を持った夏だ。持った夜に、虫が来た。来た虫を、前に出て払わない。払う肩は、足りない。足りない場所は、捨てる。捨てたまま、聞く。聞くことが、今日の仕事だ。母が、碗を置いて言った。
「うるさいね。でも、火の年よりいい」
いい。火の年の夜は、煙が遠かった。遠かった夜より、脚の音は近い。近い音を、足さない。足す必要がない。必要は、聞いたまま、中にいることだ。中にいる許可は、雨の日と同じだ。同じを、虫の夜にも守る。
父が、窓の外を見て言った。
「口まで、今は行くな。夜の穴は、よけいに黒い。聞くなら、家だ」
家だ。聞くのは、口まで、と言った日の、夜の版だ。夜の版は、家まで短くなる。短くなった許可を、破らない。破ると、家が残らない。残らない歩きは、守りではない。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、端だ。端で、虫の音を分ける。畝のほう。井戸のほう。山の端のほう。山の端のほうは、細い。細い音の先に、穴がある。ある穴へは、緑の日も入っていない。入っていない線を、耳でも守る。
隣の子が、戸の外で短い声を出した。声も空気だ。空気は、虫の夜でも届く。届く声を、母が聞いた。聞いて、袖を引きに出た。出る背中に、俺は付かない。付く位置は、戸の陰だ。陰から、子の声が家の中へ入る。入った声を、母が押さえる。押さえる役は、大人だ。俺は袋を持ち直した。持ち直して、外へ出ない。出ないことが、夜の口だ。
「今の、虫がうるさいだけ。中へ入りなさい」
母は子に言った。中へ。俺の位置を、子にも置いてくれた。置いてくれる人が、家にも外にもいる。子が、俺の碗を見て聞いた。
「音、分かる?」
俺は短く言った。
「虫」
虫、で足りる。分けた、とは言わない。言わない子の横で、父が薪を一本足した。足した火が、端をなめる。なめた端に、虫は来ない。来ない光の外で、脚が鳴く。鳴く位置を、俺は追わない。追わないことが、届く音の夜の版だ。
爺さんが、戸口に立っていた。空は暗い。暗い空を、見る役の人が、今日も見ている。見ている人の後ろで、俺は紐を直す。爺さんは、陰の話をしない。しないで、草のほうを顎で示した。
「虫は、空気だ。空気は、届く。届くものを、取りに行くな。行くと、穴だ」
穴だ。巣の中も、水の中も、夜の口も、穴だ。穴へ一人は、守りではない。俺は頷かなかった。頷くと、聞いた側になる。ならない。ならないことが、守りだ。爺さんは、頷かない俺を見て、短い息を吐いた。吐いて、
「耳がいいのは、家で足りる。家の外の音は、空だ」
と言った。空だ。斧の日も、虫の夜も、空だ。空に光を渡す人がいるうちは、俺は陰でいい。俺は短く言った。
「家」
家、で足りる。取りに行った、とは言わない。言わない子を、爺さんは見ないふりをした。見ないふりが、空のせいにする役だ。役を、続けてくれた。
午後ではない。夜だ。夜の小屋は、開けない。開けても、閉めたら止まる。止まる小屋では、虫も届かない。届かない場所の許可は、まだ出ていない。出ていないものを、耳が良くても開かない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、虫が増えても減る。減るものと、止まる息を、混ぜない。父が、窓の布を一度押さえて言った。
「口は、朝だ。境は、朝だ。山は、端だ。夜は、家だ。外は、まだ早い」
早い。雨が山を持っても、虫が届いても、町はまだだ。まだを、夜にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、家の端だ。端の袋の紐を直す。直す手が、緑の日と同じだ。同じでいい。前ではない。
母が、碗を下げて聞いた。
「遠い音、した?」
俺は窓のほうを見た。見たまま、
「虫」
と言った。虫、で足りる。穴のほうを分けた、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は虫、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。隣の子が、碗を置いて聞いた。
「明日、口、行く?」
父が、先に答えた。
「朝だ。夜は、家だ」
朝だ。夜は、家だ。同じを、子の耳にも置いてくれた。俺は短く言った。
「朝」
朝、で足りる。今夜は歩かない。歩かない靴が、端にある。ある靴の横で、虫が鳴く。鳴く夜は、火の年より残っている。残っているものを、数えられる夏だ。父が、短い息を吐いて言った。
「届くのは、耳だ。行くのは、足だ。足は、朝までだ」
足は、朝まで。耳と足を、混ぜない。混ぜないことが、夜の虫での守りだ。
炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の部屋の端は、虫の外よりマシだ。マシな理由を、置き方にしておく。窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。膨らんだ布の外に、脚の音がある。ある音の先に、口がある。口の先に、穴がある。穴へは、今夜も行っていない。行っていない家に、水がある。塩がある。緑がある。あるものを、明日も後ろで数える。蓋は持たなかった。荷は来なかった。来ない日も、足さない日も、雨の日も、村だ。村の壁のこちらで、聞く。聞くだけだ。取りに行かない。行かない、が、今の事実だ。
俺は端に座った。座ったまま、山の端の細い音を一度だけ思った。思って、辿らない。辿らないことが、夜の虫での、残った仕事だ。小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けない家で、袋の紐を直す。直して、寝た。
夜の虫が届きました。音も空気です。俺は家の端で聞いていました。取りに行っていません。外は、まだ早いです。




