第19話 閉じた鍋
水のあとに、余りが残ります。蓋をきつくしても、町の壺にはなりません。
溝が家を外してから、三日と少し。鍋に、芋が残った。残った芋を、母が別の鍋へ移した。移して、蓋をした。した蓋は、きつい。きつい蓋を、手で叩いて見せた。見せ方は、荷の男に似ている。似ていても、中身は町の壺ではない。うちの鍋だ。うちの鍋に、空気が入る。入ることを、俺は知っている。知っているだけで、抜けない。抜けない力が、村の壁だ。
数え七つの春は、蓋の話を聞いた春だ。聞いた話を、母が手で試す。試す役は、大人だ。俺は碗を並べる。並べる役は、子どもでもできる。できる役の横で、口は閉じている。閉じていることが、空気、とだけ言った夜を守る。守った言葉を、今日は増やさない。
「男は、入らんほうが持つ、と言った。うちも、閉じてみる」
母は短く言った。閉じる。小屋と同じだ。閉めた小屋は、無風だ。無風の場所で、俺は今も何もできない。何もできない閉じ方が、持つための閉じ方ではない。違うことを、言わない。言わないで、蓋の紐を母が巻くのを見る。見る役は、今日もできる。
父が、蓋を見て言った。
「町の壺は、町だ。うちは、鍋だ。明日、見る」
明日、見る。見るまで、口へは行ける。境へも行ける。行ける足でも、蓋の中へは入れない。入れない中は、穴に似ている。似ていても、火はない。あるのは、余りだ。余りの横で、俺は袋を持った。持って、裏の小屋へ行った。父が開けた。開けると、谷の端が入る。芋が動く。閉めた。止まる。止まった小屋と、きつい蓋は、似ている。似ていても、小屋の芋は生だ。生の芋は、風がなくても減らない。減らないものと、余りを、混ぜない。混ぜないことが、今日の仕事だ。
爺さんが、井戸のところで逢った。逢いたくて逢ったのではない。空を見ている人の横を、袋を持って通った。通った足が、止まらなかった。止まらなくていい。爺さんが、短い声を出した。
「母さんが、蓋をしておったな。町の真似は、辺境では持たん」
持たん。子どもが前に出ると辺境は持たない、と同じ口だ。同じを、蓋にも置いてくれた。俺は短く言った。
「鍋」
鍋、で足りる。空気が入る、とは言わない。抜けない、とも言わない。言わない子を、爺さんは見ないふりをした。見ないふりが、空のせいにする役だ。役を、続けてくれた。続ける人がいるうちは、俺は陰でいい。
午後、口まで歩いた。許可どおりだ。奥は見ない。見るのは、一本の道と、葉の端だ。人の目のないところで寄せても、半分だ。半分のまま、戻る。戻ることが、蓋のない日の仕事だ。帰り、境のほうは見ない。見ない線は、五日まえに決めた。決めた線を、余りのために動かさない。
夜、蓋をした鍋は、炉の端に置いてある。置いてある横で、母が碗を置いて、
「後ろにいるの、今日も上手いね。開けなかった」
と言った。上手い、の中身は、蓋を触らなかったことだ。触らない手が、袋だ。俺は碗を持った。
「うん」
父が、窓の外を見て言った。
「明日、中を見る。持たんかったら、鍋だ。持ったら、男に聞く。聞くのは、おれだ」
聞くのは、おれだ。前ではない。前の話を、子どもが町へ持っていくと、名前が付く。付く前に、碗の湯気で止める。止める役は、子どもでもできる。できる役だけする。俺は端に座った。座ったまま、蓋の中を一度だけ思った。思って、触らない。触らない夜の小屋も、閉めたままだ。閉めたまま、寝た。
翌朝、母が蓋を開けた。開けた匂いが、鍋ではない。薄い酸いだ。酸い余りを、母は口に入れない。入れないで、短い息を吐いた。吐いて、
「持たん。閉じただけじゃ、だめだね」
と言った。だめ。雪の口の、だめ、と同じ種類だ。同じを、蓋に置いた。置いた言葉が、事実だ。閉じただけでは、空気が残る。残った空気が、余りを先に進める。進めることを、前の世界では知っていた。知っているだけで、抜けない。抜く場所は、閉めた小屋に似ている。似ている場所で、今は何もできない。できないことを、今日も残す。残す壁が、村の壁だ。
父が、酸い鍋を見て言った。
「男の壺とは違う。うちは、今日食べる分だ。外は、まだ早い」
早い。荷の夜と同じだ。同じを、失敗の朝にも置いてくれた。俺は頷いた。頷いても、吹いたことにはならない。なるのは、位置だけだ。位置は、後ろだ。後ろで、酸い余りを土へ返す母を見る。返す役は、大人だ。俺は碗を洗った。洗う役は、できる。できる役を、名前にしない。
隣の女が、戸口に立った。立って、匂いを一つ嗅いだ。嗅いで、
「うちも、やってみた。持たん。男の話は、町だね」
と言った。町だ。壁の向こうだ。向こうの蓋を、辺境の鍋で真似ても、持たない。持たないことを、二軒で確かめた。確かめた朝は、名前が付かない。付かない失敗は、守りだ。守りを、息にしない。母が、隣の女に種の残りを一つ渡した。渡す手が、塩の底の日に似ている。似ていても、今日は種だ。種は、畝にある。畝にあるものは、蓋より持つ。持つ相手を、間違えない。子が、酸い鍋を指して聞いた。
「壊れた?」
母が、先に答えた。
「閉じすぎただけ。食べるのは、今日の鍋」
閉じすぎた。息の話にならない言葉だ。ならない言葉を、大人の口が置いてくれた。俺は碗を洗った。洗う役は、できる。できる役を、名前にしない。
午後、裏の小屋をもう一度開けた。開けると、谷の端が入る。芋が動く。閉めた。止まる。止まった中に、余りは置けない。置けば、酸いが移る。移るものと、生の芋を、混ぜない。混ぜない小屋を、今日も閉じる。閉じることが、蓋の失敗のあとの、残った仕事だ。父が扉を閉めて、
「口は、いい。境は、いい。蓋は、町だ。お前は、袋だ」
と言った。袋だ。三段の下だ。下でいい。下の紐を直す。直す手が、荷の日と同じだ。同じでいい。前ではない。奥ではない。外ではない。蓋の中でもない。
夕方、新しい鍋に塩が溶ける。溶ける音は、酸い朝より太い。太い鍋の前で、母が碗を置いて、
「閉じただけじゃ、だめだった。置く場所が、悪かったかな」
と聞いた。置く場所。置き方、に似ている。似ていても、熱の話ではない。余りと空気の話だ。話を、俺は碗のほうへ逃がした。逃がして、
「鍋」
と言った。鍋、で足りる。空気が残った、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は鍋、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。爺さんの空が、町の真似は持たん、と言ってくれた。言ってくれるうちは、失敗は家の中だ。家の中の失敗は、荷の男の耳に入らない。入らないことが、陰だ。
夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の鍋に、今日食べる分だけがある。ある分は、持つ。持たない蓋を、棚の上で見ない。見ないで、袋の紐を直す。直す春でいい。窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。膨らんだ布の外に、畝がある。畝の種は、蓋をしなくても土の下だ。土の下が、今の持つ、だ。町の持つは、まだ壁の向こうだ。向こうを、今は見ない。
俺は端に座った。座ったまま、きつい蓋を一度だけ思った。思って、作らない。作る場所は、閉めた小屋だ。閉めた小屋は、無風だ。無風では、今も何もできない。できない、が、今朝の事実だ。事実の横で、新しい鍋がある。ある鍋を、明日も後ろで数える。俺は口を閉じた。閉じたまま、酸い匂いを残さない。残さないで、寝た。
余りを蓋で閉じてみました。持ちませんでした。男の壺とは違います。俺は蓋を触っていません。小屋は、閉めたら今も無風です。




