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第18話 水の筋

種のあとに、雨が来ます。谷の細い流れが、家のほうへ筋を伸ばします。

 種をかぶせてから、五日と少し。空が、低くなった。低くても、嵐ではない。殴る風はない。あるのは、落ちる水だ。落ちる水が、谷の細い流れを太くする。太くなった筋が、畑の端を舐め、井戸の道を横切り、家の敷居のほうへ伸びる。伸びる先に、薪がある。ある薪が濡れると、炉が持たない。持たない夜は、置き方だけでは足りない。足りない朝は、手が仕事だ。


 数え七つの春は、種を畝に残した春だ。残した畝の上を、水が走る。走る水に、端はない。端がない相手は、借りられない。借りられない場所は、捨てる。捨てる練習は、氷の日にした。滑る薄片に、端はなかった。今日の筋も、同じだ。同じを、水の中で試さない。中は、穴より無風だ。無風の中へ顔を出すと、何もできない。できない場所へ、一人では入らない。入らない線は、奥の穴と同じだ。


「溝を切る。子どもは、高いところだ。水の中は、だめだ」


 父は短く言った。高いところ。下、の反対に見える。見えるだけで、前ではない。前は、溝を切る肩だ。肩は、足りない。足りない場所は、捨てる。捨てたまま、袋を持つ。袋は、濡れた葉を除けるためだ。空なら、七つでも持てる。持てる重さだけ。


 母が、隣の子の袖を持った。持って、


「川を見るな。落ちる」


 と言った。川、と呼ぶほどではない。谷の流れだ。流れの口は、井戸より浅い。浅くても、中は水だ。水の中は、覗かない。覗かない位置は、石の上だ。石の上で、袋を持ち直す。持ち直す手が、井戸の日と同じだ。同じでいい。


 爺さんも来た。空は見えない。低い。見る役の人が、今日は鍬を持っている。持っている人の後ろで、俺は石に座った。座る位置が、境の石に似ている。似ていても、待つ相手は父ではない。待つ相手は、溝だ。溝が間に合うまで、高いところで袋を持つ。


 父が畝の外に、短い溝を切った。切った土が、水の筋を家から逸らす。逸らす向きが、手だ。手の仕事に、息を足さない。足すと、名前が付く。付く前に、薪のほうを見る。薪は、家の壁に積んである。積んである上を、跳ねた水が舐めそうになる。舐める水しぶきは、空気に乗っている。乗っているなら、端がある。端は、壁沿いの漏れだ。炉の熱が、隙間を探している。探している漏れに、俺は乗った。しぶきを飛ばさない。飛ばす力はない。跳ねる向きだけ、薪から、すでに切った溝のほうへずらす。一度目、ずれない。二度目、しぶきが横へ落ちた。三度目、落ちない。四度目、落ちた。再現は、まだ半分だ。半分で、薪の皮は黒くならなかった。


 父は振り返らなかった。振り返らなくていい。光は、溝に渡す。渡す相手が、今日は空を見ない。見ない日は、鍬が空だ。隣の男が、短く言った。


「今の、溝が間に合った。水が、家を外した」


 溝が間に合った、でいい。竿が間に合った、の仲間だ。俺は口を閉じた。閉じていることが、子どもが前に出ない、だ。出ない子の袋に、濡れた葉が入る。入る重さは、七つでも足りる。足りる役だけする。


 子が、石から降りようとした。降りるな、とは言わない。言うと、前に出る。出ないで、見た。見た足が、濡れた苔で滑る。滑る向きに、端はない。端がない相手は、借りられない。借りられない滑りは、手が仕事だ。母が袖を掴んだ。掴んだ子が、筋へは落ちなかった。落ちなかった理由は、母の手だ。手でいい。俺は袋を持ち直した。持ち直して、水の面を見ない。見ないことが、覗かない、の残りだ。子が、短い声を出した。


「今の、母さんが早い」


 早い、でいい。光は、袖に渡す。氷の日と同じ渡し方だ。同じを、混ぜない。混ぜないことが、水の日の守りだ。父が、子の前に立って言った。


「水の中は、見るな。穴と同じだ」


 穴と同じ。中は無風、ではない。中は水だ。水は、もっと何もできない。できない場所を、今日も開かない。俺は短く言った。


「石」


 石、で足りる。ずらした、とは言わない。言わない子の横で、溝の水が音を立てる。立てる音も、空気だ。空気は、水の上では動く。中では、動かない。動かない中へ、手を出さない。


 午後、雨が止んだ。止んだ畝を、母が見た。見た種は、流れていない。流れていない理由は、溝だ。溝と、かぶせた土だ。土が持った、は、種の日の言葉だ。今日は、溝が持った、でいい。母が畝の端で膝をついて、


「種、残ってる。水は、家を外した」


 と言った。残ってる。火のあとの薄い畑が、今日は残った。残ったものを、息にしない。俺は高い石から降りた。降りた足が、濡れた土を踏む。踏んでも、筋には入らない。入らない線は、父が先に言った。言った線を、止んだあとも守る。


 裏の小屋の扉は、開けない。開けても、足元が濡れている。濡れた小屋は、閉めたら止まる。止まる小屋に、薪は置けない。置けないことを、忘れない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、水が増えても減らない。減らないものと、止まる息を、混ぜない。父が鍬を洗って、


「口は、いい。境は、いい。水の中は、だめだ」


 と言った。いい、と、だめ。許可と禁止が、同じ口から出た。出た言葉を、覚える。覚えることは、短い。高いところで袋を持つ。持つことが、水の日の仕事だ。


 爺さんが、溝のあとの道で立ち止まった。空はまだ低い。見るものがない日の、見る人だ。俺と目が合う。合わせない。合わせないまま、袋の紐を直す。爺さんは、陰の話をしない。しないで、


「水は、手だ。風じゃない。中へ、子どもは出すな」


 と言った。風じゃない。布の日と同じだ。同じを、俺は頷かなかった。頷かない子を、爺さんは見ないふりをした。見ないふりが、空のせいにする役だ。役を、続けてくれた。


 夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、種の夜と同じ太さだ。太い鍋の前で、母が碗を置いて、


「後ろにいるの、今日も上手いね。高いところで、待ってた」


 と言った。上手い、の中身は、降りなかったことだ。溝が間に合った、と言った男の鍬に、光はある。俺は碗を持った。


「うん」


 母が、碗を下げて聞いた。


「中、見た?」


 俺は袋のほうを見た。見たまま、


「石」


 と言った。石、で足りる。中は見ていない。見ていないことを、入った、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は石、で止めてくれた。


 夜、炉は小さい。薪の皮は、乾いている。乾いている理由を、溝にしておく。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。窓の外は、水の音が残っている。残っている音の中で、山羊が一度鳴いた。鳴いて、止まった。止まった柵は、筋の外だ。外にあるものを、数えられる春だ。俺は端に座った。座ったまま、水の面を一度だけ思った。思って、入らない。入らないことが、水の筋での、いちばん大きな仕事だ。小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けない家に、乾いた薪がある。ある薪で、明日も炉がある。ある、が、今の事実だ。俺は口を閉じた。閉じたまま、溝の音を聞いた。聞いて、寝た。

谷の流れが家のほうへ伸びました。溝が間に合い、薪は濡れませんでした。俺は石の上にいました。水の中へは入っていません。

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