第16話 隣の境
荷のあとに、隣村の道が残っています。俺は、境までです。
荷の男が泥の道へ消えてから、五日と少し。轍は、乾き始めていた。乾き始めた道を、父が朝、見た。見たまま、俺の靴も見た。見ることは、今日の許可だ。許可のある日でも、外はだめだ。だめは、荷の夜に足された。足された線を、破らない。
数え七つの春は、壺の蓋を見た春だ。見た蓋は、作らない。作らない手が、今日は袋を持つ。袋は空だ。空なら、七つでも持てる。持てる重さだけ持つ。前に出て隣村へ入らない。入る肩は、足りない。足りない場所は、捨てる。
「境までなら、一人でいい。先はだめだ」
父は短く言った。境。口と同じ種類の言葉だ。口まで一人。奥はだめ。境まで一人。先はだめ。先は、隣村だ。隣村の先は、町だ。町の先は、領主だ。いることを、耳は知っている。足は、境で止まる。止まる位置が、村の壁だ。
母は袖を持たなかった。持たずに、弁当の葉を一つ出した。出したまま、
「遅くなったら、叫べ。境の石までだよ」
と言った。叫ぶ声も、空気だ。届くか、は風次第だ。今は届く距離だけ歩く。届かない先へは行かない。俺は葉を袋に入れた。入れて、靴の泥を一度払った。払う役は、子どもでもできる。できる役だけして、出た。
一人で、荷車の轍を辿った。背負われる背中はない。土は、五日で硬い。硬い道に、谷風が一本、横から入る。暴れていない。乗る端が、見える。口の石まで来て、止まらない。止まらない許可が、今日は境だ。境は、口より遠い。遠くても、奥ではない。奥の穴は、焼け跡のほうだ。焼け跡へは、今日も曲がらない。曲がらない線は、荷が来ても動かなかった。境が開いても、動かない。
誰もいない。爺も、父も、母もいない。光を渡す相手が、いない。いない道は、吹いても名前が付かない。付かないうちに、葉を一枚、轍の内側へ寄せた。一度目、寄る。二度目、寄らない。三度目、寄る。四度目、寄らない。再現は、まだ半分だ。半分が、人の目の外でも半分だ。目の外でも、急に上手くはならない。ならなくていい。上手くならないまま、戻れることが、今日の仕事だ。
境の石は、低くて白い。白は雪ではない。乾いた苔だ。苔の先に、屋根が三つ見える。三つは、シデ村ではない。隣村だ。隣村の井戸は、うちより太い、と母が赤子の俺に言った。言った井戸を、今日は見ない。見るのは、石までだ。石に座って、奥を見ない。奥は、屋根の向こうだ。向こうへ一人は、まだ守りではない。俺は袋に、折れた枝を一本入れた。薪ではない。道の印だ。戻るとき、迷わないための。迷わない道が、境の口だ。
父は、すでに石の先へ行っていた。行く背中は、朝に見えない。見えない人を、境で待つ。待つ位置は、穴の日の口と同じだ。口で待て。境で待て。待てる子が、後ろだ。待っているあいだ、谷風が屋根のほうへ抜けていく。抜けていく先に、人の声がする。細い。父ではない。隣村の誰かだ。声も空気だ。空気は、境でも届く。届くだけで、中身は分からない。分からない声に、乗らない。乗る相手は、先にある流れだけだ。流れの先が村の外でも、俺は石にいる。
父が戻ってきた。戻る手が、借りた釘を一つ持っている。釘は、屋根の日の茅に使う。使う物を、隣村から借りる。借りる役は、大人だ。俺は釘を持たない。持たない手が、袋だ。父が、境の石を見て言った。
「先は、人が多い。井戸も太い。子どもは、石だ」
石だ。口だ。下だ。同じ種類の言葉だ。太い井戸を、俺は見ない。見ないで、袋を持ち直した。持ち直して、短く言った。
「境」
「それでいい」
それでいい、が、許可の全部だ。上手い、ではない。見方が上手い、でもない。境まで、で止めてくれた。俺は頷いた。頷いても、今日は光が来ない。一人で葉を寄せたことは、石だけが知っている。石は、話さない。帰り際、隣村のほうで鶏が鳴いた。鳴く声も、空気だ。空気は、境でも届く。届く先へ、足は出ない。出ない足が、今日の正解だ。
帰り、口の石のところで爺さんと逢った。逢いたくて逢ったのではない。空を見ている人の横を、袋を持って通った。通った足が、止まらなかった。止まらなくていい。爺さんが、短い声を出した。
「隣は、境だな。先は、わしでも多い」
多い。火の日も、荷の日も、子どもが前に出ると辺境は持たない、と言った人だ。持たない話を、境でも止めてくれた。俺は短く言った。
「石」
石、で足りる。屋根を見た、とは言わない。声を聞いた、とも言わない。言わない子を、爺さんは見ないふりをした。見ないふりが、空のせいにする役だ。役を、続けてくれた。続ける人がいるうちは、俺は陰でいい。
家に戻ると、母が釘を受け取った。受け取って、俺の靴を見た。見た靴が、黒い。黒い泥を、敷居で払う。払って、
「境、見えた?」
と聞いた。俺は袋のほうを見た。見たまま、
「石」
と言った。石、で足りる。先まで行った、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎないことが、許可を守る。後ろにいるのが上手い、と言った母が、今日は石、で止めてくれた。
午後、裏の小屋の扉を開けた。谷の端が入る。芋が動く。閉めた。止まる。境まで一人で行けても、閉めた小屋は無風だ。一人の許可は、通り道のある場所だけだ。通り道のない場所の許可は、まだ出ていない。出ていないものを、蓋の話のあとでも開かない。塩の袋は、棚の上で白い。白い塩は、風がなくても減らない。減らないものと、止まる息を、混ぜない。父が扉を閉めて、
「境までだ。隣村は、おれだ。町は、まだだ」
と言った。境。隣村。町。三段だ。三段のいちばん下が、俺だ。下でいい。下の袋の紐を直す。直す手が、荷の日と同じだ。同じでいい。前ではない。
夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、底の冬より太い。太い鍋の前で、母が碗を置いて、
「後ろにいるの、今日も上手いね。行って、待って、戻った」
と言った。上手い、の中身は、先へ入らなかったことだ。待ったことだ。俺は碗を持った。
「うん」
父が、窓の外を見て言った。
「釘は、借りた。先は、人が多い。口も境も、奥じゃねえ」
奥じゃない。穴でも、隣村でもない。ない位置を、今日も靴が知っている。知る靴を、端に置く。置く役は、子どもでもできる。
夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。窓の布が、弱い谷風で一度膨らんだ。膨らんだ布の外に、轍がある。轍の先に、境がある。境の先に、屋根が三つある。ある先へ、今日は歩いていない。歩いていない家に、釘がある。塩がある。あるものを、明日も後ろで数える。
母が、碗を下げて聞いた。
「先、行きたくなかった?」
俺は釘のほうを見た。見たまま、
「石」
と言った。石、で足りる。人が多い、を、自分の口にしない。しない子の袖を、母は引きすぎない。父が、薪を一本足して言った。
「境は、口と同じだ。先は、奥と同じだ。混ぜるな」
混ぜるな。穴と隣村を、同じ禁止にしてくれた。してくれる人が、家にも外にもいる。俺は頷いた。頷いても、屋根の三つは見に行かない。見に行かない紐を直す。
俺は端に座った。座ったまま、白い苔の石を一度だけ思った。思って、先は思わない。思わない町は、壁の向こうだ。壁のこちらで、袋の紐を直す。直して、寝た。
隣村の境まで一人で行きました。先へは入っていません。父が釘を借りて、俺は石で待ちました。




