第13話 井戸の氷
屋根のあとも、水は要ります。井戸の口が、凍ります。
屋根の白を落としてから、五日と少し。空は、まだ低い。低い空の下で、母が井戸の袋を持って戻ってきた。袋は軽い。軽い袋を、敷居に置いて、口を結んだ。結んだ口が、火の十日後に似ている。似ていても、煙はない。あるのは、氷だ。
「蓋は、開く。中が、白い」
母は短く言った。雪の日の蓋は、埋まっていた。今日の蓋は、開く。開いて、水がない。ない、ではない。白い。白い口は、雪の口とは違う。下だ。下の水が、動かない。動かない水は、流れに乗らない。乗らない相手は、借りられない。借りられない朝は、手が仕事だ。
数え七つの冬は、塩の底を分けた冬だ。分けた白が、水なしでは溶けない。溶けない鍋は、隣の熱い女にも届かない。届かない冬は、家が残らない。残らない話を、父が先に立った。立って、俺の靴は見なかった。見ないことが、口までの禁止だ。禁止は、井戸では解けない。井戸は村の中だ。中の後ろに、付いていい。
「火を持っていく。子どもは、口を覗くな」
父は短く言った。口を覗くな。穴の日と同じ種類の言葉だ。井戸の口は、穴の口より浅い。浅くても、中は無風だ。無風の中へ顔を出すと、煙が戻る。戻る煙を、火の日に知っている。知っている子は、覗かない。覗かない位置は、戸の陰だ。袋だ。前ではない。
井戸まで、爺さんも来た。空は白い。見る役の人が、今日は枝を持っている。短い枝に、火が付いている。松明ではない。穴の日と同じ種類の枝だ。煙が、すぐに顔の前で揺れる。外なら、谷が持っていく。井戸の口では、持っていく相手が少ない。少ない相手を、探す。探す役は、陰でもできる。
隣の男も来た。屋根の日に竿を突いた男だ。熱い女は、起きているらしい。起きている家の水が、今日は要る。要る人が、前に立つ。立つ人の後ろで、俺は袋を持ち直した。持ち直す手が、塩の日と同じだ。同じでいい。
父が枝を、井戸の口へ近づけた。近づけた煙が、白い面の上で止まる。止まって、散らない。散らない煙は、穴の中の芋と同じだ。通り道がない。借りる相手が、いない。いない、と思っていた。
いない、と思っていた。炉は、空気を動かしていた。上へ。ただ上へ。井戸の外にも、炉の熱に似たものがある。枝の火だ。火は、空気を食う。食ったあと、熱い側が上へ逃げる。逃げる向きが、今は空だ。空へ逃げた熱は、氷に届かない。届かない向きを、少しだけ戻す。戻す、は、部屋の端と同じだ。先にある流れに、薄く重ねる。押して氷を割らない。割る力はない。煙の端だけ、白い面のほうへずらす。一度目、ずれない。煙は空へ消えた。二度目、白い面の縁が、少しだけ曇った。曇りは、熱だ。三度目、曇らない。四度目、縁が濡れた。再現は、まだ半分だ。半分で、父の枝が、白い面に触れた。触れた先が、薄く割れた。
父は振り返らなかった。振り返らなくていい。光は、火に渡す。渡す相手が、今日は空を見ない。見ない日は、枝が空だ。爺さんが、割れた縁に竿の先を入れた。入れた先から、黒い水が少し顔を出した。顔を出した水は、細い。細くても、ある。ある冬と、ない冬は違う。
「今の、火が届いたな。枝の置き方がいい」
隣の男が、空を見て言った。置き方。母の言葉だ。言葉が、井戸でも使える。使えるなら、息の話にはならない。ならない位置で、俺は袋を渡した。渡すとき、口は閉じている。閉じていることが、子どもが前に出ない、だ。出ない子の袋に、黒い水が入った。入った袋は重い。重い袋は、俺の肩ではない。父が持つ。俺は空の袋を持って、掘った道を戻る。
帰り、母が隣の戸を叩いた。叩いて、水を一つ置いた。置いた水を、熱い女が受け取った。受け取った手が、屋根の日より安定している。安定している顔を、母は見ないふりをした。見ないふりが、許可を守る。子が、俺の袋を見た。見たまま、
「下、上手い?」
と聞いた。下。屋根の日の言葉だ。上手い、の中身を、子は知らない。知らない子に、息は渡さない。俺は短く言った。
「袋」
袋、で足りる。煙をずらした、とは言わない。言わない子の袖を、母が引いた。引いて、うちへ戻った。
井戸のあとの道で、隣の子が走った。走るな、とは言わない。言うと、前に出る。出ないで、見た。見た足が、割れた氷の薄片の上で滑る。滑る向きに、端はない。端がない相手は、借りられない。借りられない滑りは、手が仕事だ。母が袖を掴んだ。掴んだ子が、井戸の口へは落ちなかった。落ちなかった理由は、母の手だ。手でいい。俺は袋を持ち直した。持ち直して、氷の薄片を見ない。見ないことが、覗かない、の残りだ。子が、短い声を出した。
「今の、母さんが早い」
早い、でいい。光は、袖に渡す。渡す相手が、今日は火ではない。火は、氷に届いた。袖は、子に届いた。届いたものを、息にしない。父が、子の前に立って言った。
「井戸の口は、見るな。落ちる」
見るな。穴の日と同じだ。同じを、氷の日にも繰り返す。繰り返す人が、前に立つ。立つ人の後ろで、俺は袋を持った。持ったまま、うちへ戻る。
午後、父は山へ行かない、と言った。氷が割れただけだ。道は、まだない。ない日の許可を、守る。裏の小屋の扉を、父が一度開けた。雪は、屋根の日より薄い。薄いのに、中は動かない。動かない。霜の日は、開けた瞬間に芋が動いた。今日は、漏れの一部がまだ白い。白い漏れは、塞がったままだ。塞がれた小屋は、井戸の氷に似ている。似ていても、火は持っていけない。持っていけば、芋が焦げる。焦げるものと、割る氷を、混ぜない。塩の袋は、棚の上で薄い。薄い白は、水が戻っても増えない。増えないものと、黒い水を、今日は鍋で混ぜる。混ぜていい相手は、そこだけだ。
父が小屋を閉めて、
「春は近い。口は、まだだめだ」
と言った。近いと、だめが、同じ口から出た。出た言葉を、覚える。覚えることは、短い。近いから行かない。行かないことが、雪の口での仕事の残りだ。残りの仕事を、今日もする。
爺さんが、井戸のあとの道で立ち止まった。空は白い。見るものがない日の、見る人だ。俺と目が合う。合わせない。合わせないまま、袋の紐を直す。爺さんは、陰の話をしない。しないで、
「氷は、火だ。風じゃない。それでいい」
と言った。風じゃない。空のせいにした人の、別の言い方だ。別なのに、前に出さない、は同じだ。同じを、俺は頷かなかった。頷くと、ずらした側になる。ならない。ならないことが、守りだ。爺さんは、頷かない俺を見て、短い息を吐いた。吐いて、戻った。戻る背中が、掘った道をまた白くする。白くなっても、水は家にある。あるうちは、急がない。
夕方、鍋に塩が溶ける。溶ける音は、底の夜より太い。太い鍋の前で、母が碗を置いて、
「後ろにいるの、今日も上手いね」
と言った。上手い、の中身は、覗かなかったことだ。枝を持たなかったことだ。火が届いた、と言った男の空に、光はある。俺は碗を持った。
「うん」
父が、窓の外を見て言った。
「水は、持った。隣も、持った。口は、春までだ」
持った、と、春まで。井戸は解けた。口は、まだ白い。白い口へ一人は、人を食う、と爺さんが言った。言った言葉は、氷が割れても残る。残る許可を、靴が知っている。俺の靴は、端に置かれたままだ。
母が、碗を下げて聞いた。
「中、見た?」
俺は袋のほうを見た。見たまま、
「袋」
と言った。袋、で足りる。中は見ていない。見ていないことを、覗いた、とは言わない。言わない子の袖を、母は引きすぎない。引きすぎない母が、今日は袋、で止めてくれた。止めてくれる人が、家にも外にもいる。
夜、炉は小さい。上へ逃げる熱は、壁沿いに少し戻る。戻した、とは言わない。鍋の位置が横だ。横の部屋の端は、井戸の氷よりマシだ。マシな理由を、置き方にしておく。窓の外は、音が少ない。少ない音の中で、隣の子が水を飲む音がした。飲む音も、空気だ。空気は、割れた口の上でも少し動く。少しだけだ。動いた先に、黒い水がある。ある水を、明日も袋で運ぶ。運ぶ役は、子どもでもできる。できる役だけする。
父が、枝の火を消して言った。
「氷は、手と火だ。お前の袋は、あとだ」
あとだ。前ではない。前に出た火が、白い面を割った。割ったあとの袋が、俺だ。俺でいい。爺さんの、風じゃない、が、父の口でも残っている。残っている言葉を、増やさない。増やさない夜に、谷の口を一度だけ思った。思って、行かない。行かない靴が、端にある。ある靴の横で、割れた井戸がある。ある水が、春までのつなぎだ。つなぎを、急いで口に変えない。
俺は端に座った。座ったまま、白い面を一度だけ思った。思って、割らない。割る役は、枝だ。枝の横で、小屋の無風を一度だけ思った。思って、開けない。開けないことが、氷の日の、残った仕事だ。寝る家に、水がある。塩がある。隣にも、水がある。あるものを、明日も後ろで数える。俺は口を閉じた。閉じたまま、水の音を聞いた。聞いて、寝た。
井戸の口が凍っていました。火が届いて、水が戻りました。俺は袋を持って、口は覗いていません。谷の口へも行っていません。




